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落語日記 圓朝作の長編「真景累ヶ淵」の通し公演を見事に完結させた遊馬師匠

三遊亭遊馬独演会 真景累ヶ淵 通し公演 後編
8月15日 国立演芸場
三遊亭圓朝作の名作「真景累ヶ淵」を、前編中編後編と3回に別けて、毎月連続しての全編通し公演に挑戦された三遊亭遊馬師匠。前回の中編に続き、その最後の回となる後編に参加してきた。今回で物語は完結、どんな大団円を迎えるのか、楽しみに出掛ける。

この真景累ヶ淵は、圓朝物の中でも屈指の長編。通し公演として最後の場面まで聴ける機会は滅多にない。私も今回が初体験なのだ。
過去の名人上手の師匠方も挑戦されたようだが、かの三遊亭圓生師も通しといっても「聖天山」までで終え、その後に続く場面は口演されていないようだ。まさに、遊馬師匠が前回の中編で口演されたところまでだ。圓生師が掛けなかった後半部分、この未開の荒野に踏み込まれたのは、ネットで調べると桂歌丸師、古今亭志ん輔師匠、蜃気楼龍玉師匠など、限られた落語家しか見つからなかった。挑戦者が少なく、まさに偉業と呼べる挑戦なのだ。

圓朝の口伝本には元々、章立てや段の名称は付されていない。なので、この日記の後編の演目名は、ネットで拾ったものを使わせてもらっている。
圓朝物の特徴として、登場人物が多く、その人間関係が複雑に絡み合っていることがあげられる。なので、粗筋だけ読んでもなかなか理解しづらいと思う。自分でも整理しないと、分からなくなる。そのために、今回の日記は自分の備忘録として、記録に残しておくことを主眼において書いた。そこで、筋書きを記しているためネタバレになっていること、また長文となってしまったことはお許しいただきたい。

「麹屋のお隅(すみ)」「惣次郎殺し」
まずは、発端から中編までという前回までの粗筋、要約版を駆け足で語る。単なる粗筋の説明だけではなく、重要な場面は会話も入って、落語として再構成したダイジェスト版になっている。今回が初参加ですとの連絡を何人かの観客から受けていたので、この粗筋は、予定より時間をとりましたとのこと。初めて聴く方にも分かりやすい、丁寧な粗筋だった。
さて続いて、後編に突入。すると、前回の終了場面から打って変わって、新吉たちに殺害された名主惣右衛門の一家をめぐる物語が新たに始まる。それは、殺された父親惣右衛門の跡を継いで名主となった長男惣次郎と、その妻となったお隅を襲う悲劇の物語なのだ。
水海道の料理屋麹屋で働くお隅を見初めた惣次郎。客として来ていた剣術家の安田一角もお隅を気に入っていたが相手にされず、お隅の美貌ゆえによる男の嫉妬で、惣次郎に因縁を付ける。それが原因で、策略によって殺される惣次郎。その家族たちが復讐を果たす仇討ちの物語が後編のメインストーリーとなる。
悪役を務めるのは、剣術の指南役と旗本の不良息子。正義の味方は、怪力無双の相撲取り。美貌の女房に横恋慕する悪役たち。この辺りの役回りや筋書きは、時代劇の映画やドラマでよく見られるパターン。その時代劇の元祖のような物語、当時からこのような筋書きが好まれていたことが分かる。
ここでも、遊馬師匠は、悪党たちであることが分かりやすい表情を描写してみせる。全編を通じて、登場人物の性格や役回りを分かりやすく、特徴を際立たせて表現されている。新吉など、善人から悪党に転落していくキャラは、この変化を明確に表現しないと、筋書き自体が混乱してしまうのだ。

この仲入り前の前半を聴き終わった段階では、中編までの主役である新吉とお賤のカップルが登場しないのだ。あれぇ、どこに行ったのか、この二人。あの後、二人はどうなってしまったのだろうか。
悪事を重ねた新吉が最終的にどのような結末を迎えるのか、後編に対する最大の興味はここにあったので、新吉が登場しない物語が始まり、少しばかりの驚きと違和感を覚えた。惣次郎一家の物語は、新吉お賤ルートから外れているので、本線に突如として現れた物語という唐突な感じがあるのだ。
前半が終わった段階でそう感じていると、仲入り後の後半には、新吉お賤が登場し、最後は今までの伏線がきっちりと回収される。原作でも、惣次郎一家と新吉お賤が交錯して、大団円へと突入していく。

この真景累ヶ淵の口述速記本は、文庫本にもなっている。これで見ると、遊馬師匠が前回の「中編」までに語り終えたところは、文庫本の頁で見るとちょうど半分くらいのところ。全体の半分くらいが、まだ「後編」として残されている。そんなボリューム感。
なので、遊馬師匠は、この中からかなりの部分を取捨選択して削って磨いて「後編」として再構成されたはずなのだ。膨大な原作に当たり、要約や選択をする作業、これら遊馬版の台本作りという見えない作業が、いかに困難だったかは想像に難くない。物語が分かりやすくなっているのは、上手くまとめた遊馬師匠の技量なのだ。話芸と構成力、落語という芸能の両輪であることを痛感した公演でもあった。

仲入り

「お隅の仇討」「お熊の懺悔」「明神山の仇討」
後半は、知恵と度胸のあるお隅の活躍で、悪党一人の仇討を果たす段「お隅の仇討」から始まる。
その後、お隅はもう一人の悪党にやられてしまう。そこで、残された惣次郎の母親と弟の惣吉が惣次郎とお隅の仇討ちを果たし、最後の悪党一人を倒す物語が「明神山の仇討」。これら惣次郎夫婦の仇討が後半の物語の一つの柱。
もう一つの柱が、前回までの主役である新吉お賤の一族をめぐる因果応報、因縁の物語を決着させる物語の「お熊の懺悔」。この二つの柱が、とある場面で交錯する。
この後半の柱の一つは、理不尽に殺された家族の仇討ちをテーマとする物語。前回の「中編」までには、仇討ちの要素は少ない。「前編」「中編」は、怨念による因果応報と不幸の連鎖がテーマ。「後編」は「前編」「中編」との違いや物語に唐突感がある。今回の遊馬師匠の高座を拝見して、「後編」まで通しで口演されることが少ないのは、この辺りが理由ではないかと感じた次第。

圓朝の怪談物の口演に、心血を注いでいた桂歌丸師。真景累ヶ淵全七席の歌丸師の口演を元にして、三代目落語三遊派宗家・藤浦敦氏によって書かれた口述本「口伝圓朝怪談噺」が出版されている。歌丸師による真景累ヶ淵の通し公演の内容が、分かる資料となっている。
遊馬師匠の後編を聴いた後に、歌丸師はこの後編部分をどのように構成していたのかが気になって、この書籍に当たってみた。すると、お賤の母親であるお熊が懺悔し、新吉がお賤を殺害し自害する場面で終演となっている。今回、遊馬師匠が描いた名主惣次郎一家をめぐる仇討ちの物語が一切描かれていないのだ。
歌丸師は、後編部分の名主惣次郎一家の仇討ちを柱とする物語「お隅の仇討」「明神山の仇討」の全部を大胆にカットし、新吉お賤の物語を決着させるところ「お熊の懺悔」のみを描いて終演としている。やはり、新吉を柱とする因果応報と懺悔による大団円で決着を付けることを主眼にして、その他の仇討ちの物語をカットすることで、物語を分かりやすくしたのだろう。歌丸師も口伝本の中で「主役のお賤と新吉に方(かた)をつけたい、これがためにお熊の懺悔を入れてみました」と語られている。
今回の通し公演で遊馬師匠は、歌丸師と異なり、名主惣次郎とお隅夫婦を巡る悲劇や、その後に惣吉や相撲取りの花車が活躍する明神山の仇討ちまで描いてみせた。晩年、圓朝物の怪談に情熱を傾けていた歌丸師ですら、終盤をかなり省略したことを考えると、そんな後編にあえて取り組んだ遊馬師匠のチャレンジ精神は素晴らしいと思う。遊馬師匠は、今回の通し公演で、真景累ヶ淵という高峰に新たな登頂への道筋を付けたのだ。

歌丸師が後編の柱とした、新吉お賤の一族をめぐる因縁の物語に決着を付けるストーリー。遊馬師匠は、お賤の母親で尼僧となったお熊の懺悔から急展開をみせる。
このお熊の懺悔の場面で三味線が入る。そのお熊の語りは、しみじみと過去を振り返り、新吉やお賤との人間関係を浮かび上がらせる。
ここから、新吉がお賤を鎌で殺害したのち自害する場面が続く。ここで、客電と舞台の照明が落とされ真っ暗の中、遊馬師匠だけに照明が当たり浮かび上がるという照明の演出が行われる。客席の視線が高座に集中するという、見事な効果。
この場面では、お久を殺しお累が自害したときに使われたという因縁の草刈り鎌が登場。この草刈り鎌を凶器にして、新吉はお賤を殺して自害する。陰惨な場面ではあるが、今までの悲惨な運命を自分の代で断ち切ろうという新吉の覚悟が伝わる。因縁の草刈り鎌から因果因縁を感じ、今までの悪行を懺悔するのだ。その新吉の心情を伝えるのにも効果的な照明の演出だ。
この場面は「前編」「中編」で描かれた物語が決着する場面。新吉お賤の悪行コンビの結末。ここで、深見新左衛門が皆川宗悦を切り殺したことから始まる長い物語に決着が付くのだ。
柱の一つである仇討ちの物語に挟まれるかたちで、もう一つの柱の新吉お賤の決着場面が登場する。この照明の演出は、決着場面を強調する効果もあり、前回までの課題がここで回収されたのだという観客の納得感も生まれる。そんな、後編の中でも際立つ名場面となった。

名主惣次郎とお隅夫婦を巡る仇討ちの場面「明神山の仇討」は、この後に描かれる。
仇討ちの物語では、殺された惣次郎の弟の惣吉が僧侶に助けられ出家するが、兄の敵の存在を知り、還俗して敵を討つ決意を和尚に告げる場面がある。
この決意を聞いた和尚は、惣吉に対し仇討ちの連鎖を断ち切る必要があると告げ、仇討ちを止めるように説得する。この「仇討ちの連鎖」という言葉で象徴されるような物語が続いてきたのが、この真景累ヶ淵だ。憎しみや悲しみの連鎖を断ち切らなければ、新たな憎しみや悲しみが生まれる。これが、圓朝がこの噺で伝えたかった根底に流れるテーマではなかったのか。
そして、この和尚の言葉を実行したのが、まさに新吉やお熊。先ほどの決着の場面を終えたあとで和尚の言葉を聞くことになるので、より深く心に刺さる言葉となっている。
この言葉を受けてなお惣吉は、決意を変えず仇討ちを果たす。ここで物語は大団円を迎える。

下げのあとに、顔を上げてご挨拶。圓朝の牡丹灯籠、鏡ヶ池操松影、真景累ヶ淵、乳房榎という四大怪談を国立演芸場で掛けることが夢だった。三つまでは実現できたが、国立演芸場の建替えで、叶えることが出来なくなった。そこで、残りの乳房榎は、来年に別会場で挑戦されるとのこと。また、9月には仙台の花座でこの真景累ヶ淵を2日間で前編と後編とに別けての通し公演に挑戦。これもなかなかにハードルの高い挑戦だ。
気が付けば、着物の袖口が綻びるほどの大熱演。また、相変わらずマイクなしの生声での長講。その迫力ある熱演は本当に素晴らしいもの。途中でかんだりつっかえたりした箇所も、丁寧に言い直して語られている。遊馬師匠の誠実さとともに、台本をキッチリと精緻に作り込んでいることが分かる。
通し公演の完走を祝って、会場全体で三本締め。観客の皆さんの感動と慰労の気持ちが込められていて、会場に響き渡っていた。


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