それって通っている学校が違うだけじゃん
私が学生の頃、ガザ地区の映像がNHKで流れた。
壁に現地の言葉で、こう書いてあった。
「お前は誰だ? キリスト教か? ユダヤか? イスラムか? 」
この落書きに対して
「人間だ」
と書かれていた。
この記憶が今でも残っている。
だから、このnoteを書くことにした。
他にも書きたい事は沢山あった。
音楽の話や、船酔いで顔が真っ青だっだ為、薬の売人と疑われ全裸にさせられた男友達の話など、その他にも沢山ある。
しかし、他人事とは言えなくなりそうなので、ここに印す。
ここでは、あえて「宗教」について書き殴る。
日本では公の場で宗教について話すのは、相応しくないとの意見が多い。
アメリカやカナダでも初対面の人と話す内容でもない。
(定例文で天気の話をする日本語の教科書と相手の体調を聞く英語の教科書では、根本的な人との向き合い方が違うが。)
そうは言っても、宗教は、単にアイデンティティなのだ。
カタカナ言葉を使わずとも本来の日本語には、この言葉をさす言葉はあるのだが、使うことさえ忘れてしまった。
あなたは何をもって存在し、何を愛すのか?
愛国心とも呼べるだろう。
本来はそれだけの話題であるのに。
こんにちに至るまで、宗教戦争はなくならない。
イスラエル問題にしても親族においての宗教観にしてもだ。
戦争と言わないまでも争いや仲違いが絶えない。
「それらは宗教が原因ではなく、人種や国の問題だよ。」との意見もあるが、一度深掘りして考えて欲しい。騙されないでほしい、十分に宗教も関わっている。
私は、戦争反対という訳ではなく、
「小さな価値観で殺しあう奴らは全員死ね」
と心の底から思っている。CGじゃない暴力はいらない。
私が訴えたいのはラブ&ピースではない。
反論は要りません。大人しく、くたばってくれ。
はじめに私について開示する。
好きな宗教は、神道とスパゲッティモンスター教・スピノザ である。
海外で、イスラム教のモスクの中で礼拝に参加した事もある。完全に何もない空間を彼らは作り上げており、こういう方法もあるのかと感じた。
小さなころはキリスト教の幼稚園に通っていたし、正月は毎年、神社に参拝をする。
少し上にあげた中で"神道"の説明をしたい。
日本固有の宗教である「神道」この宗教は「ない宗教」と呼ばれる。
・教祖はいない
・救いも救済もない
・教えもない
これらはあまりにも古すぎて、なくなったものと思われるものもあるが基本的には"ない"。
現在ある神殿に関しても本来はなかった。
家を建てたりその土地に住む際に行われる地鎮祭を見てもらえればわかるが、竹や榊をポンと地面に刺し、縄をはり、その場を依代として祭祀を行う。
終われば竹や縄は処分されるし、その場所も変哲もないふつうの場所に戻る。
そう、いろいろと他の宗教に比べ空洞なのだ。
そのおかげで、神道はいろいろな宗教と対峙してきたが共存してくることができた。この共存は世界で例がない。
住み分けでの共存ではなく、神仏習合に見られるように融合し共存しているのだ。
もしかしたら、これは「無い」と呼ばれる神道の一番大切にすべき教えが簡略化され残された結果であり、今の宗教問題を解決する希望であるかもしれない。
ここで宗教の意味を定義したい。私は大自然(≠)とも呼べると思っているが、ここでは辞書の定義をかりよう。
辞書にも書いてある通り、この言葉は大きく2つの意味を持つ。
1.信仰という意味
2.組織、団体での意味
この文章では2の意味での宗教という言葉を使っている。
2の意味で使う場合、宗教に関する争いは、属する学校が違うぐらいのものなのだ。
言うなれば、宗教戦争は他校の生徒へ殴り合いの喧嘩をするようなものである。
現実では、殴り合いではなく人が死んでいるが……。
学校という例えもしたが、「登山道」でも良いだろう。
山は、どの登山道を辿っても目指す道は同じだ。
頂上を目にし、最後は街に無事に着く。
素晴らしい体験をし、街でどう生きるのかが大切である。
それなのに、
「この登山道が一番で、その他は偽物だ」
「他の登山道を登る奴らに石を投げろ」
などの意見を頻繁に目にする。
確かに危険な登山道もあるだろう。遭難の危険性もある。
だからって争わなくても良いではないか。
ここで疑問を持つ人は、私と根本的な宗教の信仰の対象が違うのであろう。
私は、宗教が1.2.のどちらの意味で使われる前から信仰の対象は存在するし、その存在は人間が存在する前からあるものである。
はるか昔から積み重なってできた地面に私たちは生活をしている。気温一つとっても、100度も現在と差があれば我々は存在できない。
キーボードを打っているこの指だって、何もないところから人間に作れといわれてもできやしない。それが偶然でも奇跡でも必然でも凄いことだ。
信仰の対象について、現在の科学で論じることのできる域を超えた存在だと認識している。
だから、山の頂上と同じで陽の角度や気象条件含め、人間が定義できるものではない。
山の頂上は雨の時もあれば晴れの時もあるのと同じだ。いつでも景色は違う。
そこで、「我々の山の頂上は偉大なり」と言ったところで、発言者が世間知らずなだけだ。それに山は無数にある。宇宙にはもっと凄い山も連なっているだろう。
そもそも、争いの原因となる「私の」「我々の」とはなんだろう。
欧米でよく聞く
「Oh my God」
最近ではGoshと発音を変えたりしているが、まず、そこがズレていると私は考える。
まず「my」がおかしいだろ。
なんだ、「わたしの」とは。
所有物ではなく、「自分の信仰する所の」という意味なのはわかる。
では、Godの例えとして地球を使おう。何かの感嘆のたびに「oh私の地球よ!」と言う人がいたらどう思うだろうか。
はっきり言って、その人がどうなろうが地球は回る。
また、「私が」と話す人は自分が一番大切だろう。
もちろん私もそうだ。この大切な気持ちはどんなに広くとも個人や家族、団体の域を出ることはない。
大切なのだ。その大切なことは別の誰かも同じように大切にしていることに気が付いてもらいたい。
上記で述べたように信仰の対象や目的は、少しの違いはあれど皆同じはずだ。
それなのに「私の」とは自己主張が強過ぎるし、"私"が死のうが生きようが存在する"対象"に向かって信仰しているのに矛盾が生じてしまう。
対象は普遍名詞でないとおかしい。
そこを自分の定義に落とし込んだ段階で、固有名詞に成り下がってしまう。
そもそもGodに対して"私"の存在は小さすぎる。「my」とつけれる概念ではない。
所有する事が悪いのではなく、自分のものに対する認識がずれていると考える。
いつだって″与えたもの″それが自分のものだし、与えたからと言って自分のものにならないことや物はたくさんある。そもそも自分のものとは?
次に、目的や死について、仏教では天国と地獄の違いに関して
・長い箸を持って食べものを囲んで、互いに食べさせあうか
・自分だけ食べようとして、箸が長すぎるために食べれず餓死する
この違いしかないとしている。
そこにある食べ物、食べ物と人がいる場所を隔てる谷底、長くて食べにくい箸は、天国も地獄も違いはないそうだ。
人生の死後を含め、どこに最終的な到達点や目的を持つか人それぞれだ。我が強すぎると衰弱していくのは、この世の常なのかもしれない。
道教において、例えば口の中で最後まで役に立つのは、一番柔らかい舌という話があるのと同じだ。
終わりに題名の解説に入る。
つまるところ
宗教宗派は、悟り(真理)への方便手段である。
我々は学校に通い、個人や国の違いはあれど社会に出て働く。
自分の為に金を稼ぐ人もいれば、家族の為、はたまた国家の為、世界の為と働くものもいるだろう。
目的は違えど社会に出てからの行為に違いはない。これは真理だ。
与えた人間が一番利益を得るように世界はできている。
目標は変わらない。
という事は、目標が同じであれば社会に出る前の学校は、どんな学校に通っていようが敬意を払うべきものなのではないだろうか。どの学校に通うかによって将来の方向性は違ってくるだろう。生まれた国や周りの人によって運命も左右されてしまう。
左右されるが、周りが悪いからと言って自分が悪くなる必要はない。
同じ年代であったり、同じ文章や風景を感じ取れる世に生まれたわけだ。ざっくり仲間と定義してもいいのではないかとおもう。
全員が高学歴でなくていいし、全員が同じ教育を受けなくてもよい。役立つ環境が違うのだから。
結論として私は、みんなとワイワイしたい。そうでなければ私たちに触るな。
今後どうなるかわからない。
日本も戦争になるかもしれないし、ならないかもしれない。
三島由紀夫は
「Who knows」を「神のみぞ知る」
と訳した。
私は、それをふまえた上で「安心」と訳したい。
何故ならば「誰かが知ってくれている」それだけで「安心」だと思うからだ。
辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、貧しいこと、
すべてを《誰かが》知ってくれているのなら—————。
私は、それだけで寂しくはないし安心だ。
きっと一人ではない。
だから、こうしてキーボードを叩くことができている。
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