終わりなき日常よ活きろ
「人間は考える葦である」とは、偉大なる数学者にして哲学者ブレーズ・パスカルの名言である。彼はこの誰しもが知る金言により、宇宙全体・自然全体に対する人間の物質的な矮小さを強調しつつも、「考える」という人間独自の精神作用の高尚さを高らかに宣言したものとして持て囃されているきらいがある。しかしながら、この厄介な名文句は、我々が「考えることが出来る」存在であることを明らかにしたのみならず、「考えざるを得ない」存在であることをも白日の下にさらけ出したように私には思われる。
精神という茫漠とした作用のゆえに、我々人間は本能のままに動物的に生を営むことを許されない。人間として生きることは、「AすべきかBすべきか」という選択を絶えず続けることに他ならない。「友達と遊びに出かけるのか、家で勉強をするのか」「昼食にはラーメンを食べるべきか、蕎麦を食べるべきか」「今日のシャツは白にしようか、黒にしようか」「大学に進学すべきか、すぐに就職すべきか」……大なり小なり我々は常に選択を強いられて生きている。「人間は考える葦である」と断言された以上、我々の生に「そうならざるを得なかった」という言い訳は許されない。いかなる人生の結果であれ、それは「自分で考えた結果」とみなされてしまうという、残酷な真理の十字架を我々は負わされたのである。
「人間は考える葦である」という言葉の意味が、「人間は考えざるを得ない葦である」ということなのであれば、我々人間の存在自体が無数の選択肢の集合体であると言えるだろう。我々は巨大な樹形図の途中の一分岐点としてしか存在し得ない。それ故に、我々は常に隣に広がる無数の分岐点に思いを馳せることになる。(あのときああしていたら今頃は……)
しかし人間よ、自覚せよ。それら無数の分岐点は、幻影の点でしかないことを。我々が「選んでいたかもしれない選択肢」を、指を咥えて眺めているうちに、次の選択肢はもうそこに迫っていることを。
いかに無限の可能性が広がる樹形図であれ、私が存在するのは、常にその中の一点でしかあり得ない。いつも我々は選択しなければならない。「進むか退くか」の選択ではない。「進むか留まるか」の選択ではない。それは、「進むか進むか」の選択である。
「人間は考える葦である」と同時に、「人間は考える肢である」ということを重く受け止めよ。右足を進めるか、左足を進めるか、常にその選択を強いられた存在が我々人間である。どちらの足を進めるのかを、常に考えよ。考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えよ。いつまで経っても終わりの見えない日常を、考えながら一歩一歩選択せよ。そうせざるを得ないのだから、考えることから逃げるな。
日常から逃げるな。たとえ終わりは見えなくとも、足跡だけは残り続けるのだ。
先日友人と「登山が教えてくれたこと」について語ったところ、完全に意見が合致したのが、
右足を前に出したら、次に左足を出せばいい
という圧倒的な人生の真理であった。いつかこんな旨の文章を書いたことがあったな、と引っ張り出してきたのが以上の文章である。
改めて読んでみると、全然違う趣旨の文章だったが、これはこれで俺らしく良いことを言っている。世の中の受験生や大学生に届けばよい。