思い出したのは、祖母のこと。
先日、ちょっともったいぶって終わらせたnote
『ふと懐かしい人を思い出した。』
その懐かしい人とは、
8年前に亡くなった母方の祖母のこと。
使えるものは使う
学校の先生だった祖母。
チャキチャキ働く人だった。
必要なものを大事に使い、
使わなくなっても大事にとっておき、
どうしても使えなくなったら、リメイクする。
祖母は、とても始末のいい人だった。
小学生に上がる頃には、勉強机を
家庭科の授業がはじまる頃には裁縫箱を
譲り受けた。
皆、かわいいキャラクターの机セットや裁縫箱だったのに、自分のものはシンプル、可愛さの欠片も感じられず、友達がとても羨ましかったのを覚えている。
私が中学生くらいになってからだろうか。
車で30分ほどのところにあった祖母の家に遊びに行くと、
「これ、着てみー。」
「これ、どない?」
と、祖母が過去に着ていた服やかばんを
出してきて、ファッションショーがはじまるのが常となった。
当時、家の布団のシーツや座布団カバーなんかも、祖母がリメイクしてくれたり、直したりしてくれていたようで、いつも帰るときには何かしら抱えて車に乗り込んでいた。
「贅沢ばっかりしたらあかんで」
そう、よく言われた。
今振り返ると、大事なお金を
本当に必要なものに使えるように
祖母が色々してくれていたんだと思う。
...と、先日、服のボタンを付け直しながら、
そんなことを思い出したのだった。
文通しよう
私が大学進学、ひとり暮らしを始めた後、
心療内科に通うようになった。
そうなってから帰省した時に、
母と、母から話を聞いた祖母と、私が
3人で車の中で泣いたこと、
祖母が「文通しよう」と
20円切手をたくさんくれたことは
(20円切手が祖母らしい)よく覚えている。
ぽつり、ぽつりの文通。
祖母は、ニュースや最近の出来事を綴り、
私の身を案じて手紙をくれた。
それに対し、私は手紙を返し、
また忘れた頃に祖母が手紙をくれた。
今もその手紙は大切に保管してある。
私の心のお守りである。
これくらいしかできへん
大学卒業して、就職して、
私の病状は落ち着いてきていた。
その頃、
祖父が肺を患い、酸素吸入をはじめた。
遊びに行った時に、少し気弱になる祖父を祖母がいつも元気に励ましている姿が印象的だった。
そんな祖父を見送り、祖母一人、
少しゆっくりするかなぁ、と言っていたら、
祖母の病が見つかった。
胆道がんだった。
わかった時には進行していて、
島外の病院に入院することになり、
私も1度お見舞いに行かせてもらった
元々華奢だった祖母が、一層細くなっていた。
抗がん剤で吐き気と闘い、辛いはずなのに、
いつもの笑顔で「よう来たね」と迎えてくれた。
母が花瓶の水をかえに病室を出たとき、
「これくらいしかできへん。」といって
小さく畳んだ5000円札を私の手に握らせた。
なんだか最後みたいで、悲しくなって、
でも、泣かないように我慢して
ただ、首を振ることしかできなかった。
「ありがとう」祖母はそう言った
私はあの時、
ちゃんと「ありがとう」って言ったかな。
握らせてくれた5000円札は、
祖母の過去の言いつけ通り(無駄遣いせず)
そのまま取ってある。
私の、もう1つのお守り。
待っていてくれた
小康状態になり祖母は退院して、
通院治療になった。
そんな時に、私の結婚が決まった。
まだ春は遠く、肌寒い日だった。
主人と、私の両親、妹と一緒に、祖母を訪ねた。
祖母は叔父一家と同居していて、家族団欒、皆でワイワイいいながら、笑顔溢れる時間を過ごした。素直に、楽しかった。
物持ちのいい祖母から、結婚のお祝いと称して、ティーカップセットや茶器、カトラリーなどを譲り受け、子供の頃と同じように、抱えて車に乗り込んだ。
「また」「元気で」
そして、私と主人は春に入籍し、
いろいろ検討した結果、
秋に自分たちと両親、妹だけで、海外にて式を挙げることになった。
お盆は主人の実家に伺い
島には帰らなかった。
そして、9月
無事、式を挙げ、式の写真を届けた後、
祖母は旅立った。
後から聞いた話だと、
祖母の病状はあまり芳しくなかったそうだ。
それを聞いた時に私は、
おばあちゃん、
見届けるまで、待っててくれたんだ。
そう、思った。
たくさんの愛をありがとう。
島にはまだ帰れないけど、
落ち着いたら、
帰るね。
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