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エリック、ジョージとパティ

 ジョージ・ハリスンの妻だったパティ・ボイドを彼の親友エリック・クラプトンが略奪した一件は当時のマスコミを大いに騒がせた。
 だが、パティがエリックと一緒になるためにジョージのもとを去った時、ジョージが告げたのは「もしうまくいかなかったらいつでも自分のところへ来ればいい、面倒を見よう」という言葉だった(「パティ・ボイド自伝 ワンダフル・トゥデイ」シンコー・ミュージック刊)。
 その利己心のない、愛と思いやりに満ちたジョージの言葉を、パティは常に心の片隅に大切にしまっておいたのだという。

「パティ・ボイド自伝」(シンコーミュージックエンタテインメント」


 2001年11月29日、ジョージががんで他界した。享年58歳。彼の死を知らされたパティは泣き崩れたという。
 「すべてが失われた気がしたのだ。ジョージのいない世界を想像することなど、私には耐えられなかった」。
 ショックが大きかったパティはロサンゼルスで行われた告別式にも参列しなかった。一周忌にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開かれたエリック主催の追悼のための「コンサート・フォー・ジョージ」にも招待されたが、それにも行けなかったという。
 ジョージのパティとの出会いは1964年にまでさかのぼる。パティが19歳の時に、ビートルズの映画『ハード・デイズ・ナイト』に高校生役として出演し、彼と知り合うことになるのだ。その2年後に、二人は結婚する。
 ジョージの希望を入れ、結婚を機にモデルを辞めたパティ。スーパースターの妻である重圧と闘いながらも彼の創造力を刺激し続けたミューズとしてのパティ。ジョージのビートルズ時代を代表する名曲「サムシング」はパティに捧げられたものとの見方が有力だ。
 だが、ジョージが東洋哲学に深く傾倒していったことや彼の浮気癖などから、次第に彼とパティ両者の関係は悪化していった。パティは、ジョージとリンゴ・スターの妻モーリーンとの仲をも疑っていたくらいである。
 そのころ、エリックは禁じられた愛に惹かれていっただ。パティにインスパイアされ、エリックが求愛のために書いたのが「いとしのレイラ」だ。

「いとしのレイラ」を収めた同名アルバム(デレク・アンド・ドミノス)


 エリックの激しく情熱的なアプローチに、ついには彼のもとに行くことを決意したパティ。ジョージとパティは74年に正式離婚した。
 そんなパティとの別れが、この年にリリースされるジョージのアルバム『ダーク・ホース』に影を落とした。
 このアルバムに収録された「バイ・バイ・ラブ」はエヴァリー・ブラザースの曲のカバーだが、ジョージはアレンジとともに歌詞も替えて胸中を吐露している。「さようなら、幸せな日々よ。こんにちは、孤独よ」、「僕は祝おう、あの娘と“Clapper”の幸せを」。

ジョージ・ハリスン『ダークホース』


 パティは79年にエリックと再婚した。
 だがパティは振り返る――「エリックの誘惑に負けてジョージのもとを去ったが、私は彼のことをほとんど知らなかった。ロマンティックで気性が激しく、自由奔放で、ミュージシャンとしてだけでなく、アーティストとしても才能豊かな人だと思っていたが、自分の想像の中でキャラクターを創り上げすぎていた」。
 エリックとの結婚生活は困難を極めた。それはパティによれば、彼のアルコール依存症と女癖の悪さによるものだった。結婚生活10年、89年に二人は離婚する。
 パティはジョージとはパーティーの席で時々顔を合わせていた。彼女は言う。「彼は私にとって兄のような存在になっていた。完全に安心していられる存在、何でも話せる存在に」。
 そしてパティは、ジョージが78年に再婚したオリビアや彼らの息子ダニーとも交友を持つようになる。彼女は「私たちは家族だった」という。

ジョージとエリック


 一方、ジョージとエリックの仲はどうなったのだろうか。
 二人の友情は堅かった。74年の北米ツアーが不評だったことから、ジョージは再びコンサートツアーに出ることに消極的になっていたが、エリックが全面的にバックアップすることを約束し、91年にはエリックと彼のバンドを従えてのジョージの日本ツアーが実現したのだ。
 パティがジョージと最後に会ったのは当時サセックスに住んでいたパティのコテージだった。ジョージが電話をかけてきて、リンゴと彼の再婚相手バーバラに会いにサセックスを訪れるので、パティにも会いたいというのだ。
 だが、パティは、ジョージが本当は彼女の暮らしぶりを知りたくてやって来たのだと信じている。
 そしてこう思っている。「最後に彼と、あんな風に会えて良かった」。

ジョージとパティ

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