治安維持法そして今
横浜事件をご存じですか。第二次世界大戦中の1942年から45年にかけて、治安維持法違反の容疑で編集者、新聞記者らが逮捕され、およそ30人が有罪となり、獄死者を出した事件である。
治安維持法の狙いは、平和や民主主義を希求する人たちを「アカ」「非国民」「国賊」などとして、結果として1917(大正6)年ロシア革命に緒を発した共産主義が広がらないように抑え込むということだった。
同法が廃止されるまでの20年間で、送検者は6万8274人、特高警察の拷問による死者は93人、刑務所での虐待・暴行・発病などによる獄死者は400人余り(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟調べ)だった。
横浜事件は1925(大正14)年に制定された治安維持法下で最悪の事件ともいわれる。戦後、無実を訴える元被告やその家族・支援者たちが再審請求を続けた。2005年に再審が開始されたが結局、有罪無罪の判断はされずに裁判が打ち切られる「免訴判決」が下された。
横浜事件の再審請求などに関わった森川文人(もりかわ・ふみと)弁護士は、治安維持法や横浜事件を「過去のものとしないことが大切」だとして、1990年代の日米ガイドライン制定などから始まり、今や「軍事費を二倍、軍事産業を国営化可能」にする、戦争へと向かう法律が成立するなど「戦争は我々のところに迫ってきている」と危機感を露わにした。
「おかしいと思っても行動に移さなければ治安維持法の時代と同じになってしまいます。立派な非国民になる、諦めないってことも含めて、古いことを今のこととして戦い続けることです」と森川弁護士は2023年12月22日(金)、「ギャラリー古藤(ふるとう)」で語った。
森川文人弁護士の父、金寿さんも同じく弁護士だった。1986年7月、文人さんは司法勉強の最中だったが、横浜裁判の第一次再審請求で横浜地裁まで父のカバン持ちとして行ったの「始まり」だった。
「すごい人だった。また当時のマスメディアからの注目度もすさまじいものがあった。治安維持法が最終的に報道、ジャーナリズムに襲いかかったことから、横浜事件がとりわけ注目されていました」と森川文人弁護士。
「記録する、記憶するってことは権力に対する闘争です。それをやっていくことは大切なのです」と力を込めた。
文人さんが司法試験に合格したのは1988(昭和63)年のこと。
そもそも横浜事件の判決が下ったのは昭和天皇の玉音放送がされた直後で、治安維持法が廃止される前の駆け込みだった。この裁判に関わる書類は、のちに責任を問われないように焼却されたという。
森川弁護士は「裁判官はよくわかっていました。自分たちの責任が追及されないように、すぐに燃やしてしまった。いろいろな人たちの証言があるものの、(焼却による証拠隠滅を)国家は正式には認めていません」という。
元被告らは、拷問を加えることで自白を強要した元特高警察官たちを告訴し、1952(昭和27)年に最高裁判所で、うち3人の有罪・実刑が確定。しかし、恩赦によって釈放され、刑を免れたのだ。
再審請求人として無罪を訴え続けた元被告の木村亨さんの「一番の思いは屈辱ということでしょう。「魂の殺人」というくらいで、力づくで屈服させられて、凄まじい、殺されるような暴力を受けて、自白を強いられた。権力というのはすさまじくいやらしいことをするんです」と森川弁護士。
横浜事件の再審請求は第一次から第三次まである。うち木村さんが関わったのは第一次と第三次で、第二次は別のグループによるものだった。森川弁護士は「(再審は)絶対に無理だと思っていました。普通に無罪を勝ち取るのでも1000分の1の確率で、横浜事件だとこれが10万分の1ぐらいになるのかなと思っていたのです」と打ち明けた。
木村さんが亡くなった後、遺志を継いだ妻まきさんが再審請求を続けた。そのまきさんは2023年8月14日にこの世を去ったが、その前に企画していたのが治安維持法を考える集い。森川弁護士の今回の講演は、まきさんの逝去を受けての企画展「木村まきさんを偲んで 治安維持法の時代を考えるー横浜事件ー」の一環として行われた。
横浜事件の再審請求は入り口から困難を極めた。戦後すぐの裁判の資料が残されていないことが、まずは再審を拒む理由とされたのだ。だが、第三次請求で2003年、横浜事件の再審が決定されることになる。
その後、2007年の東京高裁の決定で元被告人らの自白は拷問などによって強要されたものだと認定されていたが、翌年の横浜地裁は有罪無罪の判断を避けて「免訴判決」を下した。「再審でも、刑の廃止や大赦があれば免訴になる」として遺族らの上告を棄却した。
第三次再審請求弁護団は声明で「無罪を言い渡すべきものである・・・本判決は、実質的に見て、検察と一体になって横浜事件の隠ぺいを図ったものと言え、特高警察と検察の言うがままに違法な確定判決を言い渡した横浜地裁の行為への反省の姿勢は微塵も見られない不当な判決」だとした。
免訴判断が示された後、元被告の遺族2人は再審請求が遅れて名誉回復に支障をきたしたとして国家賠償請求を東京地裁に提訴した。東京地裁は拷問を認識しながらも検察官や裁判官が自白を前提にして起訴・判決を行ったことと、裁判資料を処分したことについて違法と認めたが、国家賠償請求は棄却した。これに対して遺族側は東京高裁に控訴した。
2018年、東京高裁は遺族側の控訴を棄却した。弁護団の手続き的ミスによって、翌年高裁は上告を棄却、裁判が終結した。
「違法と合法というのは善悪とは別の基準です。戦争もそう。違法を合法として、戦争に反対すると違法になってしまう。それが非国民ということになると思います。かつて横浜事件で有罪判決をうけた人たちは何かをやる可能性のある主体だった。国家や社会を変える可能性を持った人たちだから国家が狙い撃ちしたのです」と森川弁護士は話した。
ギャラリー古藤(東京都練馬区栄町9-16)で2023年12月24日まで行われている展示は横浜事件に加え、生活図画事件と植民地弾圧がテーマ。生活図画事件とは、北海道旭川を中心に美術の先生、生徒らが治安維持法違反でいわれなく逮捕され、その後の人生を狂わされた事件である。
横浜事件はいくつかの事柄が合わさった複合的事件だ。一つのきっかけは一枚の集合写真で、共産党再建のための謀議の証拠だとでっち上げられた。
朝鮮、台湾、満州国では治安維持法の運用が苛烈だった。植民地独立を抑え込むために独立運動を「国体の変革」だと解釈して同法を適用した。