ハンセン病患者の絵画展
国立ハンセン病資料館(東京都東村山市青葉町4-1-13)で「絵ごころでつながるー多磨全生園絵画の100年」というハンセン病患者たちの作品の展覧会を2024年5月6日(月・祝)に訪ねた。
この絵画展は9月1日(日)まで開かれている。休館日は月曜日および「国民の祝日」の翌日(月曜が祝日の場合は開館)。入館無料。
患者たちの絵画活動のはじまりから現在までを辿る初めての展覧会だ。油絵や版画など作品111点が展示されている。
また、活動に使われた道具など関連資料を見ることも出来る。
「ハンセン病患者・回復者に対する強制隔離という苦難のなかの絵画活動は描き手同士と、描き手と職員とをもつなぎ、やがて描き手と社会をつなぐ役割を担ってきた」と同資料館はいう。
現在は入所者の高齢化および減少により絵画活動は終息に向かいつつあるが、その歩みを振り返ることで、ハンセン病問題の解決と人権が尊重され差別のない社会の実現に資することが出来れば幸いです」。
今からおよそ100年前の1923年10月末、現・多磨全生園の礼拝堂で「第壱回絵画会」が開幕。同院の入所者が描いた絵画を初めて展示する催しとなった。その後、戦時中に結成された絵画サークルの活動が戦後に本格化、近年では集団から個人での作品作りへと変化し活動が継続してきた。
第1章「黎明期」ー第壱回絵画会では、多磨全生園の園内誌「山桜」の表紙が展示されている。「山桜」は1919(大正8)年、数人の入所者たちによって創刊された。1952年に「多磨」に改題される。
第2章「絵画サークル「絵の会」」ー1943(昭和18)年、結成された。当初の会員はおよそ40名。本展でも紹介されている瀬羅佐司馬、村瀬哲朗、氷上恵介は結成時からの会員だ。
絵の会会員でのちに園内で天才と評された瀬羅は1949年早逝する。作品は一枚も残されていない。
左手でもった絵筆を叩きつけるような描き方だったという。
氷上恵介(1923-1984)は社会復帰可能となるも、ハンセン病患者に対する偏見差別を恐れて家族は離散。それによって園内にとどまらざるを得なくなった。
第3章「個人で活動した描き手たち」-中でも特筆すべきは多磨全生園の絵画史の中でほぼ唯一の女性の描き手だった鈴村洋子(1936-2020)。1935(昭和11)年、北海道に生まれる。1960年と翌年に右足の切断手術を受け、さらにその翌年多磨全生園に入った。作品の主なモチーフは地蔵だった。
ここでハンセン病について振り返ってみよう。
病気の初期症状は皮疹、知覚麻痺、運動障害。だが経過はゆるやかで急激に症状が進むことはない。ただ進んでしまうと、神経痛、発汗障がい、手足や顔の変形・障がいなどを起こし、後遺症を残すこともあった。
現在では有効な治療薬が開発され、早期発見と早期治療によって後遺症を残すことなく確実に治せるようになった。
かつては「頼(らい)」あるいは「かったい」「なりんぼう」「どす」といわれた。中世では仏罰、近世では血筋による病だという考え方があった。
仏教の広がりにつれて、ハンセン病は「無間地獄」に落ちるのと同じく重い仏の罰とされた。「けがれ」意識に広がりも影響した。
また、家を重んじる考えが広がって、家筋や血筋の病だとみなされるようになる。家族全体への差別がついてきたのである。
1870年代すなわち明治初期から1920(大正9)年は患者収容の始まりだった。明治以降、町場や各地の神社、仏閣、温泉などには、家を出た後放浪していた患者たちがたくさんいた。明治末から放浪する患者たちの隔離が国家の対策として始められた。
公立の療養所が作られ、監禁室も登場、懲罰による秩序維持が図られるよになる。またのちに結婚の条件とされる男性の断種手術が行われるようになる。医師も少なく、介護や衣食住に関する作業も患者たちが行った。
1920(大正9)年から1945(昭和20)年には隔離が強化された。1931(昭和6)年にはらい予防法によって、感染のおそれがあるとみなされると強制的に療養所へ隔離出来るようになった。国立の療養所が誕生する。患者は地域で生きるのがいっそう難しくなった。
1945(昭和20)年から1996(平成8)年には化学療法が用いられるようになり、人間性回復の意義に目覚めた患者による運動が起こる。らい予防法の改正を求めて全国国立らい療養所患者協議会が結成された。
そして1996(平成8)年から今日まで、らい予防法が廃止されて、国会賠償請求訴訟が起こる。13名の患者たちの原告による裁判は一審で勝利、2001年に当時の小泉純一郎首相が控訴断念を決めた。
家族による国家賠償請求訴訟でも勝利した。