センター試験前々々夜

 前々々々夜からのつづき




 高熱を出したのは一体いつ以来のことだろう。彼はお世辞にも健康的な体躯とは言えなかったが、さりとて決して病弱ではなかった。体調を崩して学校を休むという経験はごくまれな出来事であったと言ってよい。「馬鹿は風邪をひかない」という格言の逆命題が偽であることは、自身の存在が反例として示しているのだなどと己惚れていたくらいである。そんな彼が突然三十九度もの高熱を出したことは、センター試験を三日後に控えているという時期の問題を抜きにしても異常事態と言ってよかった。

 まず疑ったのはインフルエンザである。しかし、猛烈な喉の痛みと若干の思考力の低下こそ感じるものの、全身の倦怠感だとか関節痛だとかいうインフルエンザお馴染みの症状はなかった。食欲だって普通にあった。ただ体は熱っぽく、健康でないことだけは明らかだった。

――気が進まないが医者に行かないとな――

 彼は元来医者にかかったり薬を飲んだりするのが嫌いであった。怪しげな民間療法に傾倒しているわけでもなければ、現代標準医療に不信を抱いているわけでもない。ただ、因果関係を身をもって実証できないことが不服だったのである。薬を飲み医者の指示に従って体調が回復したとしても、それが果たして治療行為の賜物であったのかを確認する術がない。治療を受けた世界と治療を受けなかった世界とは同時に存在しえないのだから。松平定信をして現代に顕現せしむれば、彼のことを随筆に著して「くすしの先見」などと小見出しをつけるに違いない。

 疫学的に効果のあることが明らかにされていることは重々承知していても、自分だけは特別で治療行為がなくても回復速度に変化はないかもしれない、と半ば信じてしまう程度には彼は傲慢だったのである。しかし、人生の大舞台が間近に迫った今となっては、傲慢さをあっさりと捨て去れる程度の思慮深さも、彼は同時に持ち合わせていた。

 家から最寄りのクリニックに行く。自身の症状とセンター試験が迫っていることを伝えると、まだ若い医師は、へえとかほおとか同情とも感心ともつかぬ意味不明な言葉を漏らしながら、すぐに点滴の用意をしてくれた。垂直抗力の権化とも呼ぶべき灰色のベッドに横たわり、この世の違和感を型に流し込んだような直方体の枕に頭を委ねながら、多数の電解質と幾分かの薬剤の混合物であろう液体がぽたり、ぽたりと滴っていく様を彼はただ凝然と見つめていた。

――ああ、一滴一滴が体にしみわたっていって不思議と力が湧いてくる気がする。ちょっと焦っていたのかもしれない。ジタバタしたって仕方がないってことかな――

 先ほどまでの懐疑的な態度はもはや行方不明の雲散霧消。要するに自分の都合の良いように理屈をこねるのが彼は好きなのであった。そんな自分の節操のなさを相対化してとらえることもなく、飽きもせず点滴を眺めていると、まだ若い医師はそれを不安のサインと解釈したのだろうか、ちょっとのんびり過ぎるかもねー、などと意味不明な言葉を口にして滴下速度を速めてしまったものだから、彼は思わず「あ」と声を漏らしてしまった。

 まだ若い医師とそう若くはない看護師が怪訝な表情をこちらに向けたが、まさか「僕は今点滴のしずくが緩やかに落ちるさまと自身の精神状況を重ね合わせて安寧と平静を得ていたので滴下速度を元に戻してください」などと頼むわけにもいくまい。いえ、忘れていた英単語を思い出しただけです、ああすっきりした、などと奇妙な取り繕い方をするものだから、ますます怪訝な表情をされるだけだった。

 高熱ではない原因によって顔が赤らむのを感じながら、とくん、とくんという速度で流れるようになった点滴をちらりと見て、何かを観念したかのように彼はおもむろに目を閉じた。

――どうやら俺は、結構ビビっているみたいだ――

 どれくらい眠っていたか分からない。目を開くと、もう点滴液はすっかりなくなっていて、そう若くはない看護師が慈しむような眼差しをこちらに向けていた。



 前々夜につづく


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集