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週刊誌の時代の男たち④

 第2章―桑原を育てた雪国
  桑原稲敏は酒を飲んで興が乗ると決まって口にする十八番(おはこ)が2曲あった。
 奥永さんは「桑さんは気分がよくなるといつもは「奥ちゃん」っていうのが「おまえさんねえ」と言って話し出すようになった。
 みんな桑さんに「何か歌ってよ」というといつも桑さんは「銀座の雀」と「刈干切唄」(かりぼしきりうた)を歌っていた」と話す。「桑さんは「銀座の雀」が好きだった。何となくうらさびしい歌だった」。
 「刈干切唄」はもともと宮崎県の高千穂で代々歌われて来た労働歌である。「刈り干し」とはカヤなどを刈り取る作業で、これを田畑の肥やしにしたり、屋根に葺いたりした。
 歌詞はこうだーー
 ここの山の 刈り干しゃ すんでよ 明日は たんぼで 稲刈ろかよ
 駒よ いぬるぞ 馬草負えよ 屋根は茅葺 茅壁なれど
 昔ながらの 千木をおくよ
 
 1939(昭和14)年12月11日、桑原稲敏は新潟県秋成村で生を受けた。稲敏という名前は誰がつけたのか。「稲」という文字が入っているのは、いかにも米どころ新潟らしいし、もっというならば農家の跡継ぎが生まれた両親の喜びがその名前にこめられていたのではないか。
 稲敏が生まれた頃は、内外で戦火が迫っていた時代だった。
 海外ではナチスドイツがフランスに侵攻し、ドイツ軍はイギリスへの空襲を開始していた。また、2年前には盧溝橋事件が起きて日中間での全面戦争が勃発していた。
 桑原の父・巳之松(みのまつ)にはのちに赤紙が来て中国戦線へと送り込まれる。母・シゲは農業をしながらの主婦として忙しくしながら家を守っていた。
 稲敏には弟・幸雄(ゆきお)と妹・清子(きよこ)がいる。二人とも健在だ。

日本有数の豪雪地帯
 桑原稲敏が生まれ育った新潟県中魚沼郡津南町秋成(現在)は、東を苗場山、西を鳥甲山(とりかぶとやま)に挟まれた山間地域の秘境・秋山郷(あきやまごう)の入り口にあたる村だ。平家の落人伝説が山奥に残るところである。
 日本でも有数の豪雪地帯で冬はとにかく冷える。12月の平均気温はマイナス2.2度、1月はマイナス1.9度、2月はマイナス1.8度(「津南町史(通史)上」)。
 ちなみに、稲敏が生まれた1939(昭和14)年の積雪は4.2メートルにも達し、翌年には5.6メートルを記録していた。
 積雪が多すぎるので、2階から家に出入りする時もあったという。
 雪解け水が豊富なことから、よいお米が出来ることでも知られる。
 津南町は、悠々と流れる信濃川が志久見川、中津川、清津川とともに形づくった、日本でも一、二といわれる河岸段丘の上にある。

雪に埋もれる津南

農家の跡取り!?
 新潟県立津南高校を卒業すると、長男だった桑原稲敏は両親から農家を継いでもらいたいと言われた。だが、稲敏は親の反対を振り切って上京し、大学に進んだ。
 このことは稲敏と弟・幸雄との関係を複雑にしてしまったようだ。
 農家を継ぎたくない幸雄は高校を卒業すると東京に来て行方不明になってしまう。稲敏はこのままでは自分にお鉢が回って来ることを心配して幸雄を必死で探し回った。
 稲敏自身も東京に来てから引っ越しを繰り返した。それは結婚後も続いた。それは農家を継がせたい両親に居場所を把握されたくなかったからだ。
 農家の後継ぎが欲しかった巳之松とシゲだったが、一回幸雄が農業をやってもいいと言ってきたことがあったらしい。
 しかし、その時のシゲの答えはノー。「身体の弱い稲敏が新潟に帰って来た時のために田畑は取っておかなければいけない」ので、幸雄には譲れないということだった。

 稲敏は保谷の自宅から歩いて5分ほどの所にあった家庭菜園を借りて、毎日のように通った。ささげやなす、とうがらしなど多くの野菜を育てて、近所に配っていた。
 稲敏は農家の跡取りにはなりたくなかったものの、いつも心に映る風景は間違いなく故郷の田畑だったのだろう。だからこそ必ず歌っていた歌のひとつが農家の労働歌である「刈干切唄」だったのにも合点がゆく。

銀座の雀
桑原の十八番のもう一曲は森繁久彌などの歌唱で知られる「銀座の雀」だった。この歌の雀を「都会に出て来た田舎者」の自分と重ね合わせていたのだと思う。
 歌の途中はこんなふうだー
 雀だって唄うのさ 悲しい都会の塵(ちり)の中に
 調子っぱずれの唄だけど 雀の唄はおいらの唄さ
 銀座の夜 銀座の朝 真夜中だって知っている 隅から隅まで知っている
 おいらは銀座の雀なのさ 赤いネオンによいながら
 明日の望みは風まかせ 今日の生命(いのち)に生きるのさ
 それでおいらはうれしいのさ

 1955(昭和30)年製作の日活映画「銀座二十四帖」の主題歌として知られるようになった。志津野一平、河津清三郎、月丘夢路、北原三枝、三橋達也、浅丘ルリ子、そして日活入社第一回の大阪志郎らが顔を揃えた。
森繁久彌によるレコードは1967(昭和42)年に発売された。
 この歌詞は、編集者でビートルズ研究家の藤本国彦氏の父・野上彰氏(本名:藤本登)が銀座の壁に書かれていた落書きにインスパイアされて思いついたものだ。
 奥永さんによると、桑原は銀座のホステスの手配師と親しくしており、情報を仕入れていた。そこで奥永さんはいろいろな人を紹介されてと会ったという。

 桑原稲敏の従弟―父巳之松の弟・涌井昭夫と母シゲの妹・和子との間の息子・涌井博行によると、「稲敏さんは器用に墨で絵を描いていたのを覚えています。風景を鉛筆ではなく墨で描いていました」。
 稲敏はのちに女子美卒の泰子に対して自分の絵のうまさを自慢していたという。

人気者だった稲敏
 津南高校のクラスメートで現在は津南町の曹洞宗の寺善玖院(じきゅういん)の住職である藤ノ木太朗さんはいう「当時、私も稲敏も全員で20数人の進学コースのクラスで一緒だったのです」。
 その頃は津南高校から「大学に行く人なんて誰もいない」時代だったので本当にエリートたちの集まりだったようだ。
「稲敏は記憶力がよく、物知りで、他の生徒たちを笑わすのが得意で、人気者だった。スポーツの記録データや新聞記事など名前と数字を覚えるのが天才的だった。奴は特別もてた。なにせひらめくから時の話題に敏感だった」
 「教頭先生の授業になると、女子生徒たちは顔を見合わせて笑っている。俺は「なして笑ってる?」って彼女たちに聞いたんだよ」。
「教頭先生は太っていてズボンなんてツンツルテン。バタバタと廊下からやって来て座るとチンポがどっちを向いているかがわかる。今日は右だ、左だって。稲敏君に言われたよ「女の方が敏感でセクシーなんだよ。お前、女の人には冗談を言わなきゃいけないよ」って」。
 稲敏は生涯、田舎の友だちを大切にした。藤ノ木さんも「東京に行くことがあると、たいてい稲敏君に会ってきた。上野で会ったり、新宿に行ったり・・・」と話す。
 そして芸能人の裏話などを楽しそうに話してくれたのだという。

 桑原稲敏はスポーツが好きだった。野球は阪神タイガースのファンで、高校では陸上部に属しており、部長を務めたこともあった
 奥永さんによると、「桑さんは言っていました「奥ちゃんねぇ、箱根の駅伝見ると涙が出てくるんだよ。気持ちが分かるんだよ」と。私もそうだったんで桑さんと気持ちが通じたんです」。
 「だから、駅伝をテレビで見ていて、接戦になったりすると「今頃、桑さん泣いているんだろうな」って思っていたくらいです」。

唐十郎をからかっていた桑原
 運動で優待を受けての進学も考えたらしいが、結局は普通に受験して明治大学文学部文学科演劇学専攻に進んだ。1959(昭和34)年のことだ。
 テレビ局が開局し、「週刊文春」「週刊現代」が創刊され、何よりも皇太子美智子さまのご成婚が大ニュースとなった年だ。水原弘の「黒い花びら」、ペギー葉山の「南国土佐を後にして」、フランク永井と松尾和子の「東京ナイト・クラブ」といった歌が街角には流れていた。
 当時、明治大学文学部は東京・秋葉原の南西の神田駿河台下にある小川校舎で授業が行われていた。そこで1,2年生は一般教養中心に日本文学、歴史、仏語などを学ぶ一方、一部は専門課程をとることが出来たと稲敏の同期生・鶴田旭さんはいう。
 鶴田さんは「桑原君が学校に出てくると「おお、みんな元気かよ」と言っていたのを鮮明に覚えている」という。
 アングラ演劇の始祖・唐十郎(大鶴義英)も仲間だった。
 「あと何の授業だったのかは忘れたけれど、桑原君が大鶴さんのところへ行って、「大鶴は早稲田を受けた時の受験票をまだ持っているんだぜ」と言って、大鶴さんからそれを取ってみんなに見せたことがあった」。
 大鶴さんは早稲田大学に行きたかったので未練があって、早稲田の受験票を肌身離さず持っていたのだという。稲敏はそれをからかったらしい。

60年安保真っただ中で
 桑原が明治大学に入った翌年は60年安保だった。日米安保条約の改定が予定されており、反対運動が様々な形で展開され、一方で政府側はこれを抑えようと躍起になり、世の中には騒然としたムードが漂っていた。
 1960(昭和35)年5月、衆議院特別委員会が新条約(改定)案を強行採決し、本会議も通過した。世間では日米安保反対の世論が根強かったことを考えると、翌月にアイゼンハワー米大統領の来日が予定されていたのを明らかににらんでの「スケジュールありき」の政治だった。
 これに対しては当然、人々のさらなる怒りが沸き起こった。
 同6月に同大統領の訪日日程を協議するためにジェイムズ・ハガティ大統領報道官が羽田空港に到着するも、周辺に押し寄せたデモ隊に包囲されて動けなくなりヘリコプターで救出されるという事件が起こった。
 いわゆる「ハガティ事件」から一週間も経たないうちに、今度は国会議事堂正門前で機動隊が、国会内に突入してきた安保改定反対のデモ隊と衝突し、デモに参加していた東京大学の学生・樺美智子さんが圧死してしまう。

 しかし、桑原と同期生の鶴田さんは、激しさを増していた60年安保の影響をほとんど彼ら明治大生は受けなかったと話す。
 「私たちが入学した翌年は60年安保だった。学校の先生たちは参加していたようですが、学校が閉鎖されるようなことはなかった。60年安保は生真面目で整然としていた。まずは闘争を率いている人たち、次に東大、早大、日大で、遅れて明治や法政がついていったぐらいでした」。

政治的発言はしなかった桑原
 桑原自身は政治的なことを声高に論じることはない人だった。ただどちらかといえば保守的な思想の持主だったように思える。
 だが偏見はなかったようだ。桑原は地元新潟の高鳥修一衆議院議員(当時)の議員宿舎を上京した父親に面会する手はずを整えたり、公明党の黒柳明代議士(「潮出版社」の元編集主幹)と交流があったうえ、日本共産党の機関紙「赤旗」を購読することもあった。
 ただこんなことがあった。桑原は長男の部屋に朝日新聞記者の本多勝一の著作があるのを見て、本多についてネガティブな見方を示したことがあった。本多は代表的なコラム「貧困なる精神」をはじめ「左寄り」だとよく言われていた。
 そして何よりも、桑原が愛読していたのが評論家にして劇作家でもあった福田恒存の著作だったということが桑原のモノの考え方をよく表しているのではないか。
 福田恒存はベトナム戦争をめぐって米国を支持するかのような言説によって「保守反動」とのそしりを受けたことがあった。
 桑原は自分の著作のあとがきに福田の文章を引用するぐらいに彼の本を熟読していた。 
 もちろん政治的発言を公にしなかったから政治的ではなかったと一概にはいえないかもしれない。筋の通った生き様というのもその人の一つの政治的表明だからだ。

 桑原はある意味大人びていた。
 鶴田さんによると、「桑原君はぼくらより大人だった。訳知りっていうか、世の中をもう見ちゃったかのような大人だった」。
 それはどうしてか。
 鶴田さんの見方はこうだー桑原が大人びたのは「誰かの指導でそうなったような気がしてならない。ライターのグループで働いていたようだが、影響を受けたであろう、その中心にいたのが誰だかは分からないけれど」。
   (続く)


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