岡本和夫がGSを語る
ブルージーンズのギタリストとして活躍した岡本和夫さん。1966(昭和41)年のビートルズ日本武道館公演のオープニングアクトとして出演したことでも知られている。現在もライブ活動を活発に行い、そのギターの腕前を「津軽じょんがら節」などで披露している。
岡本さんは、グループサウンズ(GS)の勃興時代、内田裕也さん、加瀬邦彦さん、寺内タケシさん、ドリフターズの志村けんさん、高木ブーさんらとの交流を大いに語ってくれた。
きっかけはひょんなことだった。学校帰りに水道橋のガード下にあったタンメン屋に友人と行くとそいつが「兄貴のところに行ってみないか」と誘う。兄のところとは池袋のジャズ喫茶「ドラム」だった。
行くと、バンドのメンバーたちが自ら楽器を運んでおり、手伝わされた。それでライブも見て行けといわれたのが始まりだった。
「ジャズ喫茶に出入りしているうちに認められたという感じ」だと岡本さんは言う。バンドの一人に「歌をやるなら、ギターぐらい弾けないとね」と言われて、3000円くらいのギターを初めて買った。
「ぼーや」と呼ばれる下働きが岡本さんを含めて4人いたという。他のぼーやたちが店を出入りしていたのに対し「ずっと(ジャズ喫茶の)中にいた。私の下には西哲也君がいて、いまや原宿のライブハウス「クロコダイル」のオーナーだけど、彼は他のバンドにドラムとして引っ張られて行った。ちなみに西君は歌手のりりぃさんに惚れられて結婚したんです」。
「私がよく覚えているのは、内田裕也さんが夜9時半頃の最終ステージでぼーやをみんな集めて「ハウンドドッグ」をやらせたことです。裕也さんは自分で歌わずに、ぼーやたちだけに歌わせた」。
「その頃は、池袋のドラムにある日出るとしたら、2,3日して新宿のACBといった具体だった。30分5回ステージだった」。
ロカビリー旋風が吹いていた。裕也さんはエルビス・プレスリー好きで「トラブル」を歌っていた。その後、ビートルズが入って来た。
ある時、加瀬邦彦さんが岡本さんにボーカルととってほしいという。岡本さんは何を歌っているのか分からなかったが、それは「ユア・ベイビー」という歌で、作詞安井かずみさん、作曲が加瀬さんだった。
すでにワイルドワンズの「想い出の渚」のB面に収録されていた。岡本さんは「だから、俺の曲じゃない」と思ったという。そして実際、岡本さんのところには印税は入ってこなかったという。「伴奏者の分は加算されていたのだろうけれど、今になってJASRAC(日本音楽著作権協会)へ行ってもダメだろう」。
「ブルージーンズは渡辺プロが堀直昭のために作ったバンド。寺さん(寺内タケシ)はウェスタンバンドから引っ張られてきてリーダーをやらされた。あの頃はハードロック的なものをやりたがっていた」。
「私が加入した時にはギターがいたので私はサイドをやればいいと思っていた。まだぼーやだった」と岡本さんは回想した。
日劇でのライブだった。そのギターが遅れてくるから岡本さんは代わりにステージに上がるようにいわれた。日劇でプレイするうちに弾けるようになって、寺内さんに一目置かれるようになったという。
その後、ジャズ喫茶のステージで初めてソロで「アパッチ」を演奏した。「とちったらアウトだと思っていた。それでもとちっていまうと寺さんがマイクで「若いのがまたとちりやがって」と言って、ギターネックの先で叩かれた。これが痛いんだ、涙が出るくらいに」。
そうしてブルージーンズに加入した岡本さん。「裕也さんは自分を歌のメインでプレスリーナンバー中心にしてほしかった。それとギャラのこともあって、よく寺さんともめていた。バンド契約なのは寺さんだけだった」。
ある時、寺内さんはナベプロの渡辺晋さんに「寺内企画という会社を作りたいので、ナベプロの力をお借りしたい」と頼んだ」。
「広い会議室に、渡辺晋さんはじめナベプロの上層部の人たち、レコード会社やテレビ局の偉い人たちもいたようだが、渡辺さんは「寺内さん、疲れているようだね、温泉にでも行って来たら」と一言。
岡本さんによると「ふざけんじゃねえ、辞めろ」という意味だった。
寺内さんはブルージーンズを離れた。寺内さんはみんながついてきてくれると思っていたが、残されたものたちは内田裕也さんを助けていくということになった。田川譲二とブルージーンズになった。
「裕也さんはギターを聞かせなくていいから、パフォーマンスを観客に見せてくれ」というスタンスだったので、「ぼくはギターを持ってステージをぐるぐる回る、そのスタイルでやっていた」。
そんな折、ビートルズの話が来た。前座で裕也さんも出るのでブルージーンズもバックとして出演することになった。そして尾藤イサオさんのバックとしてジャッキー吉川とブルーコメッツの出演も決まった。
「この二組のアドリブ大会になった」と岡本さん。
岡本さんがリバプールサウンドを実際に耳にしたのはその2年前だった。
後楽園アイスパレスで「「リバプール・ビートルズ」というバンドのコンサートと共演して、刺激になった。音の使い方など今までにない感覚だった。左右の足を交互に前に出すステップを踏んでいた。この後、みんなジャズ喫茶で真似をするようになった」。
ビートルズの前座話は全くの他人ごとのようでもあった。加瀬邦彦さんと寺内タケシさんがいなかった。前座の冒頭1曲目の「Welcome Beatles」は何十回もリハーサルをしたので「覚えちゃった」ぐらいだった。
「当日はマイクテストがあった。いつビートルズが来るのか誰も教えてくれない。「楽屋を出ないように」と言われていた。でもぼくはカメラが通っていた(場所の)その下に隠れて大人しくして(ビートルズを)見ていた。音がウワンウワン鳴っていて歌がすぐに分からなかった」。
「客席ではどう聞こえるんだろうと思った。女の子の歓声はかき消されてしまっていたが、何だかあっちで騒いでいるんだろうと思った。モニターの返しもあった。太鼓は全然聞こえなかった。でも、ビートルズを見られただけで胸がいっぱいだった」。
岡本さんは「ぼくはインスト・グループにいながらインストが好きでなかった。ブルージーンズのよさは、ドラムの工藤文雄さんの合図で、トップを弾いている人がノッテくる。それが後ろから押してくれて、あうんの呼吸でみんながついていく。それがブルージーンズのサウンドだった」という。
ブルージーンズはブルコメと一緒に望月浩さんのバックも務めた。望月さんは東芝から新人で出てきた。今どうしているかはわからないという。
「バンドボーイからプレイヤー、歌手になったのは坂本九さん、飯田久彦さん、そして次がぼくで3人目。それからあとはいない。みんなスクールメイツとかヤマハとかのスクール出身者だった」。
やはりビートルズの前座を務めたドリフターズについて、岡本さんは一番仲が良かったのは志村けんさんだと話した。「志村君や仲本工事を車に乗せて行ったりした。当時、長さん(いかりや長介)は志村君ともう一人をマックボンボンとして勉強に出していた。しかし片割れが志村君のスピードについていけなかった」。
岡本さんは長さんに頼まれて高木ブーさんのギターの指導をしたこともあった。「ブーさんのハワイアンだかのリズムの刻み方をもっと歯切れよくしてくれって頼まれた。ブーさんに一時間強ギターカッティングを教えたけれど、「出来ない」って言われた。でも長さんには言えなかった」。