Moral, Ironie und Ethik.
倫理や常識なんて所詮、人が考え出したものなんだからきっとろくなもんじゃないんだろうね
等という言葉。
この糸井重里風の優しげな呟きが心につっかかっていて、少し考える。
まず、常識や倫理について。
人が考え出したか、どうか。どうでもいいわ!倫理や常識なんて普遍的ではないし、時代や環境や世相、疑われることによってによっていいように変わるだろう。それが正しい在り方でもあると思う。
寛容で誰もがハッピー。そうなるためだけに改善されていく考え方を常識や倫理と呼びたい。そうでないもの、功利主義は嫌いです。
続いて「人が考え出したものなんだからろくなもんじゃないんだろうね」
人が考え出したからろくでもないものなのかどうか。ここははっきりしない。なのでひとまず、人が考えたもの=大体ろくでもないという考えが働いたものだとします。
さて、人は他人全てなのだろうか。その人含めた全人類なのだろうか。前者であればちょっともう話すのを止めます。
後者なら自己否定的な思考が働いてる、とかニヒリスト?シニカリスト?なのかな。あるいは周りの人類や環境がろくもんじゃないのかな?
まあいいや、とりあえず問おう!
その人がその呟きに至るにいたった理由は、倫理や常識を疑う気持ちが含まれていたのだと仮定しましょう。社会が作った倫理もあなたの中にある倫理もろくでもないものなのです。私もそんなに信じていません。暗中模索です。
では倫理や常識を疑う心と今あなたが倫理と呼んでいるものは本質的に何が違うんだ?その両方がろくでもないなら何を信じて行動するんだ。と。
これを言った人の行動原理が倫理や道徳よりもましなものならば、ある矛盾が生まれます。呟きをするに至ったその人の行動原理は、人ではない何かが生み出したことにならない?或いは神?もしかしたら画面の向こうは人じゃないのかも?わくわく。
さて、こんなことはどうでもいいんです。
全て前置きです。
気付きましたか?最初に糸井重里を揶揄して置いて糸井重里っぽい論調になっていること。
なんでなんだろうなあー
耳障りの良い言葉遣いでさも正しそうな自論を繰り広げる文章とか投げかけの気持ち悪さってあるよ。意味がわからないと尚更ね。
それが、今の価値観と新しい価値観が相対している瞬間なのか。その瞬間に対して感じる嫌悪とかめんどくささが、気持ち悪さを感じさせてるのか。単に気持ち悪いのか、見極めって大事だよ。多分。
まあ、本能的な嫌悪ももちろん大事だ!知っての通りわいは多分人類でも有数のめんどくさいやつだしな!わかってほしいよなんて言わないぜ。
なんにしろ生活は続いていくんだろうしさ。
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