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週刊誌の時代の男たち⑤
演劇学のメッカ
当時の明治大学では、「花の生涯」シリーズなどで知られる小説家の舟橋聖一や文芸評論家の平野謙、「夕鶴」などを手がけた劇作家にして評論家・木下順二といった錚々たる面々が教壇に立っていた。
優秀な教授陣に魅かれて明治大学の演劇学専攻に入って来る者も少なくなかったという。
明治大学の演劇学専攻の特徴は理論だった。
山田恒人・元明治大学教授(演劇学専攻)はいう「当時、早大、明大、日大に演劇専攻があって、カラーはみな違っていた。早大は伝統演劇を教えていた。早大で芝居をやりたい人はそこではなく、英文科などに行った」。
「日大は映画学科、演劇学科があって、実務のほうだった。明大は演劇評論。山田肇(やまだはじめ)先生は「演劇っていうのは理屈なんだよ」と言っていて、役者志望の連中は実務をあまりやらないから不満だった」。
桑原が卒業論文の指導を受けたのは、その山田肇先生だった。「先生は新しく始まった演劇学という領域での第一人者だった」と佐藤正紀・元明治大学教授はいう。
「早稲田が歌舞伎中心に始めたが、そのあと演劇とはなにかということを中心に、歴史とかを考える人たちが山田肇先生と一緒に始めたのが演劇学なのです」。
桑原は「山田肇先生にずいぶんとかわいがられて、大学に残って研究をしないかとまで言われた」と妻の泰子(当時)は話していた。
桑原の卒業論文は「優」だったが、論文自体は見つからなかった。山田肇先生に卒論の指導を受けるのは毎年4、5人だったそうで、その中の一人だった。
山田肇先生の助手を務めた山田恒人元教授によると「卒論は本来永久保存だと思うけど、大学紛争があって学生たちがぜんぶぶっ壊してしまったのです。今のように電子化されてなかったので保存できないですよ。博士論文は残っているが、学部の論文はありません」。
桑原と鶴田さんは明治大学文学部文学科演劇学専攻の13期で同期生、山田恒人元教授は11期生、佐藤正紀元教授は17期生だ。
桑原が大学を卒業したのは1963(昭和38)年春のこと。
その年の7月に、アルバイト先で知り合った、浜松出身で女子美術大学を卒業して働いていた牧田泰子と結婚した。桑原は23歳だった。そして12月には長男・亘之介が生まれた。
1963(昭和38)年といえば日本が一番元気な時期だったのかもしれない。翌年には東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開通した。
ちょうどその頃にリリースされた歌に梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」があった。そのシングル盤が稲敏・泰子夫婦のもとにあったという。
日本観光新聞へ
桑原稲敏が明治大学を卒業して、夕刊紙「日本観光新聞」で働き始めた。東京都港区西新橋三丁目20番1に社屋があった。
その年は、吉展ちゃん誘拐殺人事件が発生し、福岡では三井三池炭鉱の爆発事故が起こった。海外に目を転じるとケネディ米大統領が暗殺された。
当時、桑原が付き合っていた、妻となる牧田泰子が身ごもっていたことから就職を急いだこともあろう。
しかし、後述するように大学では優秀な学生で通っており、世間的には評価が高いとはいえなかった夕刊紙ではなく、大手企業に勤める選択肢もあったはずだ。
しかし、桑原は日本観光新聞を選んだ。
桑原は高校時代から戯曲のようなものを書いていたという同級生の証言もある。やはり書くことにこだわっていたのか。
大学の同期生の鶴田さんは桑原と直接の交友はなかったと断りながらも次のような話をしてくれたー「桑原君は学生時代から文筆活動をしていた。そんなことで、他の演劇専攻の人たちと合わなかったのではないか」。
「桑原君は独立したライターの弟子になって下書きとかの下仕事をしていた。だから、昔の週刊誌とかの主だったライターの助手とか編集者とのつきあいが多かったのではないか」。
長年親しくつきあった箱山善徳さんは大卒で日本観光新聞に入社すると桑原が先輩の一人としてすでにいたという。「小さな会社だったが、それなりに世間で認知されており、政治からお色気ものまで幅広く扱っていた」。
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日本観光新聞は月、水、金の週3回発行されていた。駅売りされていたらしい。当時の紙面を見ると実にバラエティに富んでおり、はっきりと言えるのは桑原稲敏のその後を決定づけたのは間違いなくこの観光新聞での仕事であったということだ。
「いろいろなことをやらされて、いろいろな情報を仕入れて整理して、情報新聞の成り立ちを桑さんは勉強したと思います。桑さんの下地になりました」と奥永さんはいう。
桑原と3年ほど同僚だった榎本俊さんによると、その新聞の編集局には社会部と文化部ぐらいしかなく、紙面ではスポーツ、芸能、お色気などがあることから部署間の敷居は相当に低かったと思われる。
ちなみに榎本さんは最初、野球を担当して、後楽園球場でON(王貞治と長嶋茂雄)とキャッチボールをしたことがあったと話す。
王選手の両親が経営する中華料理店「五十番」にも足を運ぶことがあり、また、金田正一投手の自宅に行ったこともあった。金やんの奥さんの歌手・榎本美佐江さんは留守で「がっかりした」そうだ。
また、蔵王の方に出張して観光記事を書いた。あと新宿や五反田の飲み屋に取材に行くなどいろいろやっていたという。
日本観光新聞の出世頭
榎本さんはいう「桑原さんは観光新聞の出世頭でした」。
そののちサブカル系であれば何にでも興味を抱いて書いていく姿勢は日本観光新聞の時代に培われたのだろう。
紙面を見て行こう。観光新聞と銘打たれているだけあって観光レジャー情報が一面に来ることも多い。
しかし、売り物記事はお色気ものと芸能情報だったようだ。主に2面を「舞台」にピンク記事が手を変え品を変え出てくるのだ。
例えば昭和38(1963)年5月1日の2面には「夜のムードは変形ショーツで ケン怠期もふっとぶ 夫婦和合の妙薬」という記事、5月6日には「プレイガールのないしょ話 釣り落とすスリル すぐ図にのる男性」といった具合である。
もちろんトルコ風呂などの広告も含めた風俗情報も多い。
芸能記事では石原裕次郎や月丘夢路、佐分利信を取り上げたり、水谷八重子の離婚問題を報じたり、「五月みどりの恋にストップ」と題した記事では彼女の恋愛に会社などが強く反対していると報じている。
スポーツ欄はプロ野球と大相撲がメインだったようだ。野球では、ONやアンダースローの名投手だった杉浦忠の中日ドラゴンズでの指導者ぶりなどの記事もあった。
ちなみにこの年の秋には巨人と西鉄ライオンズが日本シリーズで激突、ジャイアンツが日本一となった。MVP(最高殊勲選手)は長嶋、敢闘賞は西鉄の「鉄腕」稲尾和久だった。
大相撲では、横綱大鵬と最大のライバル横綱柏戸が並び立っていた時代だった。
早速、風俗に強かった日本観光新聞での仕事の成果だろうか、「小説Club」1969(昭和44)年7月号に「日本のブルーフィルム」という記事を執筆。製作現場、ギャラ、配給・販売など、いわば「ルポ・オール・アバウト・ブルーフィルム」をものにしている。
ブルーフィルムとはポルノを主とした8ミリによる露骨な性的画像作品のことを指し、基本的に非合法だった。
昔は社員旅行などグループで温泉宿などに行くと、部屋でこっそりとブルーフィルムの上映会が催されたりしたものだった。
青山から西新橋へ
榎本さんは今からおよそ60年前のことを振り返って話したー「忘れられないことがあります。取材の帰りに隅田川のほとりの交番に「タバコをいただけませんか」と桑原さんと私は入りました」
「お巡りさんが「ここで吸ってけ」といったのです。交番の中で吸ったタバコの味は格別だった。今でも忘れることが出来ない演歌の世界でした」。
榎本さんが日本観光新聞に入った1964(昭和39)年、会社は港区青山南町6丁目にあった。今でいう南青山6丁目の一部になっている場所で、現在は高級マンションやオフィスビルが立ち並び、ファッションブランドの店やオシャレなカフェが目立つエリアだ。
が、すぐにそこを後にすることとなる。それは同年秋に予定されていた東京オリンピックのため進められた道路拡張工事の影響で立ち退きを余儀なくされたからのようだ。
実際、青山南町では多くの家屋や土地が再開発の対象になっていた。
それまでの慢性的に混みあう「自動車ラッシュ」を問題視した政府は大規模な道路拡張工事に乗り出していた。
今の青山通りから玉川通りまでのいわゆる「放射4号線」も、その対象だった。その通りは今でいう国道246号線だ。
立ち退きを求めるため買収対象となった家は1400に上ったという。
日本観光新聞の引っ越し先は東京都港区西新橋3丁目20の1だった。そこには印刷所があり、その1階に新聞の編集などが入っていたという。当時は木造家屋が立ち並び、今のような高層ビルなどなかった。小規模な商店や市場が人々の生活を支えていた。
移動の足としては路面電車が重宝されていた。いわゆる三田線が走っていた。毎朝、榎本さんは新橋駅を浜松町寄りで降りて徒歩で約15分かけて通っていたという。会社は日比谷通り沿いにあり、すぐ近くには慈恵大学病院が当時からあった。
現在、日本観光新聞があった場所には三井倉庫ホールディングの本社ビルが建っており、往時の面影はない。
桑原は日本観光新聞時代からアルバイト原稿をせっせと書いていたそうだ。泰子はいう「その当時、よく会社の受付によそのアルバイト原稿を預けていて、大丈夫かなと思っていました」。
(続く)