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米国の黒人とは?:キング牧師

 「アメリカの黒人」とはいったい誰か。
 そのことを文学・文化を通して考え、「私には夢がある」というマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の有名な演説の背景に何があるのかについて東京外国語大学の荒このみ名誉教授が解説した。
 なぜカッコつきの「アメリカの黒人」としたのか。
 荒先生「単に”アメリカという地に住む黒人”のことではありません。”アメリカの歴史をともにしてアメリカ大陸で暮らしてきた先祖を持つ黒人”を「アメリカの黒人」と定義しました」という。
 アメリカの歴史を理解するにはアメリカの黒人の問題をよく分かっていないといけませんと荒先生は話す。
 建国の時からの問題は主に2つあって、一つは「黒人の奴隷問題」でもう一つは「インディアンなど先住民の問題」だが、「いまだに解決されていない。中でも黒人の問題は今も強く存在しているのです」。
 「今年の米大統領選挙で共和党はトランプが共和党の候補になりそうで、一方民主党のバイデン現大統領の人気は下がっている。白人至上主義者であるトランプがあれだけの支持を受けている。それもアメリカのメンタリティです。恐ろしいし、怖いことです」。
 2024年1月31日(水)に朝日カルチャーセンター新宿校で行われた講義で、荒先生は1950-60年代の黒人指導者マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師を取り上げた。


 1950年代のアメリカは大戦後、物質的に豊かな国として世界からうらやましがられた。保守的なアイゼンハワー大統領の時代で、古き良きアメリカともいわれる時代だ。そしてWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)のアメリカでもあった。
 それを経済学者のジョン・ガルブレイスは「affluent society」と呼んだ。
 「中産階級が落ち着いていて安定していた時代でした」と荒先生。
 「同時に黒人差別撤廃運動が盛んになっていった時代でした」。
 アメリカ政府は自国を「貧しい白人(poor white)」とか「黒人」というイメージで斬られることを嫌って情報をコントロールしていたという。
 荒先生によると、映画「タバコロード」は日本では70年代になるまで見ることが出来なかったし、「ララミー牧場」など都会の中産階級を描いたテレビドラマなどは米政府が日本に無償で提供していた。
 「50年代の豊かなアメリカを印象づけた」。
 一方、黒人差別撤廃運動では、1955年のアラバマ州のバスボイコット事件。前の方に黒人は座ってはいけないとなっていたが、体調が悪い黒人が座ったことが発端。この運動を指導したのがキング・ジュニア牧師だった。
 「この運動は一年以上続きます。すると黒人の女たちはみんな白人の家のメイドになっていましたが、通えなくなる。困った白人は自家用車で迎えに行きました。非常に大きな事件でした」と荒先生は説明した。

シットイン」や「フリーダム・ライダーズ」
 1957年にはアーカンソー州のリトルロック・セントラル高校に9名の黒人学生が入った。白人校に黒人も入れるようにという判決が出た後のことだった。しかし、州兵は知事の入学阻止の指令下にあり、騒ぎが起こったものの、アイゼンハワー大統領は無視していました。
 しかし、報道されて静観を辞めざるを得なくなり、黒人学生たちは州兵に守られながら登校するようになった。
 1960年、ノースカロライナ州グリーンズボロで「シットイン」が起こる。ドラッグストアなどにイートインコーナーがあるが、黒人には給仕が来ない。それでもそこに座り続けた事件のことだ。
 翌年には、「フリーダム・ライダーズ」という長距離バスの差別撤廃へ。バスには乗れるが、待合室、トイレ、水飲み場などすべて別々だったが、差別を認めない判決が出た後、「フリーダム・ライダーズ」という組織が活動するが、州をまたいで移動するバスの焼き討ちされたりした。
 そして、一つの運動のピークだったのが1963年8月28日の「ワシントン大行進(March on Washington for Jobs and Freedom)」だった。15-25万人が参加したという。


 荒先生はいう。「キング・ジュニア牧師の黒人指導者としての力が増していく出来事でした。この行進は平等な仕事を求めてのデモンストレーションだったのです」。
 これは1964年の「公民権法」成立というかたちで結実する。
 「非常に大きな出来事だった」と荒先生。
 その前年の1963年8月28日、「私には夢がある」という有名な演説をキング・ジュニア牧師は行った。
 「私には夢がある」というセリフのあとに「万民は生まれながらにして平等につくられている」という信条に沿った国家になるのです」「私の四人の子供たちがいつの日か、肌の色ではなく、人格の中身によって判断される国家に住むようになるのです」とか「黒人の少年や黒人の少女が、白人の少年や白人の少女と兄弟姉妹になって手をつなぎ、一緒に歩くような状況に変貌するのです」といったスピーチがなされたのだ。
 そして、荒先生は言った。「もう一人黒人指導者としてマルコムXがいました。しかし、同じ黒人でも対象が違っていた。キング・ジュニア牧師は都会の中産階級を対象とし、マルコムXは社会のはぐれ者を対象にしたのです。その両方を知らないとアメリカの黒人の問題は分かりません」。
 米政府はこの二人が手を携えることを怖れてメディアを通してのイメージ戦略などで意図的に対立をあおったという。

ベトナム戦争反対
 1967年4月4日、キング・ジュニア牧師はニューヨークのリバーサイド教会でベトナム戦争反対の説教をした。
 米政府はベトナム戦争の泥沼に足を取られ始めていた時期のことだ。65年にはジョンソン大統領が北爆を開始していた。
 そのちょうど一年後、1968円4月4日、メンフィスのロレーン・モーテルのバルコニーにキング・ジュニア牧師は2,3人で立っている時に暗殺されてしまう。「この背景は闇の中です」と荒先生はいう。
 ベトナム戦争反対を訴えた影響力のある人たちは次々に殺されていった。荒先生は、何度も暗殺未遂にあったジャマイカ出身の歌手ボブ・マーレイや後年暗殺される平和運動でも知られたジョン・レノンの名を挙げた。
 「ジョン・レノンは狂ったファンに殺されたと言われていますが、真相は闇の中です。また、暗殺されたケネディ大統領もベトナムからの撤退を考え始めていたといいます。武器商人にとっては目障りだったでしょう」。
 キング・ジュニア牧師の墓には「とうとう自由に(Free at last)」と彫られている。荒先生は言った「これを見た時、私は悲しいような、どうしようもない感じがしました。彼は死ななければ自由になれなかったと、その象徴的なことだと感じたのです」。

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