【短編小説】君の好きを響かせて
シロクマは森の中帰り道を歩く途中、ピアノの音を聞いた。そのピアノの音色は綺麗であり、のびのびとしており、とても独創的だった。頭の中にはどんどんと幻想的な世界が広がり、まるでおとぎの国の住人になったかのような気分になる。
シロクマは惹かれるままに横道に逸れて、ピアノの在り処へと足を運ぶ。するとそこには伴奏を続ける少女がいた。少女は森に差し込む月明かりをスポットライトのように浴びながら、ただ一心にピアノを弾いている。体を揺り動かしてリズムに乗り、まるでピアノの音色に自分自身の存在を委ねているかのようだった。
やがてピアノの演奏を弾き終えると、時が止まったかのように少女は静止する。そして一拍の間を置くと椅子から立ち上がり、黒い髪と白いドレスを揺らしながら振り向いた。
「......誰?」
シロクマは少女に見惚《みと》れていたことにしろどもどろになり、顔を赤らめて俯いてしまう。
「......僕は、シロクマだよ。この森に住んでいるんだ」
「そう......」
少女が関心なさそうな素振りで言うと、椅子の隣に置いてあった学生カバンを持って立ち去ろうとする。
「あ、待って!」
シロクマは手を伸ばして思わず少女を呼び止めた。
「君の演奏、きれいだね。なんていう曲なの?」
その呼びかけに少女は少ない動作で、またシロクマにそっと振り返る。
「名前はない」
「えっ?」
「私のオリジナルの曲だから、タイトルはないの。私はこの曲が好きだから弾いてるだけ」
そういうと彼女は森の外へと進み帰っていった。ピアノの演奏がなくなった森の中は、寂しいほどに静けさに包まれる。
(一体あの子は何者なんだろう? どうしてこんな森の奥でピアノを弾いてるのかな?)
そんな疑問を抱きながらも、シロクマは自分の家へと帰っていったのだった。
******
シロクマは朝目覚めると、いつもと同じように仕事場へと向かった。働いている場所はCDのレンタルショップ。ニンゲンの町の片隅でひっそりと運営されている小さな年季の入った店舗だった。
(今日もお客さん来ないなぁ......)
そこで雇われ店長をしているシロクマは心の中で小さくぼやく。店の名前がロゴされた青いエプロンをして、レジの前でただ突っ立っている。シロクマは一つ生欠伸をした。
――ここはいつか潰れるんじゃないかなぁ?――
そんな心配がよぎりながらも、暇つぶしに店に並ぶ商品を眺める。デビューしたばかりの新人バンドマンの楽曲から、既に引退した演歌歌手の歌謡曲まで、ニンゲン社会の様々なCDが商品棚に並べられている。
けれどシロクマにはどれも全く同じに見えた。何しろシロクマはニンゲンの町に引っ越してきて、それほど時間が経っていなかったからだ。苦労してこの店の面接に受かったのも、たった数ヶ月前の出来事である。シロクマはとてもニンゲン社会に疎かったのだった。
そんな様子でシロクマが暇を持て余し、今日も客など来ないだろうと時間潰しのやり方を考えていた所、店の扉がふいに開いた。
(あっ!)
思わずシロクマは小さな声を漏らす。そこに現れたのは、昨日の夜森でピアノを弾いていた少女だった。少女は静やかな足取りで店の中へと入っていく。
けれどその様相は昨日の少女のものとは随分と違っていた。飾り気のない真っ白だったドレス姿ではなく、ギラギラとした派手な制服を着ていた。目元には星のシールが貼られており、腕にはピンク色のブレスレット。チェック柄のスカートの丈も短いものだった。真っ直ぐに下ろされていた艶やかな黒い髪も、今ではツインテールに結われている。
(随分と森で見た時と印象が違うなぁ)
シロクマは目を瞬《しばたた》かせて少女を観察する。少女は無言のままで、シロクマがいるレジの前まで来た。
「『KAーRUCK』のCDありますか?」
少女は開口一番シロクマに尋ねる。シロクマは少女の問いかけに何とか記憶の糸を手繰り寄せた。確か『KAーRUCK』はデビューしたばかりの新人バンドマンのユニット名だ。
「は、はい、本日入荷いたしました。『KAーRUCK』のCDのご購入をご希望ですか?」
必要以上にかしこまったシロクマは、しどろもどろに少女に応対する。派手な格好とは裏腹に無表情な少女は、続けてシロクマに問いかける。
「どこに置いてありますか?」
「あっ、え~っとそっちの突き当りまで進んでから、更に下に向かって3番目の棚を右に曲がって、えっ~と、それからぁ――」
シロクマは詰まり詰まりに説明を続ける中、少女はふいに口を開く。
「わかりにくい」
「えっ?」
そしてぴしゃりとシロクマに言い放った。
「わからないから、そこまで連れて行って」
「あっ、はい。ご案内します」
シロクマは慌ててレジ前のコーナーから出て、少女を案内した。やがて二人は目的のCDの前に到着する。少女は『KA―RUCK』のCDを手に取り、まじまじとケースの中のジャケットを見つめた。
「お好きなんですか?」
シロクマはじっと動かさない少女のことが気にかかり、遠慮がちに問いかける。
「わからない」
「えっ?」
「初めて見たバンドだから。曲も聴いたことがない。好きかどうかはまだわからない」
少女の答えにシロクマは戸惑う。全く知らないバンドの楽曲を、どうして買おうとしてるのだろうか?
「あの、ご試聴なされます?」
シロクマは控えめに提案すると、少女はしばらく沈黙した。
「......うん」
そう彼女が返事すると、またシロクマは少女を試聴コーナーへと案内した。二人が到着すると、少女は慣れた手付きでヘッドホンを頭につけ、『KA―RUCK』の曲が収録されているナンバーに曲目を合わせる。目を半分閉じて黙りこくり、無表情に楽曲を聞き続けた。
「いかがですか?」
しばらく時間が経ってから、シロクマはそっと少女に尋ねる。
「......あんまり、良くないね」
少女はそう答えてヘッドホンを外した。その表情はやはり代わり映えがなく、活気を感じさせないものだった。
「あ、あの、でしたら購入は止めますか?」
シロクマはまた遠慮がちに少女に尋ねる。
「ううん、買う。これ、いくらですか?」
けれど少女はシロクマの予想とは裏腹な答えを出したのだった。
******
それから3日ほどが経ち、シロクマが森の家へと帰る途中、またピアノの音が流れてきた。その演奏を聞き、シロクマはすぐに思い当たる。
(あっ、あの子の曲だ)
シロクマはまた帰り路の道を外れ、ピアノのある場所へと赴いた。そこにはやはり白いドレスを着た少女がおり、目を瞑って鍵盤をしなやかに叩いていた。無表彰だった顔には生気が宿り、微笑みさえも浮かべている。少女が作曲したというその名も無い調《しらべ》に、シロクマはただぼうっと聞き惚れていた。
やがて曲目が終わり、少女は鍵盤から指を下ろす。
「......また、あなたなのね」
少女は振り返りもせず、シロクマがやってきたことを認識する。
「う、うん。立ち聞きして悪かったね。邪魔しちゃったかな?」
「ううん、別に。私はピアノを弾きたいだけだから」
やがて少女は椅子の上で足を滑らせ、体を後ろに回転させて座り直す。体をリラックスさせており、どうやら一息入れているようだ。
「ねえ、君はどうしてこんな森の奥でピアノを弾いているの?」
シロクマは気になっていたことを少女に尋ねる。
「この森はニンゲンの町から遠いところにあるし、ここまで来るのは大変でしょ? 君は自分のピアノを持ってないの?」
シロクマの問いかけに、少女は椅子に足を揃えて首を横に振った
「ううん、あるよ。私のピアノ。でも町で私のピアノを弾いても、誰も私の演奏なんて聞かないから。ここで弾いているのは、私の気持ちと何となく波長が合うから」
少女は淡々とした声で答えた。先程までの楽しそうに演奏していた無垢な様子とは打って変わり、元の無表情なものに戻っている。
「えっ、どうして? 君の演奏はすごくいいものだよ? とても綺麗で、独創的で、まるで幻想の世界の中に浸ったような気分になるよ」
シロクマは意外に思いながらも、少女の伴奏を手放しに褒めた。そして同時に疑問がよぎる。どうしてニンゲンたちはこんな素晴らしい演奏を聞かないのだろう? それはとてももったいないことのように感じたのだった。少女はシロクマの疑問に答える。
「......うん。だってピアノの独奏なんて今どき誰も好まないから。みんな他の音楽に夢中になってる。JーPOPとか、アイドルの歌とか、そういうものがニンゲンの町では流行ってるの。町でピアノが好きなのは、私だけ」
そう語ると、少女は俯いてどこか寂しそうな表情をした。夜空から降り注ぐ月明かりに照らされるのは、彼女ただ1人だけだった。シロクマはそんな寂しげな少女の様子を見て、大きく首を横に振る。
「ううん、そんなことないよ! 僕もピアノが大好きなんだ! 僕が子供の頃は、ずっとずっとピアノばっかり演奏してた。将来は音楽家になろうとも夢見てたんだ。今はもう仕事が忙しくて全く弾いてないけど......」
シロクマの大きな声に、少女は真っ直ぐな瞳を向けてただ話を聞いている。けれどやがて諦めたように、また目を閉じ顔を伏せた。
「......そう。そうなんだ」
太ももの上に両手を添えて、少女は小さく吐息を吐く。夜の静寂に溶けてしまったかのように、そのまま少女は沈黙する。けれどしばらくして時が経つと、少女はまた言葉を紡いだ。
「ねえ、シロクマさん」
少女は顔を上げ、再びシロクマに瞳を合わせる。
「『好き』で居続けるって、どうしたらいいのかな?」
「えっ?」
少女の問いに、シロクマは理解できず言葉を詰まらせてしまう。けれど少女はそれに構わず語り続けた。
「私もね。小さな頃からピアノが大好きだった。お母さんにも無理言ってね、ピアノを買ってもらったの。ずっとずっと毎日、大好きなピアノの曲ばかり演奏してた。でもね、学校の皆はいつも他の音楽が好きだったの。みんなみんなアニメの曲とか、アイドルの曲とか、そんな話ばっかりしてた」
少女は少しずつ吐き出すように自分の過去を語る。やがて月明かりに雲がかかり、少女の顔は影となる。少女の表情は見えなくなり、それは感情のない人形のような印象を抱かせた。
「私はね、独りでいるのが嫌だったから、ずっと友達に合わせようとしてたんだ。何が面白いのかよくわからないアニメを見たり、どこがかっこいいのかわからないアイドルの番組を見たり。正直私はね、アニメとかアイドルとか、みんなが好きになるようなものが好きになれなかった。
でもね、私が『好きじゃない』っていったらみんな友達は離れてしまうから。だからね。私は独りになりたくなかったから、いつも友達が『好き』っていうものを『好き』っていうようにしてたんだ。そうやって私はいつも、独りじゃないフリをし続けてきた」
少女は独白のようにそこまで語り終えると、やがて静かな動作で椅子から立ち上がる。学生カバンを手に取り、黙って帰り支度を始める。
「あっ、待って!」
ニンゲンの町へと戻っていこうとする少女を、シロクマは呼び止めた。
「また、この森でピアノを弾きに来てよ。僕は、君が弾くピアノの演奏が好きなんだ」
そのシロクマの告白に少女はゆっくりとした動作で振り返る。月明かりが再び照ったその顔は微笑みを湛《たた》えており、けれどやはりどこか寂しそうであった。
*****
その後、シロクマは相変わらず誰も客が来ないレンタルショップで働いていた。いつものように生あくびをかき、ぼんやりとレジのコーナーの後ろに立っている。あれから少女は森の奥でピアノを演奏しに訪れることがなくなっていた。
(あの子はどうしたんだろう?)
少女の顔を思いやり、シロクマは色々と心配がよぎる。何か彼女の元に事件でもあったのだろうかとさえ思えてくる。けれどシロクマの懸念は杞憂に終わった。彼女がレンタルショップへと入ってきたからである。そしてシロクマはその姿を見て、目を瞠《みは》った。
その日の少女は、髪を茶色に染めていた。髪にはウェーブがかかっており、腰まで垂れ下がっていた髪がすっかり肩の辺りでカットされている。それはニンゲン社会に疎いシロクマでもわかる。今人気絶頂中のアイドルの格好を真似したものだ。
(随分と変わっちゃったなぁ)
シロクマは少女を眺め、なんとなく残念な気持ちになる。正直にいうと染めた髪は彼女には似合わなかった。派手めな化粧もあどけなさが残る彼女の顔立ちとは不釣り合いで、無理に背伸びをしているように見えたのだった。
「いらっしゃいませ」
シロクマは自分の考えをおくびにも出さまいとし、店員の振る舞いで少女に接する。
「『マニョ★マニョ★サンバ』ありますか?」
派手な装いの少女の問いに、シロクマは何とか記憶の糸を手繰り寄せる。
「はい、え~っと先日入荷しました。置いてる場所はまず店の扉まで戻ってそこから左に曲がって4番目の棚で更に右に曲がって、えっ~と――」
「......連れて行って」
そして二人は件《くだん》のCDがある場所まで移動した。少女は『マニョ★マニョ★サンバ』のCDを手に取り、興味なさそうな瞳でそれを見つめる。そしてすぐさま「これ、ください」とシロクマに差し出した。
「ご試聴はなされなくても構いませんか?」
「うん、しなくていい。私が好きだろうと嫌いだろうと、どうせ好きにならないといけないから」
少女はどこか棘を含んだような口調でシロクマに告げる。そしてその瞳はどこか冷めていた。今持っている『マニョ★マニョ★サンバ』のことなど、まるで目に入っていないかのようだった。
「あの、本当にこのCDを買いたいの? 君は本当にこのアイドルのことが好きなの?」
「私の『好き』は関係ない。これは友達の『好き』なものだから私も『好き』にならないといけないの」
シロクマの問いかけに、少女はどこか苛立ったような調子で返答した。ズイとCDを突きつけ、シロクマの胸元に無理矢理押し付ける。
「あの、自分が好きなものじゃないなら無理に買わなくていいんじゃないの? 友達に無理して合わせる必要ないと思うよ? そういう風に友達の顔色ばっかり窺《うかが》わなきゃいけないって、本当に友達って呼べるのかな?」
「うるさいなっ! あなたには関係ないでしょ!? 私の友達関係に口出ししないでよっ!!」
そう叫ぶと、少女はお金をシロクマに押し付けて、CDをシロクマの手からひったくった。そしてそのまま商品をレジにも通さず店から出ていってしまった。シロクマはCDの料金の倍以上もの金額を手に握らされ、ポツンと店に独り残される。
(余計なこと、言っちゃったかなぁ?)
そしてシロクマは頭を掻きながらレジに戻る。パソコンを操作して『マニョ★マニョ★サンバ』の仕入れ値を調節した。
*******
数日後、シロクマは夜の帰り道でまたピアノの音を聞く。いつもの曲、いつもの音色。シロクマはまた誘われるようにピアノの元へと赴いた。そこにはやはり演奏する少女の姿があった。
少女はショートカットの黒い髪を揺らし、夢中になって鍵盤を叩いている。きれいな音色だが、少し音調がいつもより激しい。その音色にはどこか怒りのようなものが含まれていた。やがて少女は汗を流しながら演奏を終えると、振り向きもせずシロクマに言葉を放った。
「......また、聞きにきたの?」
背中越しに見える少女の肩は強張っており、やはりどこか怒気が感じられた。シロクマはそっと少女に近づく。
「......その、こないだはごめん。店で説教みたいなこと言っちゃって。これ、CDのお釣り」
シロクマは財布からお金を取り出して少女へと差し出す。けれど少女は隣にいるシロクマに振り向きもせず答えた。
「......いらない」
そこで会話は途切れてしまう。少女は椅子に座ったまま、ピアノに視線を落としたまま全く動かない。シロクマは何とか会話の糸口を探ろうと少女に話題を持ちかける。
「髪の色、戻したんだね。やっぱり君は髪を染めたりしない方が似合ってると思うよ。何というか、前はさ、ちょっと背伸びしてたっていうか......」
「何も知らないくせに」
少女は怒気を含めたままポツリと呟く。シロクマはまた余計なことを言ってしまっただろうかと懸念した。だが少女はそんな狼狽するシロクマに感情の籠もらない目を遣る。そして無表情のままに、小さく口を開いたのだった。
「あのね、シロクマさん」
そして少女はシロクマに全身を向け、真っ直ぐに瞳を合わせる。
「私、もうピアノやめようと思うんだ」
その突然の告白にシロクマはびっくりした。シロクマの頭の中には瞬時に深い疑問が過《よぎ》る。あれほど楽しそうにピアノを弾いていたのに、何故突然やめようと思っているのだろうか。
「あのね、シロクマさん」
少女は椅子から立ち上がり、決然とした口調でシロクマに告げる。
「『好き』で居続けることって孤独なことなの」
少女はピアノの鍵盤に右手を添える。黒い鍵と白い鍵が彼女の指先に触れる。けれど彼女は音を奏でることをしない。
「あのね、私ね、ピアノを弾くことが『好き』なの。でも同時にね、私と同じ『好き』を共有してくれる人をどうしても探し求めてしまうの。私の『好き』を理解してくれる人。私の『好き』を受け入れてくれる人。そうした人が、私はどうしても欲しくなってしまうの」
少女は鍵盤の上をなぞるように右手を滑らせた。その手は優しくてしなやかで、とてもピアノのことを愛おしく思っていることが伝わった。けれど彼女は音を奏でることをしない。
「けどね、この町にはね、私以外にピアノが好きな人がいないの。みんなみんな流行してる音楽に夢中になって、私は必死においてけぼりにならないように何度も追いかけて。けど、それでも全然みんなと会話が噛み合わなくて。今日だって、それが原因で友達と絶交しちゃった」
そして少女はピアノから手を離す。もはやもうそれに触れることさえしないと決意を定めたかのように。シロクマはそれがとても寂しいことだと感じた。彼女はピアノが大好きなはずなのに、その気持ちを拒もうとしている。だからシロクマは彼女にもう一度告白したのだった。
「僕は、君のピアノが大好きだよ」
そしてシロクマはそっと少女の傍に寄り、その小さな体を両腕で包み込む。その大きな手は温かく、柔らかだった。それは少女の寂しさを溶かしたい一心で現れたシロクマの思いの丈を込めた行動だった。
「君は、独りなんかじゃないよ」
そしてシロクマは呟くように少女に告げる。少女と同じ思いを抱いている人が、確かにここにいることを表明した。
「......ありがとう」
シロクマの両腕に包まれながら、少女はただ一言呟く。
けれど、
「でも、『好き』って永遠に続くものじゃないから」
その言葉とともに少女はシロクマの腕から離れてしまう。その白い体と白いドレスとの距離は近いはずなのに、まるで永遠に埋まることがないほどに遠いように見えた。少女は無表情な顔で言葉を紡ぎ続ける。
「ねえ、シロクマさん。『好き』ってね、すぐに変わっちゃうものなの。最初はね、みんなね、私がピアノを弾いたら喜んでくれた。『上手だね』って。『素敵だね』って。それがきっかけで友達になろうって言ってくれる子もいた。
けどね、だんだんみんな私のピアノから離れてしまうの。私はずっと私が大好きなピアノを弾き続けたいけれど、友達たちはみんなすぐ他のものを『好き』になってしまうから。流行してる音楽とか、新しい友達とか。私のピアノはすぐに忘れられて、やがて私のこともどうでもよくなってしまうの。同じ『好き』がずっと繋ぎあえるって、凄く難しいことなんだ。
だからね、シロクマさん。私はあなたの『好き』を信じられない」
少女は突き放すように最後の言葉をシロクマにぶつけた。シロクマはそのとどめのような言葉に、何も言い返すことができなかった。かつて自分が大好きだったピアノの演奏を、今ではすっかり止めてしまっていたのだから。シロクマはただ、少女の目の前で沈黙をする。
「......さようなら、シロクマさん。私はもう二度とピアノを弾かないよ。だってピアノを弾き続けたら、誰も私の『好き』を受け入れてくれないから」
そして少女は森から去っていった。シロクマは少女を呼び止めることもできず、ただその場で立ち尽くしてた。
――彼女はもうこの森に訪れることはない――
その事実を悟ると、やがてシロクマは溢れるほどの涙を流し続けたのだった。
******
夜の森の奥で、ピアノの音が響いている。そのピアノの音色は綺麗であり、のびのびとしており、とても独創的だった。その旋律を聞いていると、まるで幻想世界の住人になったかのような気分になる。
月明かりに照らされて伴奏を続けている演奏者、それはシロクマだった。かつてこの森に独り訪れた少女が、自分の思いのままに弾き続けたオリジナルの曲を弾いていた。
シロクマはこの曲が大好きだった。少女が森からいなくなって1週間が経ち、3ヶ月が経ち、そして10年と経った今でも、この曲目を演奏し続けている。シロクマはこの曲を奏でる度に、少女のことを偲び思った。
あの子は今、何をしているのだろう?
あんなにピアノが上手だったのだから、どこかでまたピアノを演奏しているだろうか?
それともあの日の夜に宣言した通り、ピアノなんてもう止めてしまっているだろうか?
シロクマは伴奏を続け、少女を想い続ける。
あの子には今友達がいるのだろうか?
自分の『好き』を分かち合える友達を見つけることができただろうか?
あの子はもう、孤独ではないだろうか?
月の夜にピアノが響く中、様々な想念がシロクマの頭の中を過《よぎ》る。けれどその答えを明確にすることは、もはやシロクマにはできなかった。
そういえば、あの子の名前も聞いてなかったな。
あんなに素敵な演奏をできる子なんだから、名前ぐらい聞いておけば良かった。
僕のことなんて、あの子はもうとっくに忘れているだろうか?
夜の冷たい風が、シロクマの体にそよいでいく。
そしてやはり、シロクマは孤独を感じたのだった。
それでもシロクマは彼女の曲を奏で続けた。それはただ、あの子が作った曲がいつまでも変わることなく、ずっと大好きだったから。
そしてシロクマは姿を消した少女に願い続ける。その長年募らせてきた思いは、あの日少女が去っていった夜からずっと変わらない。シロクマはただその願いが叶うことを祈り、ピアノを弾き続けている。そして少女が作った名もなき曲に、シロクマは名前を付けたのだった。
『君の好きを響かせて』
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