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「QR決済への道程」【9月25日(水)】
新札が発行されてもう一ヶ月以上が経過した。
「お、初渋沢だわ」とか、「この5000円の女の人って誰だっけ」などと人々の話題に上らなくなってしばらく経つが、時勢に乗れない哀れな自販機が、まるであかんべーをするように入れた紙幣を吐き出してきて、そういえばこいつ新紙幣だったのかと気づくことがある。
意匠のダサさだの新規性だのと言う論点に口を挟むつもりは毫もないのだけれど、会計時に直接貨幣を手渡しすることのめっきり少なくなったコロナ禍以降の日本において、機械ごときにものづくり大国の技術の結晶を吐き出されると、思わず憮然とした表情を浮かべてしまう。
そういうときに限って、俺の財布の中から野口英世も樋口一葉も出払っていて、北里柴三郎と津田梅子が活躍の場を待ってこちらをキラキラとした眼差しで見つめているのだけれど、すまんな、時代が君等に追いついていないんだよ。
それならば、ということで小銭入れから硬貨を探るのだけれど、折悪しく、そういうときにかぎって新500円玉しかない。
500円玉というやつは流行の権化にして不易のアンチテーゼといった代物で、元アイドルの花嫁のように、誰も望んでいないのに何度も何度もお色直しをしているおかげで、自販機との相性がすこぶる悪い。
旧々500円玉しか使えないほどのオーパーツを見かけることはさすがになくなったが、未だに旧500円玉しか使えないものと、新500円玉しか使えないもの、どちらも使えるものとが、仲良く横並びになっていたりする始末である。プレイステーションでももう少し互換性はあるのに、と、マクドのJKなら文句を垂れるところだろう。
まあ要するに、俺は今、新紙幣も新500円玉も使えない凡俗なポンコツ自販機を前にして、新紙幣と新500円玉しか手元にないことに慄然としてたたずんでいるのである。なんという不幸、なんという理不尽。すぐそこにカルピスウォーターが売っていて、それを浴びるほど飲めるだけの莫大な経済力も有しているというのに、機械の気まぐれのせいで、俺の咽喉は不当な涸渇に苛まれているのである。
こんな理不尽に負けてはならない。何か方法はあるはずである。そうだ、PiTaPaがある。交通系のICカードくらいならこのポンコツでも使えるだろう。ほら、それっぽいタッチ部位があるではないか。ここにPiTaPaをピタッとすれば……
小気味よい電子音とともにが担当商品の落下する無骨な物理音を期待したのに、俺の耳に届いたのはビーッビーッという不快なノイズだ。なぜだ、なぜいつもPiTaPaだけ使えないのだ。ここは大阪だぞ。クワバタオハラもどこかにいるに違いないのに、どうしてPiTaPaだけ使えないのか。nimocaもはやかけんも使えるのにどうしてPiTaPaに限って使えないのか。なんだよ、はやかけんって、九州の民はそれでよいのか。
ポストペイという名のクレジット決済故に稀に生じるPiTaPaの不遇に嘆いているうちに、俺の咽喉はますます渇いていく。クソッ!なにがカラダにピースだ!こんなに近くに甘美な白濁液が鎮座しているというのに、俺の咽喉は渇いていくばかりだ。何たる不運、何たる悲劇か。何とかしてくれ!エウリピデス!!
名前だけを知っている詩人の名を叫ぶ俺に、不格好な位置に貼り付けられたQRコードが囁きかける。
ねえ、こっちを見て。ほら、ちょっとこっちにアレをかざすだけよ。本当なの、たったそれだけのことよ。まだ経験はないかもしれないけれど、あなたのアレの中に入っているでしょ?PayPay?楽天Pay?d払い?どれでもいいのよ、すきなものでかざすだけ。本当。たったそれだけのことよ。怖がらないで。優しく導いてあげるから。
くっ!だ、だめだ!QR決済なんて、そんな、そんなのはだめだ!無理だよ、そんなの若者すぎるよ。いやだ、俺はいつだって、「ちょっとだけ古い人間」として自己演出したいんだ!そんな、QRコードを読み取って決済するなんて合理的な方法、だめだよ、破廉恥すぎるよ!
だいじょうぶ。みんなやってることよ。ほら、とっても簡単。ちょっとだけかざすだけ。本当。それだけのことなんだから。
カルピスウォーターの青春を思い起こさせる甘酸っぱい声で囁くQRコードの誘惑に、俺はついに耐えられなくなった。悔しい。まただ。また俺は大切なものを失うのだ。「ケータイをもっていないキャラ」も「LINEやってないキャラ」も「インスタわからないキャラ」も「運転免許もってないキャラ」も「YouTuberを軽んじるキャラ」も全部全部喪失して、今また「QR決済毛嫌いするキャラ」も俺は失ってしまうのだ。そうやって、何かを失い続けることが人生だというのか。
喉の渇きという最もプリミティブで最もフィジカルな身体の欲求に屈して俺はスマホをかざした。
喪失は、しかし成長の類義語でもある。賢者と化した俺は新たに考える。あれほど拒んだQR決済が、新たなフェティッシュをもたらすこともないとはいえまい。そうだ、どうして俺は今までこんな便利な手段を用いていなかったのだろうか……ん、なんだ、エラーか……まあそういうこともある。改めて読み直して……随分と読み込みに時間がかかるのだな、何?表示された番号が合致しているか機体と確認しろだと?あってるよ、なんだこの照会は、なんの意味があるんだ、もうカルピスウォーターのボタンを押していいのか?ん?押しても反応しないじゃねえの、なんなの、これ、うん?スマホの画面が変わっているな、ああ、こっちの画面から選ぶのか、カルピスウォーターっと……ガタン
新紙幣は我が身の不便さをもって、QR決済の不快さを俺に教えてくれた。
やはり人間にとっては、最もプリミティブで最もフィジカルな方法こそが最もフェティッシュであるのだろう。