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洋楽あれこれ:戦争の親玉

 2016年秋に歌手としては初めてノーベル文学賞受賞が決まったボブ・ディランに「戦争の親玉(Masters of War)」という作品がある。
 戦争の親玉、すなわち死の商人たち、あるいは軍産複合体を辛辣に告発するプロテストソングだ。1963年発売の2作目のスタジオアルバム『フリーホイーリン』に収録されている。
 「さあ出てくるのだ、戦争の親玉ども」と歌は始まる。
  あらゆる銃や、死の飛行機や、強力な爆弾を作る奴らは隠れている、でも奴らの正体が私には見えるのだ、とディランは歌う。
 戦争の親玉どもは卑怯者だとディランはいう。「私の手に銃を握らせておいて、いざ銃弾が発射されるとみると、遠くへ逃げて行ってしまう」。
 彼らは、他の者たちが発砲できるようにおぜん立てしてやると、一歩下がって眺めているだけなのだ、そして死者が増えていくと自分の御殿に隠れてしまう、若者たちの死体からは血が流れ出てぬかるみにしみこんでいっているというのに、とディランは批判する。
 子どもたちをそういう世界に生み落とせない不安をつくり、まだ生まれておらず名もない赤ん坊たちをも脅かしている戦争の親玉どもは人間といえるのだろうか、と問う。
 「反発」を予期しているかのようにディランは続ける。「あいつらは私がまだ若いからだというかもしれない。あいつらは私が無知だからだというかもしれない。私があいつらより若いとしても、(あれほど慈悲深い)イエス様でさえ決してあいつらのしていることをお許しにならないだろう」と。
 戦争でもうけたお金で魂を買い戻すことは決してできない、とも。

戦争に反対する平和主義の歌
 2001年9月10日付「USAトゥデイ」電子版に載ったディランのインタビューによれば、「戦争の親玉」は単なる反戦歌ではなく「戦争に反対する平和主義の歌」になっているのだという。
 そしてこの曲はアイゼンハワー第34代米大統領(1953-61)が職を去る際に指摘した「軍産複合体」のことを歌っているのだという。
 だが「しかし」と続ける人がいるのも事実だ。必要悪であるという人もいる。90年代には国連が積極的に介入すべきような「正しい戦争」がるのかどうかという議論があった。そして今もある。
 考えてみれば戦争の親玉どもにとっては彼らの戦争は「正しい」ことになる。「自分たちは間違った戦争をしています」という者なぞ、古今東西いないのである。
 敗者はその戦争が正しかったどうかを問わず、敗北を認めざるを得ない。
 戦争の親玉どもは勝てば勝ったで「戦争を正当化」し、生きながらえる。敗者の戦争の親玉どもは勝者の裁きを受けることになるが、裁き次第によっては生きながらえる。
 だが、戦争に勝つ側、負ける側どちらにも「戦争の親玉」はいて、罪を負っているのではないか。
 今なおディランの問いかけは重い。

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