映画「甘い生活」を観て
フェデリコ・フェリーニの1960年の作品「甘い生活」(イタリア=フランス映画)を観た。いい映画のお手本のようだと思った。だて男全開のマルチェロ・マストロヤンニら名優たちの存在感が素晴らしい。
舞台は1950年代終わりから60年代にかけてのローマ。出演者が口にするマリリン・モンローの名や、パーティのシーンでバンドが演奏するロックンロール初期の名作「Ready Teady」から分かる。
マストロヤンニ演じる今は「パパラッチ」のような仕事をしている売れない作家の女性の口説き方がいい。褒めて褒めて褒めまくるのだ。古今東西どこでも通じるお手本がここでのマストロヤンニなのだろう。
でも妻に言われる「口説くことを愛だと思っている。愛されることを知らない。私がいなくなったら独りぼっちよ」。
女優たちもいい。みんな我儘だ。言い換えるならば自由奔放。本当はそうでなくっちゃいけない。男はそれを分かったような言葉で咎めたりしてはいけない。でもマストロヤンニようにいかないのが実際のところだ。
その典型的な場面が観光名所でもあるトレヴィの泉に、ハリウッドから来たグラマラスな女優(アニタ・エクバーグ)が飛び込んでマストロヤンニ演じるだて男と興じるところだろう。天衣無縫な女と男。
この映画のスパイスとなっているのが宗教。
冒頭のシーンはキリスト像がヘリコプターで吊るされてローマカトリックの総本山バチカンへと運ばれる様子で、ビルの壁にヘリコプターの影が映る様子などとてもうまくて、この映画はいいとすぐに分かるのだ。
途中、友人の男ともてもてのマストロヤンニが教会にいるシーンがある。男は「上に行ってもいいですか、神父さま」というと神父はOK。すると男は「神父様は悪魔を怖くないようだ」。そして男はパイプオルガンで弾くのだ、バッハの「トッカータとフーガ二短調BWV565」を。
また、貧しいあるいは障害を持つ子どもたちと奇跡のイベントが開かれるシーンもある。だが、これはやらせなのだ。女の子が決められたタイミングで「聖母さま」と叫んで指を指す。カメラマンがいて、放送もされている。
マストロヤンニは妻と一緒に来ている。雨が降り出してイベントは中止となる。奇跡が起きたとされる木に殺到する人々。混乱の中、犠牲者が出る。神父がいう「永遠の平安がありますように」と。
詩人はいう「三つの現実逃避がある。煙草、お酒、ベッド」。とするとマストロヤンニ演じる男はそのように見える。ままならぬ現実から逃避していることによる現実の生活ってわけだ。
友人もいう「見かけは平和でも裏に地獄があるようで子どもの未来を考える。未来は明るいというけれど、見方によっては電話の一本ですべてが終わるかも。情熱や感情を超えたところで芸術の調和に生きるべきだ。魅惑の秩序の中に。互いに愛し合い、時間の外に生きるべきだ。超然と」。
このセリフって、この真っ当な友人はどこかでマストロヤンニのような人生を肯定しているようにも聞こえるのだ。そしてこの芸術を称えるセリフはフェリーニ監督自身の言葉のようにも響いてきた。
家族を愛し幸せに見えた友人は結局、子どもたちを殺して自分も死ぬ。
マストロヤンニ演じる男もある意味で哀れだ。
滞在していた町の海岸に死んだ魚が打ち上げられる。
そこで以前会った美しい少女がいた。
無垢な少女の笑顔でこの映画はフィナーレとなる。
「甘い生活」という映画のタイトル。それはきっと表向き。実は苦い生活と裏表なのだろう。それを描きたかったのではないかと思った。
「道」などの傑作を作ってきたフェリーニはこの後も「サテリコン」や「フェリーニの道化師」などを世に送り出していく。
ニーノ・ロータの音楽がいい。そしてマストロヤンニはこの作品で国際的なスターとなった。「ひまわり」や「引き潮」など多くの作品で主演。