映画「私は憎まない」
激しく心を揺さぶられる映画だった。
いや、この作品を観て心が揺れない人など果たしているのだろうか?
「いま、ガザで何万という民間人、子供たち、女性たちが虫けらのように殺されていく中で、生命と平和の重みに気づかせてくれる映画である」と中東ジャーナリスト川上泰徳氏はいう。
2024年10月13日(日)、映画「私は憎まない 平和と人間の尊厳を追求するガザ出身医師の誓い」(2024年/カナダ・フランス/92分/タル・バルダ監督)をアップリンク吉祥寺で観た。
3人の娘をイスラエルによる砲撃で目の前で失ってしまったパレスチナ人医師イゼルディン・アブラエーシュ博士が決して憎しみに溺れることなく、憎しみのきっかけに目を向けそれに対処するには教育だと説く姿。
そしてイスラエルに対して怒りをぶつけるのでなく謝罪を求めるが、パレスチナとイスラエルの共存を訴える姿。
こんなヒューマニティに溢れる人物がいるのかと驚かされる。
ガザの難民キャンプで育ったアブラーシュ医師は苦労を重ね、貧しい家族を助けるため勉学に励み、産婦人科医になる。
そしてパレスチナ人医師として初めてイスラエルの病院で働くこととなる。パレスチナ人であれイスラエル人であれ同じ命だからだ。
だが、2009年1月16日、自宅にイスラエル軍が砲撃を加えて、娘3人ーーベッサン、マヤ、アーヤーーを一瞬にして失ってしまう。
血の海に横たわる娘たち。脳みそは飛び散っていた。
この時、アブラーシュ医師は助けを求めて在イスラエルの友人に電話をしており、この虐殺の模様が同医師の泣き叫ぶ声によってイスラエルのテレビを通じてライブ中継されることになったのだ。
アブラーシュ医師は後に語った「その瞬間、私は人類に失望した」。
テレビ放送されたこともあり、娘らは病院に運ばれたが、アブラーシュ医師はそこで普通だったら信じられないような行動に出る。
憎しみは有害な病
そう、そこにいて医師を待っている人たちを診断し始めたのだ。
娘たちを失ったのに、目の前の命を救うのが優先だといって。
そして後日、突如として「パレスチナとイスラエルの共存」について語り始めたのだ。これについて医師の友人は「おかしいと思ったし、こわくなった。まともじゃないと思った」と語ったほどである。
しかし、アブラーシュ医師の信念だったのだ。
「憎しみは有害な病だ」。
同医師は著書「それでも、私は憎まない」(亜紀書房)に書いたーー
「ガザ住民の多くがそうだが、わたしは生涯にわたり、悲惨きわまりない環境により試練を受け続けてきた。今までは一つ一つの試練を、自分自身を強くし、次に訪れる試練に備えて武器やエネルギーを獲得するチャンスだととらえてきた。けれども、ひょっとしたら、そういった試練はわたしを中東における分断への架橋を助ける使者として強くするよう設けられていたのかもしれない」。
アブラーシュ医師はガザを離れ、乞われてカナダのトロントへと移る。そこで教鞭をとるためだ。
だが同時に、イスラエルに対して謝罪を求めて裁判を闘う。イスラエルの最高裁まで争うが、結果としてイスラエルの罪は認められずに、しかも一度として彼らからの謝罪はなかった。
イスラエルによるパレスチナ、中でもガザへの抑圧、暴力は何十年と続いているである。日常茶飯事、虐殺が怒っているといってもいい。
それはジェノサイドだ。
昨年10月初めのイスラム組織ハマスのイスラエルへの越境攻撃によってイスラエルの攻撃がエスカレートした面は確かにあるものの、そのハマスの攻撃は決して「きっかけ」などではないのだ。
映画は2024年のシーンとなる。続く戦争。
アブラーシュ医師らがハマスについて議論する場面もある。
そして、娘たちとの思い出が残るガザの美しい海岸が映し出される。かつて海岸に出かけた娘たちは自分たちの名前を砂に書いたそうだ。
心揺さぶられる映画だ。
今、ガザで起こっていることを頭で考えるよりも、この映画を心の目でもって観るほうがはるかに大切な気がする。