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「ミュシャ展」を見た!

 本当に奇麗な作品が次から次へと紹介されており目の保養になった。と同時に、そのアーチストの祖国愛があふれ出ている重厚な作品たちには、思わず足を止めて見入らされてしまう力がありました。
 そのアーチストとは19世紀末のパリのいわゆるベル・エポック(美しき時代)を彩り、アール・ヌーボーをけん引したアルフォンス・ミュシャ。
 その芸術家の作品400点余りが紹介されている「アルフォンス・ミュシャ展」が開催されている八王子市夢美術館(東京都八王子市八日町8-1ビュータワー2F)を2023年5月21日(日)に訪れた。
 ミュシャの描く優美な女性像はここ日本でも大変人気がある。彼女の作品はポスターや装飾パネルなどにも多く起用された。晩年には故郷チェコ共和国に戻り、自らの芸術を祖国に捧げる活動を展開した。
 1860年、ミュシャは民族意識が濃く残るモラビア地方の村イバンチッツェ(現チェコ共和国)に生まれた。27歳の時にパトロンの援助を受けて、パリ留学を果たす。援助が終了すると挿絵画家として細々と生計を立てていたが、34歳の時に転機が訪れた。
 当時パリで名高かった女優サラ・ベルナールの舞台「ジスモンダ」の宣伝用ポスターを手掛けることになり、それをきっかけとして一躍時代の寵児(ちょうじ)となったのだ。大反響を呼んだミュシャのポスターは、サラの心をもつかんで、6年間のポスター制作契約を結ぶに至った。

モナコ・モンテ・カルロ 1897年 リトグラフ

 その後、ミュシャのもとには、装飾パネル、カレンダー、商品パッケージなど、さまざまなデザインの依頼が殺到することとなった。

パリのシンボル 1900年 陶器 (左はモノクロ)


 中でも装飾パネルは、リトグラフを用いることによって大量生産と安価での販売が可能となり、富裕層の特権であった芸術を一般市民にまで広めた。
 優美な女性像と草花を活かしたデザインは、「ミュシャ・スタイル」というひとつのデザインのジャンルを確立、ミュシャはアール・ヌーボーを代表する芸術家に昇りつめた。アール・ヌーボーとは19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に展開された国際的な芸術運動のことだ。

装飾資料集より

 1900年の第5回パリ万博では、ボスニア・ヘルツェゴビナ館の装飾やオーストリア=ハンガリー帝国のためのポスター制作の依頼を受けた。それは晩年の「スラヴ叙事詩」制作への足掛かりになる。
 ミュシャはこのあと、商業的な仕事から距離を置き、後半生を祖国チェコとスラブ民族に捧げることになります。1906年以降アメリカに拠点を移していたミュシャは「スラヴ叙事詩」の制作資金のメドがつくと帰国。
 祖国では「スラヴ叙事詩」制作と並行して、プラハ市民会館の壁面装飾などを手がけました。1918年にチェコスロバキア共和国が独立すると、切手や紙幣など新国家に関連するあらゆるデザインを無報酬で引き受けた。

クロメェジージュのヤン・ミリーチ 1916年 油彩ーのちの宗教改革に影響を与えたヤン・ミリーチは娼館を尼僧院に改装した
スラヴ民族の神格化 1928年-ミュシャの歴史観が要約されている
スラヴの菩提樹の下で行われるオムラディナ会の誓い 1928年 油彩

 ミュシャのこうした姿勢は、パリ時代に芸術を一般市民も楽しめるようにしたいと力を注いだ姿と重なり、ミュシャが「民衆のための芸術」という信念を終生貫いたことを表しているといえます。 
 ドイツ軍によるチェコスロバキア占領後、愛国者であり無名でなかったミュシャはゲシュタポから厳しい尋問を受けた。衰弱した老体は病に屈して、1939年にこの世を去った。78歳だった。
 プラハ市はミュシャのために国葬を用意、チェコの偉人たちが眠るプラハ・ヴィシェフラード墓地のスラヴィーン廟の一角に葬られた。
 東西冷戦終結後の1993年、チェコスロバキアはチェコ共和国とスロバキア共和国に分離して、今日に至っている。
 同展は6月4日(日)まで開催中。八王子夢美術館の連絡先は:042-621-6777。開館時間は午前10時から午後7時まで(最終入館は午後6時半)。休館日は月曜日。観覧料は一般800円、学生(高校生以上)・65歳以上400円、中学生以下無料。

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