● お金の経済 - 信用創造 通貨発行権 利子 椅子取りゲーム
「ご主人様、以上ではありませんでした。気になることが、あと一つ、ココ コッコ」
「なんだい?」
「さっき、脱皮と聞こえましたけど、脱皮って、蝶や蝉が成長して古い皮を脱ぎすてることですよね。人間さんたちも夜中に脱皮してるんですか、ココッ?」
「脱皮にはもう一つ意味があってね、とらわれていた考え方ややり方などから抜け出すことも脱皮というんだよ」
「いったい何から抜け出したんですか、ココッ?」
「タマ子、私たちは、窒息しかけていた『お金の経済』から抜け出したんだ。
初めにことわっておくけど、このことは私たちの星であったことに過ぎない。どこか遥か遠くの惑星に住んでいるかもしれない人間さんたちが、このことをいつか伝え聞いたとしても、
『我々の高度な経済システムを理解していない』などと怒り出さないでほしい。これは、あくまで私たちの星であったことなんだからね」
「でも、どうしてお金なんてあったんですか、ココッ? 虫だって鳥だって、みんなお金なしで生きていますよ」
「そうだね、タマ子。それは人間だけ飛び抜けた頭脳を授かっていたからかもしれない。お金のことを思い付くほどにね。人々が物を生産したり分配したり消費したりする仕組み全体のことを『経済』というんだけど、お金は、その経済を滑らかにし、暮らしを豊かにするためにあったんだ、元々はね」
「人間さんたちとニワトリの間でもお金なんてありませんよ、コッコ」
「そうだね、タマ子。私たちはニワトリたちに、えさや安全を提供し、逆に、たまごや鶏糞を提供してもらっているけど、どちらにしても貝殻をいちいち間に挟んだりしない。貝殻というのは、お金のつもりで話しているよ。それと、鶏糞は畑で最上級の肥料になる」
「えさではなくて、食事と言ってもらえませんか、コッコ」
「これは失礼した。ところで、どうして貝殻のお金がいらないかというと、ニワトリたちにはお金のことがわからないだろうし、興味もないだろうし…」
「そりゃわかりませんけど、なんだか、むかむか、コォー」
「いや、すまない、タマ子。たぶん本当のこととはいえ失礼した。仮にニワトリたちがお金のことがわかるほどかしこかっ たとしても、貝殻のお金は定着しないだろう。というのも、大いなる単純のあるところ(考えも物事もなるべくシンプルであろうとする世界)では、『損得は全体でとんとん』になるからね」
「コン コン? 変なの! あっ、本当のこととはいえ失礼。ココッ」
「もし、貝殻のお金がニワトリと人間の間に採用された場合、ニワトリたちは、たとえばえさ、ではなくて、食事をもらうたびに貝殻を人間に支払い、たまごをあげるたびに貝殻を人間から支払ってもらう。そんなふうにして毎回毎回、貝殻を人間とやりとりすることになる。また、そのつど、ニワトリ側の帳簿にも日時、品目、貝殻の数などを記入する。いろんな決め事などでミーティングも必要になるだろうし、部門、担当、営業活動、数値目標に確定申告まであるかもしれない。すると、時間も労力も取られて、畑で遊んだり裏山を探検する機会も削られる。首を前後に振るだけではなく、数字が合わないと不自然に首をひねったり固まったりもする。すると、頭痛、肩こり、不眠、鬱などに悩まされもする。そんなことはもちろん、人間側だって同じことで、いやというほど実証済みだ。
だったら、品物やサービスをやりとりするつど、わざわざ貝殻を絡めなくてもいいじゃないか。いちいち損得やお礼のことを気にしなくたって、ニワトリ側も人間側も、トータル(全体)でみたら損得はだいたい差し引きゼロ(とんとん)になるじゃないか。別にゼロにならなくてもいいじゃないか。あげっぱなし、もらいっぱなし、でいいじゃないか。
むしろ、いちいち損得なんて気にしないほうが、お互いに大いに得であって、おおらかに自由に充実した生涯を生きられるじゃないか、お互いの可能性だって劇的に広がるじゃないか、と、まあ、どこかの星の社長さんや会計士さんが聞い たら呆れて椅子からずり落ちるくらい単純に考えるわけだね。これを一言で表現したのが、『損得は全体でとんとん』なんだ。だから、ニワトリと人間の間には貝殻(お金)なんかいらない、というわけだけど、よろしいでしょうか? タマ子」
「はあ、まあ、コッコ。さっき私、『どうしてお金なんてあったんですか』と聞いたんでしたっけ、ココッ?」
「そうだったね、タマ子。お金は、経済を滑らかにし、暮らしを豊かにするためにあった(はずだった)んだ」
「なのに、人間さんたち同士でも、お金がいらなくなったってことですか? どうして、脱皮する必要があったんですか、ココッ?」
「よくぞ聞いてくれたね、タマ子。お金は、その目的から次第にかけ離れ、逆に人々を追い詰めてしまっていたんだ。私たちは、お金の仕組みを見直すことにしたんだ」
「どういうことですか、ココッ?」
「タマ子、この橋は何のためにあると思う?」
「楽して川の向こうに行くため、ですか? ココッ」
「そうだね。では、この欄干(橋の両側にある手すり)は何のためだと思う? その上で物思いにふけるためではないよ」
「よそ見してて川に落っこちないためですか、ココッ?」
「そうだね。欄干は安全・安心のために作られたものなんだ」
「それが何か、ココッ?」
「ところで、この欄干に誰かが装飾を思いついたとする。彫刻を施したり、もっと立体的で凝った構造にしたりして、より立派な感じを出そうというわけだ。それは別にかまわない。しかし、もし欄干の装飾がだんだん度を過ぎて橋の真ん中近くまで迫り出してきたらどうなるだろう?」
「橋を渡りにくくなります、コッコ」
「そうだね。お金は欄干みたいなものだ。暴走したお金(欄干)が人生(橋)をふさいでしまい、私たちは皆、どうにも生き辛くなっていたんだ。皆というのは、お金が有り余っている一部の人たちも含まれるんだ。その人たちも生き辛さの自覚がないだけだから」
「みんなが辛いのなら、お金(欄干)を元に戻したらいい のでは、ココッ?」
「タマ子はそう思うんだね。ところが、欄干は元に戻せても、複雑巨大化したお金を戻すことは、流れる川の水を飲み干してしまうくらい困難に思えたんだ」
「どうしてですか、ココッ?」
「世の中には、お金の仕組みを作り上げ死守しようとする特別な人たちがいたし、残りのほとんどの人々にとって、お金はあまりに当然のことで、自分たちの人生をお金の仕組みに合わせるのに精一杯だったんだ。お金の仕組みを見直そうとすることは、一種のタブー(言ったり触ったりしてはならないこと)みたいなものだったんだ。
人は、複雑に縺れた糸を一か所ずつ根気よく、ほどこうとする。だけど、一つほどいても新たに別のところが縺れる。そこをほどいているうちに、先にほどいたところがまた縺れる。私たちはそれを財政政策とか金融政策と呼んで何とかしようとしていたはずなのに、崖っ縁まで来たときには、縺れに縺れた糸が惑星大の絶望的な糸団子になっていたんだ。しかし、本当にすべきだったことは、勇気を持って糸そのもの(お金の仕組み)を見直すことだった」
「とっても、こんがらがってきました、コッコ」
「それはすまない、タマ子。こんがらがっ た、そのついでに、お金がどんなことになっていたか、もう少し付き合ってくれるかい?」
「はあ、まあ、コッコ」
「そもそも、どうしてお金が出てきたか、というところからなんだけど」
「はあ、まあ、コッコ」
「タマ子、あんまり気乗りしないようなら飛んでくれてもいいんだよ。飛ぶなら19ページ先だ。何を隠そう、この私だってお金のややこしさには何度も気が滅入りそうになった。 お金のことを疑われまいとする目くらまし戦法なのかと勘ぐってしまうこともあっ た。 いや、実際そうだったのかもしれない」
「はあ、まあ、コッコ」
「だから無理しなくていいからね。途中で一段とややこしくなって、寝てしまうかもしれない。寝るくらいなら飛んでくれ。たのんだ よ。
(「お急ぎコース」の方は、145ページヘ大ジャンプ)
話を続けると、大昔、私たちのご先祖は、海の魚が食べたくなったら、はるばる海岸まで出かけて行き、漁師さんに魚を分けてもらって、代わりにこちらからはニワトリや山間部でとれる物をあげていたんだ。つまり、取り替えっこだな。交換ともいう」
「ココッコ、ドキドキ、ココココ」
「これは例だからね、タマ子のことじゃないから安心するように。ところが、漁が不漁のときや、ニワトリなんかいらないと言われたら、交換が成立せず無駄足になっていた。そこで、
人々は市場を開いてそこに品物を持ち寄るようになった。市場ならいろんな品物がたくさん集まるから交換も成立しやすくなった。それでも、品物と品物をいちいち交換するのは面倒で何かとぎくしゃくした。そこで、
品物同士を直接交換するのではなく、麦や米で品物の間を取り持つことにした。たとえば麦5kgで、ニワトリ1羽、大根は10本、鰯なら約30匹のように。つまり、麦や米が今のお金の原型になっていたんだね。それでもどうにかなったけど、麦や米では、お金の役目として運んで保管するには重いし、かさばるし、生ものだからだんだん品質が落ちていくところが残念だった。そこで、
『お金』が登場した。最初の頃のお金は、珍しい石や貝殻だった。でも、拾ってきた石や貝殻で、『はい、これお金』とやっていては、ありがたくないので、
かしこい特別な人が特別な硬貨(コイン)を作ることになった。硬貨は、金、銀、銅、鉄などを溶かして型に流し込んで作られた。小さな単位から大きな単位まで何種類も作られ人々の間を行き交った。
お金は、ずっと貯めておけるし、ポケットや袋に入れて手軽に運べるし、物や労働の価値基準になるし、人と人の間で生じるモヤモヤした気分まで晴らしてくれた…物をあげる人は、ただでは気が進まないところ、物をもらう人は、ただでは気が引けるところ、お金一つで、それなりにスッキリした。
お金は、万人に共通の価値と認められた。お金があれば、たいていのものは手に入った。お金をたくさん持っていればお金持ちと呼ばれた。人々はがんばって働き、お金を得ようとした。そのがんばりで、物は増え、品質は向上し、暮らしは便利になっていった。自分で何もかもするんではなくて、自分にできる仕事や得意なことに専念し、その結果をお金で交換し合えばよかった。そうやってお金は、職業が若葉の葉脈のように細かく分かれていく手引きもした。お金は大切な役割を果たしてきたんだ」
「タマ子、 起きてるかい?」
「コッコ」
「だけど、交換の手段として登場したお金は、次第にお金そのものが目的のようになっていった。それは至って自然なことだったかもしれない。お金は、腐らないし壊れないし、何とでも交換がきく。それは万能の宝のように思われた。
人々は、なくしたり盗られたりしたら困るお金を安全なところに預けたいと思った。また人々は、まとまったお金が必要なときには余裕のある人から借りたいと思った。
かしこい特別な人たちは、人々から金貨や金を預かって頑丈な金庫に保管し、預かり券を渡して手数料をもらう商売を始めた。この預かり券は、『この券が金貨や金の代わりですよ。いつでも金と交換できますよ』という信用の役割を果たした。人々はこの預かり券で直接売り買いするようになり、この券が後に紙のお金(紙幣)に変身していった。
こうして、金庫にある金の分だけ紙幣を印刷(発行)する仕組みができあがっていった。かしこい特別な人たちは、さらに、『利子』を思いついて商売を広げた。人々からお金を預かって必要な人々にお金を貸し出した。
『利子』は、お金にくっ付くお礼のようなお金だった。たとえば、人々から預かるお金には1年で1%の利子を付けて返し、人々に貸し出すお金には1年で2%の利子を付けて返してもらうことにした。わずかずつに思えても、取引が増え貸出期間が長くなるほど、預かり金と貸出金の利子差額は開き商売は儲かった。かしこい特別な人たちの商売は発展し、私たちの星では『銀行』と呼ばれるようになっていた。
乱立していた銀行は力を合わせて中央銀行を設立し、それぞれの銀行が発行していた紙幣は中央銀行だけが発行できるように法律で決められ、どの国でもそれにならった。どの国でも中央銀行は巨大な力を持ち、巨額の戦費を国に貸し付ける中央銀行さえあった」
「タマ子、起きてるかい?」
「コッコ」
『その中央銀行とは国の銀行で、国の銀行として通貨(お金)を発行している』と、多くの人は思い込んでいたけれど、あいにく、それはほとんど大外れだった。
実際は、どの国でも中央銀行は民間の銀行の代表として 始まり、たいていは民間のものだった。国(政府)は、通貨発行権(お金を発行する権利)をその民間や半民間の中央銀行に委ねていた。国(政府)が発行するのは小額の硬貨だけだった。さらに、民間の各銀行も紙幣こそ発行できないものの、口座上のお金を創造(発行)できることになっていた。
それでうまく回るのなら結構だけど、国(政府)に殆ど通貨発行権がないということは、大海を進む小舟のように危険きわまりないことだった。特に雲行きが怪しくなるときには。
なぜなら、利益を上げねば立ち行かない民間の銀行の通貨発行権は、つまるところ、金融資産家とその周辺に富が集まり、大半の国民がそのおこぼれを奪い合う社会構造の原動力になっていたのだから。私たちの星ではね。
ところで、他の星ではどうだか知らないけれど、私たちの星では、金という金属は資源として希少で、しかも金ピカの美しさがあって、大変ありがたい金属とされていた。お金を銀行に持ち込めば金と引き換えられることになっていた。永い間、お金は金と紐付けられていたんだ。しかし、途中から金はなくてもよいことにされた。金の資源には限りがあるし、そんな制限があっては産業にとっても経済にとっても発展の妨げになるからだ。
金の代わりに、各銀行は、元手のお金を『支払準備金』として中央銀行に預け、その金額に応じて、その何十倍(国によっては何百倍、国によっては事実上無制限)のお金を貸し出せることになっ た。そういうことも法律で決められ、どの国でもそのまねをした。
銀行に現金が足りなくても関係なかった。銀行に借金に来る人々はたいてい現物の大金を受け取って持ち帰るわけではなかったし、いざというときには、『準備金制度』によって銀行間で助け合うことになっていたし、もっといざというときには、何だかんだと言いながら、大きな銀行ほど政府が国民の税金で助けることになっていたから。
また、『銀行から借金するとき、そのお金は別の人が銀行に預けたお金を借りている』と、多くの人は思い込んでいた。あいにく、それもほとんど 大外れだった。
たとえば、誰かが融資(貸出)の審査に通って銀行から1000万というお金を借りる場合、銀行は、銀行の預金から1000万を用立てするわけではなくて、『支払準備金』をチラッと見て、借金する人の銀行口座に1000万という金額をピッと加算すればよかった。すると、世の中に突如、1000万というお金が作られたことになる。こんなふうに、世の中のお金の大半は、誰かが借金することによって、無同然のところから生み出されていたんだ。
(中略)
借金した人は、期限までに1000万に利子を付けて返さなければならない。しかも、借金した人の土地や家などは担保に入れられる。担保というのは、お金を返せなかったらそれが銀行のものになるということだ。個人がやれば犯罪になるけど、銀行には、法律でそんな『お金作り』が認められていたんだ。ただし、そんなあからさまな呼び方ではなく、『信用創造』と呼ばれていた。それは中央銀行さえ凌ぐ実質上最強の通貨発行権だった」
「タマ子、 起きてるかい?」
「コッ」
「ところで、その人が無事に利子とともに借金を銀行に返し終えると、銀行の資産と負債から1000万という金額が差し引かれ、世の中からその1000万も消えることに なる。しかし利子までは消えない。利子が銀行の儲けになるわけだ。利子の金額なんて大したことないと思うかもしれない。確かに個人が銀行に預けたときの利子はスズメの涙ほどのものだ。ところが、逆に銀行から借りたらダチョウの大粒の涙どころじゃなくなる。
それは、貸出の利率が高めに設定してある上に、利子の計算が複利といって、元のお金に利子が付いて、その合計にまた次の利子が付くのが基本なので、借金の期間が長いほど、借金の額が大きいほど、利子がますます勢いを増しながら膨らんでいくからなんだ。それで家の元値は2千万台なのに住宅ローンで返す家の総額は利率次第で3000万、4000万以上になることもある。しかも、個人や企業や国が銀行から借りる金額の総額はとんでもなく大きいから、それに付く利子の金額も大きくなり、銀行の主要な収入源になるんだ。
銀行の悪口を言っているんじゃないんだよ。銀行だってどんな金融機関だって、営利企業として利益を上げていかなければならなかったんだ。
そうやっ て、民間の銀行がお金を貸し出すたび、借りる人にとっては借金するたび『 形や重さはなくても信用ある(ことにする)口座上のお金』が世の中にどんどん作り出されていった。長ったらしいので『見えないお金』と呼ぶことにするよ。中央銀行が発行する紙幣や、国(政府)が発行する硬貨、つまり、普段の生活で現金と呼ばれていたお金を『見えるお金』とすれば、私たちの国では『見えないお金』は『見えるお金』の十数倍もの金額になっていた。給与振込みも、公共料金の自動引落も、クレジット払いの買い物も『見えないお金』が行き交っていたんだけれど、元をたどれば、個人や企業などの借金の集積で膨れ上がったお金だったんだ。もし誰も新たな借金をせず、誰もが借金を返してしまっ たら、いずれ『見えないお金』も消えてしまう。それでは皆が困るし銀行には利子 が入らなくなる ので、是非とも借金をキープし続ける必要があったんだ。
そんなふうにしてわざわざ民間経由で借金からお金を作るのではなく、国(政府)が直接必要なお金を(見えようが見えまいが)注意深く発行すれば解決することだったのに。
そうしなかった(できなかった)のには、教科書に記されない理由がある。お金の成り立ちの中で、民間銀行が国(政府)より大きな力を持っていたことに始まり、過酷な競争社会の中で、特別に頭のよい人たちと世界中の銀行が、合理的に合法的に最大限の利益を得るため何世代もかけて構築してきた結晶こそ、『信用創造』という錬金術(無からお金を作り出す術)であり、中央銀行制度であり、それらが滅多なことでは揺らがないよう、あの手この手で守り固められていたからなんだ。しかし、その過酷な競争社会も、元はといえば、『利子』を起爆剤として仕掛けられた必然的な結果だったんだけど」
「タマ子ー、起きてるかい?」
「コー」
「さて、先人たちが考案したこの『利子』は元々どこにも存在しないお金なんだ。銀行が誰かの借金を機にお金を作るとき、わざわざ利子の分の お金まで作るわけではない。利子は銀行にとって、市場のお金の中から自主回収され銀行に納入されるべきものなんだ。
銀行業で利子を稼ぐとは、そういうことなんだ。それはどんな結果を招くだろう?
それは、経済が成長し続けている間(経済規模が大きくなっている間)は、物やサービスに必要なお金が新たに作られ市場に追加されるので、その中で『借りて払う』を繰り返せば利子も工面できるが、成長が止まれば利子払いは苦しくなるか行き詰まるということだ。経済の成長は止まっても、すでにあった利子は勝手に成長し続けるのだから。
利子の仕組みは、しばしば『椅子取りゲーム』に例えられた。
椅子の数(世の中全体のお金)は、人数(世の中全体のお金 + 利子のお金)より少ないから、椅子に座れない人(借金を返せない人)が必ず出るというわけだ。しかし、現実社会はゲームではすまない。借金を返せなければ破綻する。利子は、必ず敗者が出る競争を強いるから、人も会社も誰か(どこか)が必ず破綻する。国さえ例外ではない。
それは能力不足や情熱不足なので仕方ないと勝者は言う。しかし、たとえ皆が高い能力や情熱で競ったとしても利子ある限り、その高みの中でいつか誰かが破綻する。今日の勝者が明日には敗者になることだってある。それでも、あれこれ山積みの社会問題を横目に、お金と競争こそが人々の欲望を調整する現実的で便利な公式として重宝され続けていた。
つまり、こういうことなんだ。
巨額の借金があるところ利子の金額もどんどん肥大していくから、利子の成長に負けない経済成長が求められる。個人や会社として『お金を稼ぎたい、リッチになりたい』という動機以上に、社会全体として経済成長が求められるんだ。経済成長は、資本主義の宿命的課題なんだ(多くの社会主義国でも同じ。その実態は国家による資本主義だから)。
人々は、今売り上げを伸ばし、今利益を出さねばならない。借金を滞りなく返し続けるために、株主さんに配当金を渡すために、自分たちの収入のために。未来や弱者に配慮する余裕は、あまりない。立ち止まることや引き返すことは経済成長の足枷と見なされる。
ここに道理がはじかれ不条理がまかり通る理由がある。
総合的には不要と分かっていても、海を埋め立て、新空港を建設せずにいられない。
危険で後始末ができないのに、原子力発電所を推進し、稼働させずにいられない。
自然を、住民の願いを、選択肢を黙殺し、一番金になる場所に基地を移転しようとする。
どんな結果をもたらすかは深く問わず、目先のために、カジノを誘致しようとする。
使うか使わないか、どんな結果をもたらすかは問わず、武器を製造し輸出しようとする。
まだ十分に使える洗濯機もスリッパも、さっさと新品に買い換えてもらおうとする。
『経済成長はしなくても心豊かな生活を』という主張は資産家や財界にとって、不都合でナンセンス過ぎる話なんだ。どんどん作って売って、利子分の価値を生み出し続けてもらわねば困るわけだから。その経済成長には資源が欠かせない。競争だから資源の奪い合いが当然になる。富める人が貧しい人から奪う。時間を、労働を、なけなしの資産を吸い上げる。富める国が貧しい国から奪う。森林を容赦なく伐採し、地下を掘り起こし、大地を海を貪りつくす。悲鳴がしたら、そこに富者が利子で鞭打ち、経済成長を急き立てる」
「おーい、タマ子、起きてるかい?」
「クー」
「あなたはこう言うかもしれない。『そうはいっ ても、私たちの預金にだって、わずかとはいえ利子が付くわけだし、利子も付かないんじゃ預ける気がしない』と。
それはごもっとも、かもしれない。しかし、その受け取る利子の何百、何千倍、さらにはそれ以上の利子を毎年毎年、間接的に払っていることを、あなたはどう思うだろう?
私たちの惑星の先進国と呼ばれていた国の例では、全体の上位数%までの裕福な人々は、確かにもらう利子のほうが多かった。元々、資産が圧倒的にたっぷりあれば、寝ていても利子が立派に育つからだ。ところが、残りの圧倒的多数の人々は、利子の付く資産が少なければ少ないほど、払う利子のほうがもらう利子よりも多かった。というのは、購入するあらゆる商品やサービスの価格には、それを借金して作ったときの利子の金額が反映しているからなんだ。私たちは知らぬ間に間接的にせっせと利子を払っていたんだ。食卓に並ぶパンも、電車やバスの運賃も、その価格の約30%は累積した利子払いのための価格だったんだ。パン屋さんは利子の分まで含んで値段を決めているつもりなどなくても、そうしないと数々の原材料や設備に注入されていた利子が黙っちゃいないんだ。
ところで、一番大きな借金はというと、国(政府)の借金だった。
国(政府)も地方(自治体)も借金まみれで、利子を払うだけでも汲々としていた。
国(政府)は、毎年、恒例のように国債を発行して民間銀行などから巨額の借金をする。利子を付けて借金を返していくのも当然、国(政府)なんだけど、国民の税金がそこに吸い取られていく。なんでそんなことになったんだろう?
私たちの惑星の私たちの国の場合、いきさつはこうだった。
私たちの国では先人たちが、自然や家族や、どうかすると自分の健康や人間性まで犠牲にしながら、がんばって国を発展させ物があふれ、国民の多くが『中流』以上という意識を持つほど豊かになった。地価や株価が煽られ、『見えないお金』が大都会を、地方都市を駆け巡った。ところが、豊かさの絶頂と思われた頃から一転、国は不景気という長くて暗いトンネルに入り込んだ。
諸説の原因はともかく、価値あることにする『見えないお金』が野放しでは、我が世の春が続くわけもない。不良債権が一挙にあふれ出て地価や株価が暴落した。世界屈指の金融資産家と呼ばれる人たちが故意に暴落を仕掛けて暴利を得た、とも言われた。物が売れにくくなり、工場は生産を縮小したり停止したり経費が抑えられる海外に移転したりした。
会社はあまり儲からず、多くの人が仕事を失ったり、実質給料が下がったり、身分が不安定になったりした。企業からも個人からも国(政府)には税金が入りにくくなった。人々はお金を節約し、わずかでもお金に余裕のある人はできるだけ貯め込むようになった。
銀行は、不良債権の教訓から『貸し渋り』『貸し剥がし』などということばが流行るほど、『信用創造』はしなくなった。そして、世の中にお金が流通しなくなった。不景気とは、世の中の金回りが悪くなることなんだ」
「タマ子―、起きてるかい?」
「グー」
不景気下でも、働かざる利子には我慢ならない人もいる。とはいえ、借金のないところに新たな利子は生じない。『信用創造』に代わる借金、それが『国債』だった。国債は毎年着々と発行された。税収不足を補い景気向上のために。一部の人々には利子のために。
国債も巨額になり、紙ではなく電子データとして取引された。その流れは…、
国(政府)が国債を発行し、中央銀行の機関が紙幣を印刷。しかし、中央銀行が国(政府)から直接国債を買うと歯止めが利かなくなるという理由で、まず民間銀行などの金融機関や保険会社などが国債を買う決まりにされていた。金融機関や保険会社は、国民から集めた預金や保険料を資金に国債を大口で買い、超低金利とはいえ手堅く利益を上げる。
その国債を中央銀行が買い上げる。その資金は中央銀行の口座上のお金のこともあれば、民間銀行などが紙幣で希望すれば紙幣が渡され、このとき紙幣が発行されたことになる。紙幣の多くは国債と引き換えに世の中に出ていたんだ。
『国債なんか買ってないから、そんな余裕もないから、私には関係ない』とあなたは言うかもしれない。ところがどっこい、あなたも間接的に国債を買っている。あなたの預金が、あなたの保険料が、『運用』のため、国債買いに注ぎ込まれている。
そんなつもりなどなくても、普通の人々が、間接的に利子をせっせと払い、間接的に国債をこつこつ買い、知らぬ間に泥沼の深みへずるずる歩を進めていたんだ。利子は金融資産家と呼ばれる人たちへ、その周辺や傘下へ自動的に集金給付されていく仕組みだったんだ。お金が見えようが見えまいが本当はそのこと自体は問題ない。利子が肥大し、国(政府)の借金が天文学的数字に膨れ上がり、お金が局所に片寄り、お金が流通しにくく世の中が窮屈になり、人々が生き辛くなっていたことが問題なんだ。
国のエリートのお役人さんたちは言う。『国の借金が大変なことになっているから、増税が必要。増税しないと将来の世代に大きなツケが回る』と。
しかし、単純な私たちには、理解できなかった。…消費税を増税。人々は少しでも消費を我慢。一方で大企業にのみ恵みの法人税を減税。何をやっているんだろう? 右肩から左肩に重石を移し変えたら好景気になり税収が増えるだろうか? 借金が減るだろうか? それとも、増税には信じがたい別の狙いがあったんだろうか?
時流に乗りお金に余裕のある人たちは言う。『国債は国の借金ではない。政府の借金であって、国民にとっては資産だ』と。『財政破綻もしない。政府にはその借金の半分相当の換金可能な資産があるし、ほぼ自国内での自国通貨での貸し借りだし、国債を特例的に中央銀行が直接買って、満期が来たら次の国債に乗り換え続ければいいから』と。
しかしそれも、単純な私たちには、理解できなかった。…国か政府か、資産か負債か、大事なことだろうけど、それが何だろう? 借金頼みの息苦しい社会のままでいいのだろうか? 積み上げた大借金を雲の上でいじくり回し、個人が真面目に働いてやりくりすることが馬鹿らしくなるような政策でいいのだろうか? 利子で潤う側の人だからそう言うのだろうか? 利子のおこぼれに与る立場だからそう言うのだろうか? それとも…。
優秀な人や物分りのいい人々を説得できても、単純な私たちは理解できない。私たちは身をもって知っている。国債とその利子の累積によって、誰が税金や年金や諸々のことで苦しんでいるのか。この先さらに輪に輪をかけて苦しみ続けるのは誰なのか。
大金持ちが何台も所有する高級車の内の1台、その何分の一かのお金で一つの貧困家庭が救われる。寝不足と空腹でよろけることもなく、電気や水道を止められることもなく、進学を諦めずにすむ。…『車1台くらいでは一家庭の一時凌ぎにしかならない』と、人は言うかもしれない。しかし、台数が問題ではない。車は象徴に過ぎない。競争の中で、競争が生む格差の中で、他者の苦痛への共感が掻き消され、『関係ないね』と隔てる心が人をよりバラバラにするのだ。国債で国がすぐには破綻しないのかもしれない。しかし、借金を止めて借金以外の方法でお金の流れを健全にしなければ、いっそう格差を広げることになる。悲しみ、憎しみの滴が社会のバケツにたまっていく。それが一つの狙い?
私たちはこう考えた。借金は借金。借金は返さなければならない。確かな返すあてがないのならそれ以上借りてはならない。だからといって、税金や保険料を上げるのではない。教育や福祉を削るのではない。肥大し続ける利子と国債に歯止めをかけて、貯め込まれたお金を世の中に流通させねばならない。物やサービスの橋渡しをするお金の本来の姿を取り戻さねばならない。一部の裕福な人々だけがますます潤い、大勢の人々がますます苦しみ、苦しみの自覚がなくても、実際に苦しんでなくても、社会にストレスや憎しみを増幅していく『お金の経済』から脱皮しなければならない。
世の中の悪は大昔からあった。しかし、こんなにも、大人も子どもも、職場で学校で家庭で路上で小刻みにいらつき、世界規模で資源を食い尽くしながら自然環境を壊し、止め処なく不景気をぶり返し、人心が失業や貧困やテロに怯えることはなかった。それは大事には至るはずがない小さなガス漏れ程度のことなんだろうか。本当に?
不景気の原因には様々な説があった。誰かがこれぞと言い切る原因にも、さらにその下地となる原因が幾重にも横たわり、複雑に入り組んだ迷宮は人が近寄ることさえ拒絶しているかのようだった。秘密めいた組織による陰謀(わるだくみ)説もあった。
そのそれぞれが、そのとおりなのかもしれない。部分的に真実なのかもしれない。見当違いもあるかもしれない。しかし、私たちの目的は悪者探しではなかった。誰かのせいにして世の中を嘆いていても何もよくならない。それに、私たちのこの星で不安に翻弄される罪人は数多くいても、宇宙が慄くほどの悪人は滅多にいない。どんな人も、子どもとして生き始め、生の不安を抱え、懸命に自分を守ろうとしていただけのことなんだ。
私たちの目的は、脱皮して次の世界に進むことだった。めいめいの財布の中、通帳の上の損得ではなくて、私たちのできれば誰もが最大限に納得できるシンプルな経済システムへの穏やかな移行だった」
「タマ子、ここまでのところで何か、ご質問または、ご意見など…」
「グークー、ココココ」
「タ、タマ子、やっぱり寝てしまってたのか。まだこんなに明るいのに。今頃から寝てたら夜中に目が覚めて眠れなくなるぞ。起きるんだ、タマ子。コ、コ、コケッコォー」
「ふあー、ココココ、だってー、ご主人様ひとりで約20ページもしゃべって、なんだかよくわかんないし、なんだかつまんないんだもん。コッコ」
「それはすまなかったね。この後の前提になる大事なことなんだけど、実をいうと、私もすっきりしないんだよ。私には向いていないというか、胸が躍らないとでもいうか。
よし、それじゃタマ子、眠気覚ましに橋の向こうへ行ってみようか」
「ふあーい、コココ」