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自分の感覚で、自分の納得する衣装を身につける事が、相手や周りへの最大の敬意にもなるのだと思う

私のところで織った葛布の帯をお求めくださる方は、ご自身のセンスで自由に着こなしてくださる方が多い。特に、いわゆる着物の現代的ルールからほんの少し逸脱するようなところの絶妙なバランス感覚でお使いいただくことが多く、それは本当に嬉しい限り。
この感覚は先週ここで配信した「絶妙な境界線を絶妙なバランス感覚で綱渡りする存在」の話にも通じる

パーティーで葛布の帯を締めて下さった方がfacebookにその様子を投稿されていて、それがまた微妙なラインをすり抜けるようなスリル満点の着こなしで驚いた。なにしろその帯は六寸帯なのである。
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小紋の着物に、葛布独特のハリを生かしてふわふわと締めてくれている。その方との雰囲気ともマッチして、本当に素敵だった。どの着物を着ていくか、随分悩んだ末の選択だったそうだが、最終的には、諸々の決まり事はひとまず避けての、ご自身の感覚を信じての決断だったのだと思う。だって本当にお似合いで素敵だったから。

昨今、「着物はもっと自由でいい」が合言葉のようになっていて、それは大変良い傾向だと思うが、大抵の場合、「フォーマルな場は除いて」「主役がいない場合は」などの但し書き付きだ。
でもそれは本当に「正しい但し書き」なのか?

その方の六寸帯の着こなしをキッカケに、そんな風にも思えてきたし、衣服が自己表現のツールのひとつなのだとしたら、他から決められるルールをそこに取り入れることに、我々はもっと敏感にならないといけない、とも思った。

ルールに従うことで自分の気持ちが最も落ち着くならばそれでいい。だが、そのパーティーの開催趣旨、主役へ贈りたい気持ち、自分の立場、自分の好きなこと嫌いなこと、季節、全てを考えて、自分が一番納得する衣装を身につけていくのが、相手へ最大の敬意を表することになるのではないか、すると、その行為は、「フォーマルな場ではこうするもの」に従うのと、根本的には何も変わらない。

そもそも、「フォーマルな場ではこの着物」がルール化されたのは、何のことはない、つい最近だ。それもどうも、人々の巻き起こしたブーム〜ミッチーブームや東京オリンピックをきっかけに起こったムーブメント〜や、それに乗った着物業界の、生き残りをかけて挑んだ戦略の結果だったらしい。
(参考:伊藤元重、矢嶋孝敏『きもの文化と日本』日経プレミアシリーズ)
私の見解では、着物が消滅しないように「伝統化」するために、人々が必死に努力した結果であると見ているのだが、そのことの説明はまた別の機会に譲るとして、

例えば日本で、フォーマルな場で、余程の場所でない限り、洋服だったら、結構テキトーで、「それらしく」見えるものを、皆さん着ていると思うのだがどうだろうか。例えばフォーマルな場として捉えられていることの代表「結婚式」も、今やもはや、本当に「フォーマルな場」なんだろうか?(私には、ビジネスの絡んだお祭りにしか思えない。宗教的概念の全くない、単なる楽しみとしての祝祭)
としたら、別に着物も自分の感覚で着こなしを楽しんでも良いのだと思うし、繰り返しになるが、それがその会の主催者や主役の方への最大の敬意にもなるのだと思う。

因みに余談だが、先述の六寸帯をお使いくださっている方は、同じ帯を、木綿の着物にも合わせて着てくださっていて、それも本当に素敵だった。

葛布の六寸帯を、ご自身の感覚で、そんなふうに着てくださっている。それがまたお似合いで。
嬉しくて、ただ嬉しいとしか言葉にならない。

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雪草乃記 vol.4  2022.6.4
毎週土曜午前8時頃配信
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雪草 葛布帯 | Sessou Kudzufu-obi
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