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「死喰い人」と書いて「ホモ・サピエンス」と読む

 死体が、より精確には、死体の断片が盛られている。


 小洒落た店内の小洒落た皿の上に小洒落た料理が盛り付けられている。薄く切られた生ハムはまるで花びらのようにあしらわれ、その周囲には色とりどりの野菜が様々にかたどられて配置されている。素晴らしい食事というものは、舌に楽しく鼻に麗しいのみならず目の保養ですらある。肉の焼けるじゅうじゅうという音は耳を喜ばせ、咀嚼の楽しみもまた食事の幸福には欠かせないものだ。毎日欠かすことのない営みの中で、食事ほど五感を働かせるものを俺は知らない。


 食事という官能的な無上の幸福。そこで我々が対峙するのは、圧倒的な死体の山だ。


 肉も、魚も、野菜も、果実も、圧倒的に死体である。生命の運動を強制的に断ち切られ、ばらばらに切られて裂かれて千切られた死体の欠片である。それだけではない。肉や魚をまとめるオイルの類も、刺激と彩りを添えるソースの類も、かつて生命であったものの絞り汁から作られている。我々は毎日、山盛りの死体を食って生きている。


 「命をいただく」という表現があるが、それは微妙に間違っている。現代の都市生活で我々が調理し食べるものは、既に命を奪い取られた圧倒的に淡白な死体でしかない。我々が食うのは死であり、命は既にどこかの誰かの手によって奪われている。漁師でも猟師でも農家でも屠畜職人でもない「無辜」の我々一般市民が日々いただいているのは、もはや命ではなくなった死そのものである。


 人間以外の生物は一般にそんなことはしない。自らの生のために他の生を奪ったり他の生に依存したりすることが生命一般に見られる自然の摂理なのだとすれば、圧倒的大多数の個体がただ死のみを食らっているということは、我々人間という種に特徴的な生のあり方といえるだろうか。人間性とは、死を喰らうことであるのか。ハイエナだのハゲタカだのに、概して強烈な負の印象がまつわりついているのは、あるいは同族嫌悪であるのか。


 我々人間は死を喰らう生き物であるが、普段はそうした事実に目を背けて生きている。


 死体の断片が盛られている、と先程書いたばかりであるが、誰も食事を摂りながらそんなことは想像だにしない。こんな文章を書いている本人ですらそうである。皿の上の鮮やかな料理が種々雑多な死体の盛り合わせであるとは、理屈を振りかざしたいだけの偏屈者の妄言でしかない。
 今俺がフォークで押さえつけナイフで切り刻み口に放り込んで噛み潰しているのは死体の欠片である、などということは、そう「思うことができる」というだけであって、実際に単にそう「思う」などということはあり得ない。本当に俺が、そう「思っ」ているのだとしたら、俺はおぞましさのあまり餓え死にするよりないだろう。直感的な日常の世界において、料理は単に料理でしかなく、食材は単に食材でしかない。それらが本当は死体であるとか、もともとは生きている動植物であったなどということは、我々の目に映る日常ではもはや単なる観念である。我々が死を喰らって生きている事実なるものは、我々の冷静な論理的思考における真理であり、したがって客観的な事実であるが、それは断じて日常生活における現実ではない。


 むしろ我々は、「我々の日常の現実から死を喰らうという客観的な事実が脱色されている」という客観的な事実にこそ目を向けるべきである。ここに現代都市生活における人間の生と死について語るべきことがある。
 

 死の脱色は食材だけの問題ではない。同胞の死すら、極限まで脱色されている。都市にも郊外にも墓地は数多存在するが、生活圏に密着した墓地というものは少ない。墓地を取り囲むように住宅街が形成されていたり、大型ショッピングモールに墓地が併設されていたりする例は寡聞にして聞かない。墓地が見えるという一事が賃貸住宅の家賃を下げる要因とされていることの意味は推して知るべしである。あれほど悲しんだ親しい者の亡骸を、我々は丹念に地中に埋めた上に重厚な石を敷き、挙げ句の果てに目を背けて日常を営んでいる。


 考えれば、火葬という文化自体がまったく文字通りに死の脱色であると言って良い。葬儀における悲しみの頂点は、納棺及び出棺の一瞬である。まるで眠っているかのように「安らか」な表情を浮かべた(言うまでもなくそれ自体も死化粧という脱色を施されたものである)亡骸に別れを告げるとき、我々は永遠の離別と喪失の哀しみに打ちひしがれる。大の大人が雁首を揃えて、物言わぬ肉体にあらん限りの惜別と感謝の言葉を述べる、論理的には滑稽でしかないあのひとときは、美しいほどに純粋な哀しみで包まれている。


 そうだというのに、ものの数時間と経たずして、真っ白というにはあまりに頼りない骨の集合を、我々は不思議な虚脱感(あるいはある種の爽快感ですらあるかもしれない)をもって眺めるのだ。そう、死体を焼いたあとに残る骨は驚くほどに生々しくない。それはもしかすると、我々が食材一般に感じる生々しくなさと同じかもしれない(「生々しい」ものは食べられないという事実はまさに人間が生ではなく死を喰らう生き物であることの証左といえよう)。 死を脱色して、我々の住む生の世界と線引きをしなければ、我々が生きていけないのはわかっているのだが、あの出棺の直前の哀しみまでもが脱色されてしまってはいないかと、時折妙に不安な気にもなる。

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