泉麻人&タブ純の昭和50年代
定刻になるやイントロが流れてタブレット純さんが入室してきた。三木聖子と石川ひとみで知られる「まちぶせ」を歌いながらだった。タブ純さんは赤でコーディネートして、頭には赤いリボン。会場から手拍子が起こった。
続けて昭和50年のレコード大賞新人賞を受賞した細川たかしの「心のこり」をタブ純さんは歌い上げた。
歌が終わると作家の泉麻人さんが登場した。「今の細川たかしの曲って昭和50年じゃないですか。角川博も同じ頃で紛らわしいだよね」。
2023年11月19日(日)、「泉麻人Xタブレット純 昭和を語る」が読売文化センター荻窪で行われた。今回のテーマは「昭和50年代」。タブ純さんは昭和49年生まれ。泉さんは大学入学が昭和50年だった。
タブ純さんは「青春歌謡とか語っていると、まだ生まれていないんですよね。いつの時代の人間なんだってなっちゃうんで。4,5歳から記憶があるので(昭和50年代は)オンタイムで」と語った。
泉さんは述べた。「昭和50年代の歌謡曲って本当のヒット曲は新御三家と中3トリオの全盛期で、あとはジュリーや布施明、五木ひろしってところ。昭和50年のレコ大は「シクラメンのかほり」」。
するとタブ純さんがすかさず「シクラメンのかほり」を歌った。
「僕(泉さん)、その大みそかの夜中に友だちの車で初詣に御岳山に行ったんです。初日の出る前に酒場があって甘酒を飲んでいたら「シクラメンのかほり」を延々とやっていたんです」。
その曲の作者は小椋佳。
タブ純さんは「一番最初に好きになったシンガー・ソングライターが小椋佳。おじから全曲集をもらって、その一曲目が「しおさいの詩」でした。カセット・テープに美少年が写っていて、この人かと思ったら、中1ぐらいの時にテレビで初めて本物を目の当たりにして、”生きるって辛いんだよな”って思ったんです」と回想した。
昭和50年代はノンポリの時代
泉さんは昭和50年代について「昭和40年代はまだ学生運動のなごりが東京なんかにはあって、大学に入ったのが昭和50年。アジ看板なんかは朽ち始めていました」というと、タブ純さんは「昭和49年に「いちご白書をもう一度」が出て、もう学生運動じゃないよって。でも就職が決まってから髪を切るのっておかしいんじゃないかって」と話した。
泉さんがフォローした。「言葉をのせる時にそうなったんでしょうね」。
昭和50年代ってのは「ノンポリ学生、サークルの時代なんですよ。テニスとか。あるいは三無主義、四無主義。冷めてる方がかっこいいみたいな感じでしたね」と泉さんは解説した。
するとタブ純さんは「ニュー・ミュージックが出てきましたね」というと泉さんは「ユーミンが売れ出すのは昭和50年代に入ってからでしたね。それまではマニアック。「ルージュの伝言」では銀座NOWにプロモーションのために出ていましたね」。
話は冒頭の「まちぶせ」に移った。タブ純さんは言った。「三木聖子さんは売れなかったんですけど、これはユーミンが三木さんの恋愛経験を聞いて作ったものなんだそうです」。
「三木さんのほうが(石川ひとみより)一生懸命感がある。ドリフの全員集合の間で歌っててすぐに舞台を回されちゃってた。何の紹介もなくって」と泉さんが話すと会場からは笑いが起こった。
タブ純さんが「ナベプロが力を入れたけれども本人が性格的に芸能界向きじゃなかったんですね」と話すと泉さんが芸能界を引退した後に三木さんは「アミューズのOL」になったという話を披露した。
ここで三木聖子の「まちぶせ」のシングル盤をかけた。
「この頃、ちょうど三億円事件が時効になるけれど、ジュリーが犯人みたいなドラマがあったでしょう。すぐに半裸になったりして」と泉さん。
タブ純さんが返した。「お腹のあたりにちょっと毛があったりして」。
「ユーミン」でなくて「ムーミン」?
ユーミンの話に戻った。泉さんは「ラピュタ阿佐ヶ谷にその当時のユーミンの宣伝チラシが貼ってあったんだけど「ムーミン」ってなっていて、それくらいユーミンってのが浸透していなかったんだね」と思い出話をした。
ユーミンっていうニックネームはグループ・サウンズの「フィンガース」にいたボーイ・フレンドがつけたという話だと二人は話した。
フィンガースというのは慶応の金持ちバンドだったという。
さらに昭和50年代のファッションについて、泉さんは「今でいうアメカジみたいので、ポパイが創刊されて紹介されて、アメ横なんかに輸入の店があったりして」と話す。「魚屋の横の路地でそういうの売ってた。戦後、もともとは闇市だったような所です」。
泉さんはトリビアも披露。「アメ横の「アメ」って「アメリカ」の「アメ」となめる「飴」をかけてるようですよ」。
タブ純さんはアメ横あたりは朝鮮の方が多いと言って、「ある時、「日本人は(朝鮮人のことを)どう思ってるんですか」と聞かれたんで、「教科書とかで」といいかけると「本当に分かってるんですか!」ってなってトラウマに陥りました」という経験を明らかにした。
ここで泉さんが持参したレコードをかけることにした。まずは金井夕子の「午前0時のヒロイン」。「尾崎亜美が書いた曲で、第二の百恵にしようとしました」と言ってシングル盤をかけた。
「ヒット性はあるね。尾崎亜美は松任谷正孝のプロデュースで「マイ・ピュア・レディ」を出して、それが資生堂のキャンペーン・ソングになりました。モデルは小林麻美。それまでアンニュイだったのが、髪を短くしてイメチェンしていた」と泉さんが話すと、タブ純さんが「3回くらい(小林麻美に)似てるって言われました」と打ち明けた。
やばい話があった「Gメン75」
「僕の昭和50年代っていうと、兄が2人いるんだけど二人とも夜8時ごろに寝てしまう。ぼくは母が見ているテレビを隣で見ていた。土曜日だと、夕方に「まんがはじめて物語」。7時に「まんが日本昔話」と「クイズ・ダービー」。8時に「ドリフの全員集合」、9時は「Gメン75」。「ウィークエンダー」まで見ちゃってたんですよね」とタブ純さん。
「今思うとGメン75ってやばい話があった。極悪犯人とか。ウィークエンダーには泉ピン子がレポーターで出ていて、あと悪役の沼田爆。テレビの影響があってこんな変な人間になっちゃったのかなって」。
ここでGメン75のエンディングテーマ、しまざき由理の「面影」のシングル・レコードをみんなで聞いた。
話は泉さんの大学時代に。「最初、広告業界研究会というのに入ったんですよ。夏に海のライブハウスやったり、そこに新人歌手がキャンペーンで来て、レコード会社の人たちと知り合いました・・・その夏くらいにカネボウのクッキーフェイスのキャンペーンで夏目雅子さんが歌を歌ったんです。これしか出してないんじゃないかな、歌は」。
そして夏目雅子の「恋のクッキーフェイス」を聞いた。
「大場久美子が歌いそうなサウンドでメロディライン、リズム。もともとは和製洋楽なのかな。見本盤をもらったんですよ。だってわざわざ買うまでにはいかないですよ」。笑いが起こった。
「大学時代はアグネス・ラムとキャンディーズだった。百恵、淳子、昌子は高校生で対象としては下なんですよね」。
今でいう統一教会が大学に
泉さんがラジオに初めて出たのは、「大学の広告研究会で年末流行大賞というのをやるというので、乱一世の「パンチ・パンチ・パンチ」という番組に昭和52年の年末かな、出たんです」。
昭和50年代には「なんだかナンパしなきゃいけないってのがあったんです。車の免許が要る。練馬じゃだめだから品川ナンバー。品川に下宿する奴がいたんですよ。それがまさにノンポリってこと。軟派のサークル系ともう一つあったのが原理研で、今でいう統一教会ですよね」。
次にかけたレコードは豊島たづみの「とまどいトワイライト」。
次に話題になったのは浜田朱里。「第二の松田聖子にしたい」という向きもあったが「ちょっと暗いんですよね。中森明菜に席を取られちゃったって感じですね」と泉さんは語る。
そこで浜田朱里の「想い出のセレナーデ」を聞いた。
泉さんは言った「CBSソニーが聖子よりプッシュしてたんですよ」。
それから泉さんお気に入りのテレビドラマは「スチュワーデス物語」だった。テーマ曲の「フラッシュダンス」に山本リンダ・バージョンがあるんですよ、と泉さん。タブ純さんは山本リンダと聞いて「公開放送に出てもらったことがあるんです。でも全く話がかみ合わなかった」と言った。
そこで山本リンダ版の「フラッシュダンス」をかけた。
そして最終盤に突入して、タブ純さんから泉さんにリクエストがあったー田原俊彦の「ハッとしてGood!」。泉さんは物まねしながら歌った。
最後の最後は二人で「林檎殺人事件」。郷ひろみ役が泉さん、樹木希林役がタブ純さんで、振り付けもしながら歌った。
こうして1時間半の濃密なトークショーが幕を閉じた。