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ジョンを彷彿させたコステロ

 「ジョン・レノンの再来」といった人も少なからずいたようだ。1980年代後半からポール・マッカートニーとコラボレーションしたエルビス・コステロのことである。
 はすに構え、歯に衣着せず、近眼でメガネをかけ、おまけにリバプール出身ときている。
 80年のジョンの死後、ポールはスティービー・ワンダー、マイケル・ジャクソンといった大物と仕事をしてきたが、コステロとのコラボのアイデアはマネジメント・サイドから出て来たのだという。
 それはコステロにしてみれば相当な覚悟がいることだった。
 「僕は当然ビートルズファンだったし、ファンクラブの会員でもあったけど、僕はポール・マッカートニーとの仕事を頼まれるような奴じゃないし、87年の話だから、僕は33歳か34歳かな、それまで学んできたことを全部使って臨まないといけなかった。憧れのスターに会えて感激しているガキとしてではなくてね」。
 コステロはポールが気に入りそうな作りかけの曲ー「ベロニカ」を持っていった。二人がまず取り掛かった最初の曲となった(この曲は同じく共作の「バッズ・ボウズ・アンド・クロウズ」とともにコステロの89年の『スパイク』に収録された)。


 次に手がけたのはポールがすでにかたちにしていた「バック・オン・マイ・フィート」だった(ポールの87年のシングル「ワンス・アポン・ア・ロング・アゴー」のB面に収められた)。
 それは「聖なる愚か者、あるいは不幸な放浪者」についての歌だとコステロはいう。
 共作の中で初めてレコードに収録された曲となったが、「レコードが郵便で送られて来た時のことはよく覚えている。作曲者としてポールと僕の名前が並んでいるレーベルを信じられない思いで見つめていた」(「エルビス・コステロ自伝」亜紀書房)。
 ポールはジョンと一緒に仕事をしていた時と同じプロセスを採用したという。「二人ともアコースティック・ギターを抱えて座り、彼は右利きで僕が左利きだったから、鏡を見るような感じだった。ジョンとの仕事を思い出させるようなことがたくさんあったよ」。
 彼らは向き合って座り、毎日曲を書いていった。
 「ボーカルのレコーディングの際は、必然的にポールがハーモニーの上のパート、僕が下のパートを担当することになった。そのせいで、何曲かは、いかにも「レノン=マッカートニーの曲」っぽくしようとしている感じになった」とコステロはいう。


 「ポール・マッカートニー告白」(DU BOOKS)によると、「ぼくらが二人で書いた曲は、僕のいつもの曲とはちょっと違っていて、言葉数がいくぶん多めだった。(コステロは)すごく言葉に入れ込んでいる。彼はぼくのいい引き立て役だし、ぼくもかなりいい引き立て役だと思う」。
 ただ、「時に彼(コステロ)がコードを使いすぎることもあった」。
 コステロによれば、ポールは「ビートルズのときに使っていた音楽的言語」を使うことを絶対に避けようとしていたのだという。
 だが、コステロは、ポールがビートルズ時代初期に使っていたヘフナーのバイオリンベースを引っ張り出してくるように説得したのだ。
 当時ポールが使っていた最新のベースのサウンドが好きでないと、当時共同プロデューサーとして責任を与えられていたコステロは率直にポールにそう告げたのだ。
 ヘフナーベースはその時にはいいコンディションではなかったが、修繕して、「エレキベースとアコースティックベースの中間のような、非常に変わったベース」で「素晴らしいサウンドを持つ楽器」(コステロ)として蘇ったのだった。
 このヘフナーのサウンドがなければ「マイ・ブレイブ・フェイス」のいかにもビートリーな感じは出なかっただろう。
 結局、アルバム一枚分の楽曲をポールとコステロは共作し、彼を共同プロデューサーに任命した。だが、ポールはその楽曲をリリースしないことにして、代わりに『フラワーズ・イン・ザ・ダート』(89)というアルバムを自分だけの名義で出すことになる。


 同アルバムには「マイ・ブレイブ・フェイス」のほかに「ユー・ウォント・ハー・トゥー」、「ケアレスラブに気をつけて(Don't be careless love)」、「ふりむかないで(That day is done)」の計4曲の共作曲が収録された。
 90年3月にはポールは同アルバムをひっさげて、66年のビートルズ時代以来、ソロとしては初めての日本公演を敢行した。
 共作曲のうち、「ミストレス・アンド・メイド」と「ザ・ラバーズ・ザットネバー・ワー」の2曲は93年のポールのアルバム『オフ・ザ・グラウンド』に収められた。


 「ソー・ライク・キャンディ」と「プレイボーイ・トゥ・ア・マン」はコステロの91年の『マイティ・ライク・ア・ローズ』に、「シャロウ・グレイブ」、フェアフィールド・フォーと録音した「ふりむかないで」の別バージョン、「ミストレス・アンド・メイド」のデモはコステロの96年の『オール・ディス・ユースレス・ビューティ』に収録された。


 ポールのアーカイブ・コレクションの『フラワーズ・イン・ザ・ダート』デラックス・エディションには、共作のオリジナルおよび88年デモが収録された。そして「トミーズ・カミング・ホーム」と「トゥエンティ・ファイン・フィンガーズ」がようやく日の目を見たのだ。
 コステロはポールとの共作曲で特によくできたのは、ピアノで作った「ザ・ラバーズ・ザット・ネバー・ワー」だという。
 そして二人のラフ・レコーディング版は、ポールのソロキャリアの中でも「最高の未発表音源」ではないかと思っていると話していた。
 そうしたら、その音源がアーカイブ・コレクションの一端としてリリースされたのだった。
 コステロは振り返っていう。
 「ポールと仕事をして一つ分かったのは、彼はいったんメロディーが決まったら絶対に変えようとしないことだ」。
 「歌詞の韻をそろえるためにメロディーのリズムを変えたいのだといくら言っても聞いてはくれない。そのメロディー優先の感覚は、すぐ後に仕事をしたバート・バカラックに近いものがあると思う」。

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