授業態度という倒錯

 中学二年生の生徒が鼻息を荒くしてこんなことを言う。

――最近学校の国語の先生と揉めていて授業がなかなか進まないのです。

 ほほう。して、いかなることで揉めているのかねと問うてみると、曰く、

――先生の授業態度が悪いので僕たちがストライキを起こしているのです。

 いやいや、突っ込みたいところが盛り沢山だけれども、ひとまず「先生の授業態度」て……言わんとするところは分かるが、普通「授業態度」というのは「授業を受ける側の態度」のことで、「授業をする側の先生の態度」のことを「授業態度」と呼ぶことは無いでs……




 

ここで桒野に電流走る!!





 待て。一般に「◯◯態度」と言う場合、「◯◯する主体の態度」を表すのが普通ではないか?「視聴態度」とは「視聴する側の態度」であるし、「勤務態度」とは「勤務する側の態度」である。勤務される側たる企業の労働者に対する態度・待遇のことを「勤務態度」と言うが如きことは凡そ考えられない。とすれば、「授業態度」という語も件の中二生の発言にあるように、「授業する側」すなわち教師の授業するにあたっての態度を表すのが本来あるべき用法のはずだ。ところが世間一般に流通している「授業態度」とは、果たしてかかる意味であろうか?否、「授業態度が悪い」といえば、授業を受ける側、すなわち生徒の態度が悪いことを意味するというのが、健全な国民のコンセンサスであろう。

 「授業態度」という語が、一般原則に反して授業をする主体の態度ではなく授業を受ける側の態度を表すという倒錯に陥っているのならば、その原因はどこにあるのだろう。

 最初に俺が考えたのは、教師と生徒の間には垂直的な権力関係(原則として生徒は教師に逆らうことができない)があるからではないかということだ。「教注1える」という行為において、生徒に対して教師は原理上常に上位の立場にあるから、その態度を問題視される前提に立たない。教師はどのような態度で授業に臨んでもそれは正しいと見做されてしまうため、その態度は良いとか悪いとかいう評価を超越しているというわけである。したがって、教師側の「授業態度」を生徒側が云々することは原理的に禁じられており、意味の行き場を失った「授業態度」は、反射的に教わる側である生徒の態度を表す意味に転じたのではないか。

 ところが、すぐにこうした考えは否定されることになる。「授業」と構造的にほぼ同じであるはずの「指導」については、この現象が成り立たないからである。すなわち、「指導態度」という語は「◯◯態度」の一般的な語義どおり、「指導する側の態度」という意味でしか用いられないのだ。「指注2導を受ける側の態度」を「指導態度」と表すことはない。
 指導も授業と同じで、そこには上位者と下位者の権力関係が存在するはずである。にもかかわらず、「指導態度が悪い」といえば、上位者である指導者の態度が適切ではないということを意味するものとして一般に受け止められているのであれば、先に俺が述べた「上位者である教える側の態度を云々することは原理的に不可能である」、という命題は偽であったということになる。我々の軟弱なるお客様精神は、言葉の定義などを身勝手に超越して「教える側」にも「適切な態度」なるものを求めているらしい。

 したがって、生徒が教師の授業のふるまいを糾弾する目的で「授業態度が悪い」と言うのは、十分に成立する余地のある語法なのであろう。しかし、やはりそれはどこか引っかかってしまう。Z世代やα世代には違和感がないのかもしれないが、ほとんどすべての20世紀生まれの日本人にとって、「授業態度」といえば、「授業を受ける側の態度」を表すのであって、その逆ではない。一体どうして「授業」に限ってこうした倒錯が生じているのだろう。

 なぜか大学に進むとそう呼び名が変わる、授業の同義語である「講義」についてはどうだろう。「講義態度」はどちらの意味で用いられているだろうか、と考えてはたと不思議なことに気づく。俺だけだろうか。「講義態度」は見たことも聞いたこともない。「授業態度」「指導態度」「講義態度」……うむ、やはり「講義態度」だけ違和感が強い。「講義する教員側の態度」の意味でも、「講義を受ける学生側の態度」の意味でも用いられている例を見聞きしたことがない。なぜだろう……講義する側の態度はともかく、講義を受ける学生の態度の幼稚さ・不真面目さは、さんざん世間の良識ある大人どもの眉を顰めさせてきたはずである。それなのになぜ「講義態度」という語が浸透していないのか、と頭を悩ませていると、「受講態度」という語があることに気づく。「最近の学生の受講態度ときたら……」。うん、これなら違和感がない。「授業態度」と「受講態度」…………!待てよ、ひょっとして……?

 俺は慌てて辞書を引く。

じゅぎょう【授業】
学校などで、学問・技芸などを教えさずけること。「ーを受ける」

広辞苑 第七版


じゅぎょう【受業】
学芸の教えを受けること。

広辞苑 第七版


 やはりそうだ。「授」と「受」。何度か実際に「ジュギョウ」を漢字で書き取る問題で悩んだ記憶が蘇る。やはり、「授業」に対応する「受業」という語も存在していたのか。とすれば、「物事を教える教師側の態度」=「授業態度」、「物事を教わる生徒側の態度」=「受業態度」として区別することが可能になる。我々が日常的に用いていた「ジュギョウ態度」というのは、「授業態度」のことではなく「受業態度」のことであり、かの中2生は文字通り先生の「授業態度」を批判していたと整理すれば矛盾は解消される。「指導」や「講義」には、同音異義語の「シドウ」「コウギ」に、それらを受けるという意味のものが存在しないから、する側の態度しか表すことができないというわけだ。

 この「受業」という語、単独で見るとどこか収まりが悪く感じる通り、現代社会では一般に用いられることはない。辞書を引いても日国と広辞苑はこの語を載せているが、明鏡や新明解には載せられていない。そのため、「授業」という語の中に特別な用法のみの意味として「受業」が吸収されてしまった、というふうに見るべきなのだろうが、そう難しい語でもないのだから、使い分けを積極的に進めても良いのではないかと思われる。「授業」と「受業」を切り分けることで、教師側と生徒側、それぞれのあるべき立場について思索を巡らせることが可能になるし、習い事やセミナー等の料金のことを「受講料」と呼ぶのであれば、我々が普段「授業料」と呼んでいる料金のことも「受業料」と表記するのが正当であるような気もする。









注1
このように書くと、なんだ、教師というものはそんなに偉い大層なものなのか。そんなふんぞり返った教師なんて願い下げだぞ、と憤慨する方も多いと思われるので注釈を振る。ここで俺が書いているのは教師と生徒という関係を巡る原理の問題であり、実際に教師は偉い存在である(=事実)とか、生徒は教師に対してへりくだって教えを請わなければならない(=規範)といった問題ではない。「教える」という行為が語義通りに働くためには、教える側には相手よりも知的・技術的に優れた要素を有しているという事実と自覚が必要であるし、教わる側にも自分は教師よりも当該分野において劣っているという事実と自覚が必要であるからである。例えば俺は日本語にまつわる知識やそれを読解して設問に解答するための技術を教えることを生業としているが、自分よりも日本語について詳しい、自分よりも国語のテストで点数を取る技術に長けている相手に対して「教える」ということはできない(そのふりをして「授業料」をせしめることは可能だけれども)。教わる生徒側にしても、俺が彼らよりも国語において優れた知識・技術をもった存在であるということを認めなければ、俺の語る内容を信頼して学識を深めていくことはできないはずだ。教える側、教わる側のどちらか一方にでもそうした事実と自覚が欠如してしまうと、そこで行われる営みは「教える」の実情を欠いた空虚なものになってしまう。「教える」ということが語義通りに作用しているのであれば、我々はそこに当該授業の現場における教師と生徒との間の上下関係を認めざるをえない。そしてその上下関係は当該授業の現場においてのみ生じるのであって、決して全人的な上限関係を表すものではない点もまた互いに自覚すべきであろう。

注2
いかなる古の不良生徒であれ、生徒指導室にしょっぴかれて尚ふてぶてしい態度で教師を睨みつけているとき、「貴様、指導態度がなっておらん!」と竹刀で張り倒された経験の持ち主はあるまい。


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