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パティ・ボイドの妹ジェニー

 ジョージ・ハリスンとエリック・クラプトンの妻だったモデルのパティ・ボイド。彼女の妹ジェニーもまた、多くのミュージシャンにインスピレーションを与えるミューズだった。
 二人は60年代、ビートルズの近くにいた数少ない女性である。
 ジェニーの自伝「ジェニファー・ジュニパー」(Urabane Publications)によると、姉がジョージをボーイフレンドに持っていることには良い面と悪い面とがあったという。
 例えば、ビートルズと一緒に歩いていてよかったのは、ジェニーがビートルズの出演するテレビ番組「レディ・ステディ・ゴー」のスタジオを出ると大勢の女の子たちが待っており、中にはジェニーのサインを求めてくる者もいて、サインをしてあげて喜ばれたことだという。
 だが、悪いことには、一部の女子高生やモッズに嫌われたことだという。モッズたちに出くわして、髪の毛を切られたこともある。
 彼らはジェニーに向かって「ビートルラバー」と叫ぶと大声で笑った。彼らの好みがザ・フーやスモール・フェイせズやザ・キンクスだったからだ。
 ジェニーは義理の兄ジョージのおちゃめな面を何度も見ていた。
 ロンドンからそう遠くないイーシャーのバンガローにパティとジョージを訪ねて一緒に食事をとった後にマリファナを吸っていたときのこと。
 二人はジェニーの様子をうかがっていたが、彼女がほぼ無反応なのを見たジョージは窓の下枠に置いてあった木製の猫や牛の置物を取って、彼女の前で上下させながら、おかしな声でしゃべって笑わせようとしたことも。

ジェニー・ボイド


 ジェニーはビートルズらとともにマハリシの超越瞑想を学んだ一人だ。パティが英タイムズ紙にロンドンで超越瞑想のコースがあるという広告を見つけたのがきっかけだった。
 66年夏のこと、ジョージはツアーに出ており、パティは友人を伴ってそのクラスに出かけ、マハリシの弟子たちに教えを受け、マントラを授かり、瞑想の仕方を学んだ。
 一方、ジェニーは初めてビートルズの67年の作品「愛こそはすべて」を聞いた時のことを忘れないという。
 ビートルズの音楽は人々の気持ちを捉え、まさに若者たちのムーブメントの精神そのものを代弁しているかのようで、ある世代のアンセムとなった、とジェニーは回想した。
 「その歌は直接私に語り掛けてくれているように感じていた。シンプル(な唄)だったが、私が自分自身に問いかけていた深い疑問の数々が突如として解けていったのです」。
 67年のある日、ポール・マッカートニーが、マハリシが夏にロンドンに来るということを聞きつけて、他の3人のビートルたちに知らせた。
 ジェニー、パティ、ジョージ、ポール、彼の恋人だったジェーン・アッシャー、ジョン・レノン、妻シンシア、さらにミック・ジャガーとガールフレンドのマリアンヌ・フェイスフルがそこに赴いた。
 ヒルトンホテルでマハリシの講演があった。初めて参加したジェニーはマハリシの教えにはそれほど熱心でなかったという。

マハリシ


 それから10日後、ジェニー、パティ、ジョージらはマハリシの招待でウェールズのバンゴールで開かれるマハリシのレクチャーに参加するためロンドンを出発した。
 ジェニーはまだ懐疑的だった。彼女にとってマハリシは「金の卵を産むガチョウ」のように思えた。
 だが、ジョージは熱心だった。彼は献身的に、かわいげのある無垢さでもって、マハリシの話す言葉をひとつひとつ復唱していたくらいだった。
 同じく瞑想を学ぶためにマネージャーのブライアン・エプスタインも加わる予定だったが、まさにその日になって、ジョージは彼が死んだことを知らされた。薬物の過剰摂取による死だった。67年8月27日のことだった。
 ビートルズにとっては「ひどく辛いこと」で、ブライアンがもはやビートルズがこれから踏み出していく大きなステップの一部ではないということを意味しており「一つの時代の終わり」を告げていた。
 ジェニーがみるところ、「今やビートルズは一つのまとまった”ビートルズという人格”ではなく、それぞれ自分自身を個人として掘り下げようとしていた」という。
 68年に予定される待望のインド行きを待つ間、ジェニーは67年冬にオープンするアップル・ブティックの経営を、ジョンの幼馴染ピート・ショットンとともに任された。
 ある日、旧知の歌手ドノバンのマネージャーの家で昼食を食べた後、ドノバンはジェニーのために歌いたいといってギターを弾いた。
 ジェニーは「自分のことを歌っているとわかり、目に涙がたまっていくのを感じた」。「ジェニファー・ジュニパー」という歌だった。
 この曲はシングルカットされ全英5位を記録、アルバム『ハーディ・ガーディ・マン』に収められている。

ドノバン『ハーディ・ガーディ・マン』


 68年2月、待望のインドでマハリシのもとで超越瞑想を学ぶための修行が開始された。修行場所となったリシケシュはデリーから遠く離れており、修行するアシュラムは周りを森林に囲まれていた。

ジェニーと義兄ジョージ


 リシケシュでは、ジョン、ポール、ジョージは作ったばかりの曲を互いに歌い合っていた。多くの曲は『ホワイト・アルバム』に収録される。
 ジョージが床に座って歌っていた「ベガーズ・イン・ゴールドマイン」という作品があった。これは「金鉱の乞食たち」という意味で未発表。
 アシュラムを去ってタージマハルやダラデューンというリシケシュ近くの街に行くような人々のことを歌っていた。ジョージは「卵を買いに来るかのような気持ちで瞑想しにくる人々」を理解できなかった。
 ある時、ジョンが瞑想を続ける中での障害「氷山」と呼ばれる状態にぶつかって眠れないのだとジェニーに話しかけてきた。そして「アイム・ソー・タイアード」の出だしを聞かせてくれたという。
 またジョンは女優ミア・ファーローの妹プルーデンスが瞑想のし過ぎでトランス状態から抜け出せなくなったことを「ディア・プルーデンス」という歌にした。
 インドから帰るとショッキングなことがあった。
 シンシアがジェニー、アップル・エレクトロニクスの責任者マジック・アレックスと一緒に自宅に着くと、何と一足先に帰っていたジョンが東洋女性(オノ・ヨーコ)と一緒にいたのだ。
 ジョンはいたずらを母親に見つかった悪童のようで、「やぁ、ジェニー」というのがやっとだった。ジェニーは苦笑いをするしかなかった。
 ジェニーはフリートウッドマックの創設メンバーの一人であるドラマーのミック・フリートウッドと結婚離婚を繰り返す。

ジェニーとミック・フリートウッド


 またキング・クリムゾンのイアン・ウォレスとの結婚経験もある。
 80年代後半にはカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で心理学の博士号を取得、その知識を活かして、多くのミュージシャンにインタビューして「音楽的才能の真相」に迫る「素顔のミュージシャン」(早川書房)という共著もものにしている。

「素顔のミュージシャン」(早川書房)

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