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『月の子』


 今日は朝からテレビのニュースやワイドショーが騒がしい。大学に行く仕度をしながらチャンネルを選ぶも、どこも同じ話題を取り上げている。画面に映し出されているのは、アメリカのどこかの都市から見上げた月のライブ映像。月の表面、右下あたりに大きな黒ずみがあり、これが四本指ではあるが人の右手の形に見える。この黒ずみが一夜にして現れたというのだ。
 司会の男性がコメンテーターに問いかける。
「ではもし月の地盤変動が原因ではないとすれば、宇宙人説ということも出て来ますが・・・」
「そんなことあるわけないでしょう。これがそういう未知なる生物の手型だとしたら・・・月の直径は約三千四百キロですからね、手のひらと指を合わせて約千キロ、とすると片腕だけでも日本列島を覆うくらいになりますよ。そんな大きな生物が月に手型をつけて飛び去るなんて・・・誰も姿を見てないわけですし」
 もう一人の女性コメンテーターも同意見のようだ。
「それにそんな大きな、仮に宇宙人が手型がつくほど月に張り手をしますと、どれほどの衝撃が起こるか。現に今は、以前と変わらず自転も公転も行なわれているわけですから、それほどの衝撃を月が受けたとは考えにくいですよね」
 コメンテーターなんて自分の言いたい事を尤もそうに言っておしまいだ。そのくせ最後には断言せず言葉を濁す。この手の問題は専門家の知識がなければ、空想でモノを言って終りではないか? だからさっきから同じような問答を繰り返すだけ。話に進展が無い。各テレビ局は今頃、専門家への出演オファーでてんてこ舞いだろう。
 僕はテレビを消してアパートを出た。

 宇宙人が月に触れようが、月に地殻変動が訪れようが、日常はやってくる。一時限目は社会学。早く行かないと、出欠確認に間に合わなくなる。

 大学でも、月の話で持ち切りだった。駅かどこかで号外を配っていたらしく、大きな写真付きの新聞を持つ者も少なくなかった。あ。出所はうちの新聞部かもしれない。
 ふたつの講義を受け終えて昼。水曜日の講義は午前中だけ。だから他の曜日は夕方から出ているバイトも、水曜日だけは午後早々に出向く。その前に、学食で腹ごしらえだ。セルフサービスのスパゲティーとサラダが乗ったトレイを持って、空き席を伺う。ほぼ満席のテーブル。僕は一人、隅っこの席にトレイを置いた。すると向かいの席の学生たちが食事を済ませて立ち上がり、すぐさま女子二人組がやってきた。
「あ、松太くん、こんにちは」
 女の子の一人は、同じ同好会に在籍してる、椎奈ちゃんだ。
「あ。やあ」
 内心、ラッキーと叫びながら、僕は彼女の唇を見つめて答えた。椎奈ちゃんは、学祭で少しだけ一緒に模擬店をまわったりしたのをキッカケに仲良くなった。僕みたいな男に話しかけてくれる奇特な人だ。いつしか好きという感情も僕の中に生まれた。だけど学祭が終わってからというと、特に何もなく、こうやってたまに顔を合わせて簡単な言葉を交わすだけ。
 彼女は席に座ると女子トークに花を咲かせ、僕はそういう彼女の姿をチラリと見ながら、あくまで自然にチラ見しながらスパゲティーを頬張った。だって目の前に居るのにまるっきり無視というのもおかしい。彼女のほうも一回だけ、僕に話題をふってくれた。やっぱり月の手型についてだ。椎奈ちゃんはただの興味というより「何か起こりそうで怖い」みたいなことを感じているようだ。

 午後九時過ぎ、バイトを終えて帰宅。アパートの前にスクーターを停める。夜空を覆う雲が厚い。今にも雨が降ってきそうだけど、降らなくて助かった。雨の中、スクーターだとレインコートを着なきゃならず、とても面倒だ。
「ただいま」
 誰もいない部屋に、いつもこう言ってる。
 ヘルメットを端に転がしてテレビのスイッチを入れた。そこに映っている月の映像、この時ばかりは僕も釘付けになった。朝見た手型の親指あたりから月の左上めがけて、地形の起伏に沿いながらもほぼまっすぐに、亀裂のようなものが走っている。しかもその亀裂はだんだんと長く、幅も太くなりつつあるという。今度は天文の専門家が解説してはいるものの、前代未聞のことでやはり不透明な部分は多い。
 僕は窓から顔を出して月を見ようとしたが、空は黒い雲で覆われている。ニュースの映像は、現在雲の少ない北海道の天文台からの中継だそうだ。
 亀裂が大きくなっているということは、いずれ割れるのか? まっぷたつにはならずとも、少なからず破片が飛び散るような事態は起こり得るのではないか。大きな破片が地球の重力に引き寄せられる・・・なんてことは、無いよな。
 僕は急に不安になった。ニュースの解説も、その可能性を示唆した。もしそれが現実になったとすると・・・今のうちに避難とかすべきか。でもどこに落ちるかはわからないんだよな。ただもしそうなったら、この地球上に逃げ場なんて無いだろう。
 そういえばさっき実家から着信入ってた。親に一言、元気な声くらい聞かせておくか。

 実家の親は、とても心配していた。まるで息子がいるこの関東だけが危機に陥っているかのように。電話で会話をしながら、ニュースの画面を見つめる。画面でも、最悪の事態を想定したシミュレーション映像が流れている。こういうものを電波に乗せるから不安が蔓延するのだ。
 親には「心配するな」となだめたものの、電話を切ったあと考えた。もしかすると、もしかする、今日が人生最後の夜だとしたら?
 よく「家族と共に過ごす」って言うよな。これから実家に向かうか? いや山口だぞ、何時間かかると思ってるんだ。それよりも僕が今、達成せずに悔やみそうなこと・・・たくさんありすぎるけど、中でも未練を残しそうな事は・・・。考えながら、それは考えるふりであることを僕は知っている。今この胸の真ん中には、バイトの事でも大学のことでもなく、椎奈ちゃんの存在しかない。やっぱりそれだ。
 地球最後の夜、僕は椎奈ちゃんに想いを打ち明ける。彼女が「私もずっと好きだった」と言って顔を寄せる。いつも僕の目の前で楽しげに笑う彼女の唇に僕は・・・。
 おい待て。待て松太。お前、鏡でも見て目を覚ませ。お前みたいな奴が、椎奈ちゃんとそんなことあるわけないだろ。安っぽい空想するなんて。・・・壁を背に座り、ため息をつく。

 その時、スマホにメッセージが入った。
──月、こわいね
 椎奈ちゃんからだ。前のメッセージのときの日付は? 学祭の時のだ。・・・突然のメッセージ、なんて返せばいい?
──うん、そうだね
 送信直後、ボキャブラリーの無さに打ちひしがれる。
──今晩、会えないかな どこかで
──うん、どこでも行けるよ、今どこ?
 とても不安がっていたランチの時の彼女を思い出した。
──私んちがいい テレビで月見ていたいから。場所わかる? ○○コーポ。コミックレンタルとスポーツ用品店の裏手の
──そこならわかるよ、すぐに行く
 僕は帰宅した時の行動を逆再生するように、手早くテレビのスイッチを消しヘルメットを手に取り部屋の明かりを消した。
 スクーターにキーを挿し込み、空を仰ぎ見る。一面の雲のせいで月は見えない。本当にあんなに大きなヒビの入った月が浮かんでいるんだろうか。

 ○○コーポは、バイト先のすぐ近くだ。椎奈ちゃんちがここだったなんて。
 スクーターを停めて、着いたよとメッセージしようとした。スマホを取り出したとき二階から声がした。
「松太くん」

 彼女の部屋は、シンプルなワンルーム。うちより築年数は新しそう。座ってと言われてそうしたけど、落ち着かない。ただ、この局のアナウンサーはよく喋る。刻々と変わる月の表情を、事細かに実況するような音声に救われて、なんとかこの部屋の空気に慣れていけそうだ。彼女は、お茶か何かを出そうとキッチンに立っている。
「すぐわかった?」
「うん、バイトに行く時この辺通るから」
 彼女が小さなテーブルに紅茶セットを置いて、僕の斜め隣に座った。変にニヤニヤしている。聞くと、仕事中の僕を何度か見かけたことがあるらしい。
「かっこよかったよ。真剣な顔して」
「そりゃ、真面目にやってるさ」
「私、チャラチャラしたのは苦手なの」
 その言葉が何を意味しているのかわからないうち、彼女は目線をテレビに移した。
「これ、割れたら破片が地球に落ちてくるよね」
 破片が小さければ大気圏を落ちる時に空気との摩擦で燃え尽きるだろう、とさっきのテレビでは言ってた。もし破片が大きければ、地球に到達する前にミサイルか何かで粉砕させる技術を有しているとも。どれも机上の空論に過ぎないが。
「可能性はある、かな」
「怖い」
 僕らはそのまま無言でテレビを見続けた。表面の亀裂は、今や一番太いものを起点に、細かいものが数え切れないぼど発生している。
 あの厚い雲の向こう側で起きている事実。
 でもいくら高性能の望遠鏡でこの現象を解析したところで、人間にはなす術など無いのだ。黙って状況を見守ることしかできない。二人静かにテレビを観てるけど、駅前の大通りとかではパニック映画みたく逃げ惑う人々で交通渋滞とか起きてるんだろうか。
「家族の人とか、心配してない?」
 ふと、口から出た。
「私ね、あまりいい関係じゃないの。父と母と。だから・・・」
 強い口調ではないが、とても複雑な、取り出してはならない思い出のようなものを持っているような気がした。
「でもね、親も私もそれぞれの考え方で別々に生活してる、それだけのことなの」
 彼女の表情から読み取れるものは何もないけれど、このことについてはもう口にするまい、と思った。

 もしも今、月の破片が落ちてきて、地球に壊滅的な被害を与えるとしたら。目の前にいるこの人を守ることはできない。だけど、大津波がやって来ようと、灼熱のマグマが降って来ようと、僕は咄嗟にこの人をかばって抱きしめながら死んで行くのだろう、たぶん。そんな最期なら僕にとっては幸せでしかない。でも彼女はどうだ? 身近な家族がいないとはいえ、僕と一緒に死んで行くなんて、不幸中の〝不幸〟なのかな。
 考えていると、というか僕はボーっとしていたに違いない、彼女のあらたまった声で正気に戻った。

「松太くん、私・・・」

 え? 来た。なんだこれ、この空気。彼女が姿勢を正した。これって、これって告白タイムじゃない? いやまさか。ああ、僕こういう雰囲気を読み取るの苦手なんだよ。本当に告白? 椎奈ちゃんもやっぱり地球が最期を迎える前に自分の気持ちを伝えたかったんだ。・・・それで、それが僕なの? 何かの間違い? いや目の前にいるのは僕。僕でいいの? だったら自分から言わなくていいのか、松太。
「待って椎奈ちゃん。僕、あの・・・実は、伝えたいことがあって」
 生つばを飲み込んで言葉が途絶えた。椎奈ちゃんの視線が僕にロックオンしたまま離れない。
「えーと」
 背筋を正してシャキッとしろ、そう自分に言い聞かせた時だった。テレビからうわずったアナウンサーの声が響いた。
「あぁ!」
 それでも二人はお互い見つめ合ったまま固まっている。
「・・・」
 さっきまであんなにまくし立てていたアナウンサーが、それっきり沈黙したことが気になって、椎奈ちゃんも僕も同時にテレビに顔を向けた。
 そして、絶句。
 言葉が出て来ない。さっきまで手型に見えた黒ずみの内側から、何かが飛び出している。ちょうどその反対側、左上の辺りには別の突起物がある。手型に見えた辺りから飛び出ているのは、鳥の足のように見える。あの足が内側から押し出ようとしたことで黒ずみになっていたのか。
「み、みなさん!」
 ようやくアナウンサーが次の言葉を発しようとした時、それは起こった。全ての亀裂が繋がって細かな網目となり、月の表面全体が一瞬にして粉々になったのだ。そして中から巨大なひな鳥の姿が現れた。もう一度言う。ひな鳥が現れた。それはまさしく卵からひな鳥がかえる光景、ひとつの生命の誕生だ。月は、巨大な鳥の卵だったのだ。
 僕は唖然とそれを見つめた。恐らく、世界中の人がそうしたに違いない。
 気持ちの整理ができたのか、アナウンサーの実況音声は落ち着きを取り戻していた。
「テレビをご覧のみなさん。これはCGや特撮ではありません。実際の空の映像です。晴れている地域の方は、ぜひ肉眼でも確認できるはずです。この映像は、北海道からの中継です」
 美しい。生命の強さと美しさを見た気がした。それに、宇宙について我々はまだ知らないことだらけなのだ。そういうことを痛感した。
 椎奈ちゃんは言葉無く画面に見入っている。
 テレビでは月の誕生(つまり四十五億年くらい前?)から生命が宿されていたのか、それとも比較的最近になって月の内部に植えつけられたのかという議論が交わされ始めた。どの意見ももはや空想でしかない、電波に乗せる価値の無い井戸端会議だ。
 上空の映像を見ると、たまごの殻の部分がほぼほぼ割れてしまい、ひな鳥はその全容をあらわにした。殻が取り除かれた喜びを、全身を小刻みに震わせて表現しているように見える。そして大きく口を開けて鳴いた。実際には鳴き声なんて聞こえないし、宇宙空間だから音は伝わらないはずだ。でもその様子は確かに〝鳴いた〟ものだった。
「母鳥を呼んでいるのでしょうか」
 アナウンサーのこの台詞を皮切りに、今度は母鳥が地球に及ぼす脅威についての議論になった。椎奈ちゃんがリモコンを手に取り、テレビのボリュームをゼロにした。
「母鳥は来ないわ。たぶん」椎奈ちゃんは真剣な眼差しだ。「四十五億年前、きっと事情があって地球に卵を産み落としたのよ。母鳥はどこかへ飛んで行ったか、死んでしまった。でもお腹を痛めて産んだ子供だもの、子供の無事をこの地球に託したのよ。子供がふ化する頃には、この星には文明が栄えてあの子を助ける手立てがあることを悟っていたのよ。私たちは、あの子を守らなきゃ」
「よ、四十五億年も前に?」
「そうよ、私たちにとっては四十五億年でも、宇宙の鳥たちにとってはすごく短いのかも。もしかすると、あの子が無事に巣立つのを、母鳥がどこかの空間から見守っているかもしれない。・・・守らなきゃ」
 あまりに突拍子の無い言葉に最初は呆気に取られたが、椎奈ちゃんは真剣で少し目を潤ませている。熱い想いが伝わって来た分、テレビの中の議論よりずっと腑に落ちた。
「いままで人類はお月様にお世話になったしね。いろんな夢を見せてもらった。お返しをしなきゃ」
 そう僕が言うと、椎奈ちゃんが笑顔になった。
「さっすが、いいこと言う~! 私、松太くんのこと好きよ」
 あ。さっき言いかけてまだ言えてなかった。
「僕も椎奈ちゃんのこと、好きだ」
「じゃ、両思い?」
「本当に僕? 僕なんて不器用だし・・・」
「そういうところも、いいの」

〝これは夢や妄想ではありません。実際の椎奈ちゃんの映像です。〟

 アナウンサーの声が聞こえた気がした。今日はテレビを観すぎたらしい。それに幸せすぎて少々頭がおかしいのだ。
「ねぇ、明日一緒に新聞部に行こう? 今私たちが為すべき事を記事にして貰うのよ。あの子を助けるために何ができるか、具体的なことはわからないけど、まずはそういう風潮を作らないと」
「大学なんて、明日みんな来るかな」
「そうかぁ。でも家でくすぶっててもしょうがないし、行くだけ行ってみる」
 と言うと、椎奈ちゃんの動きが一瞬止まって聞き耳を立てた。雨だ。テレビのボリュームがゼロだから、結構大粒だと想像できるほど良く聞こえた。
 椎奈ちゃんが立ち上がって窓を開ける。僕もその横に立ってつぶやく。
「あーあ、レインコートで走るの大変なんだよなぁ」
 これを聞いて椎奈ちゃんが意地悪そうな笑顔を作って言った。
「・・・? 今日帰るつもり?」
 そして驚き顔で固まってしまった僕を見ながら続けた。
「この雨があがって雲が晴れたとき、いつもと変わらない日常が訪れてくれるのかしら。月と地球の関係は密接だったはずよ。その月が無くなったんだから、これから地球がどうなっていくか想像も出来ないし、昼が来て、また夜がやって来てくれるのかさえわからない。私、こんなに今という時間を大切に感じたことは無いと思う」
「そうだね。現に人類は三日月や満月をもう見る事はできない。今あるものがいつまでもあるとは限らないね」
「うん。だから私たち二人の時間も大切にしたい」
「限りある時間、大切だと思うことをひとつずつやっていきたいね」僕は椎奈ちゃんの顔を見た。「なんちゃって。かっこよすぎた?」
「ううん。やっぱりわたし松太くんのこと好きだなぁ」
 彼女の笑顔がこんなに近くにある。立ち位置も近いが、それにも増して心の距離がグンと近くなった気がする。
 二人は自然に、ごく自然に唇同士を触れた。
 ふ化するまで四十五億年かかったんだ、巣立つまでさらに何千年かかるかわからない。これから人類はあの子と共に生きていく。お互いを理解し合いながら。彼女と僕も、同じように。


  おわり。


<他のストーリーへのリンク>
https://note.com/kuukanshoko/n/n4251357b90d3



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