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『ミハルとアミ』 本編


「危ない!」
 誰かが叫んだ気がした。だけとそれがアミの耳に届いた時には、もう目の前に車がいて、そして気づいたら意識が無かった。正確には、その後〝気づくことはなかった〟。真っ暗な世界を彷徨ったかと思うと、かなた遠くから、まばゆいほど白くて大きな大きな光が目の前にやってきた。

「あぁ、私、天国に行くんだ」安らかに・・・。「いや、待って。めっちゃ思い残すことがあるよ。このまま死ねない」
 ──そなた、思い残すことがあるのか? それじゃまだ連れていくわけにはいかんのぉ。
「そ、そうなんです! ちょっとだけ思い残すことがありまして!」
 誰と話してんだろ、アミはそう思いながら叫んだ。
 ──ならば、ひとまずその辺を彷徨ってなさい。近頃は霊媒師が暗躍しとるから、除霊されないように気をつけてな。一年先になるが、次の盆に各地で迎え火が炊かれるから、それに乗って元の世界に行けばよい。そのかわり、盆明けの〝送り火〟に乗り遅れると魂が地上に降りたまま彷徨うことになるぞ。
「はい、ありがとうございます!」

 そういうわけで、アミが一年ぶりにこの世界に戻ってきた。こっそり巳晴の部屋の窓を覗き込む。久しぶりに見た巳晴は、背が伸びていて、落ち着いた口元が以前より大人びた印象だ。もう小学六年生。どこか憂いを帯びた顔つきに、アミは自分が知らない巳晴の一面を見たような気がして、ほんの一瞬だけ胸がときめいた。
(だめだめアミ。巳晴くんへの想いを断ち切るために、ここに戻ってきたんだから。)

 巳晴は、何やら太いロープを持っている。それを机の上に置き、椅子に座って、代わりに机の上のリコーダーを手に取った。
「ポ、ポ、ポ、ポ、ポ、ポ、ポー」
(ひど~い演奏! 体がムズムズする。でもこの曲大好き、『アマリリス』。よし、この隙に部屋の中に入っちゃえ。)

 一曲だけ演奏を終えた巳晴は、すっくと立ち上がり、少しだけ開いていた窓を閉めて部屋のエアコンのスイッチを入れた。机に戻って先ほどのロープを手に取り、部屋の入り口のドアの前で踏み台にのぼる。上部に取り付けたフックに手を伸ばし、ロープの端をひっかけ、丸く輪になるように結んだロープのもう一方に、首を入れ・・・。
(首を・・・? え! え~! 何やってるの! 巳晴くん!)
 アミが、とっさに巳晴に飛びついて、ロープに噛み付いた。
(噛みついた? ・・・ん? 私、なんで噛み付いちゃったの?)
 次の瞬間、踏み台の巳晴がかすれた声を上げる。

「ひぃぃ! ヘ、ヘビ!!」

 そのまま巳晴は、床に尻もち。アミも、ロープから振り落とされた。その時見えた自分の体、ヘビだ。私、ヘビの姿になってる! 体が床に投げ出されたが、すぐに起き上がり、窓の近くへ。ガラスにうっすらと映る、真っ白いヘビの姿。
(これが私? ヘビになってこの世界に戻って来たんだ・・・。なんで・・・。こんな姿、巳晴くんの前で恥ずかしい。)
 だけど、そんなこと言ってる場合じゃない。アミが、そっと巳晴を振り返る。
(あっちは、私がただの白ヘビだと思ってる。
 →巳晴くんが親を呼ぶ
 →殺虫剤で退治される
 →もう一回死ぬ
 →成仏できない! いやだ!)

 だけどアミの予想に反して、巳晴は冷静だった。立ち上がり踏み台に上がると、ドアの上のフックの状態を確認し、ロープをまた手に取る。それを見ながらアミは、その行為を食い止めようと、威嚇するように巳晴に向けて大きく口を開けた。なにかシーシーとアミの体から出る高い音が、部屋中に響いている。それでも動じない巳晴の足に、今度は体を巻き付かせてみた。「うわぁ」と声を出し、巳晴がもう一度尻もちをつく。クソッとでも言いそうな表情の巳晴。すると今度は踏み台を丁寧にベッド脇に置き、ドアを開け、黙って階下に行ってしまった。

(首吊りを食い止めることはできたのかしら。でも今度こそ親を呼びにいったのかもしれない。大人に見つかったら、私ピンチだ、どうしよう。・・・そうだ!)

 巳晴は、母親を連れて戻ってきた。
「いないわね。本当にヘビだった?」
「結構大きかった」
「そう・・・気持ち悪いし、危険ね。今晩、お父さんにも探してもらいましょ。害虫駆除とかやってくれる業者さんに連絡したほうがいいかしら。久しぶりにお母さんに話しかけてくれたと思ったら、ヘビだなんて。あら、ロープで何やってたの、散らかしてないで片付けておきなさい」
(う~ん。気持ち悪いなんて言われると、ちょっとショックだよ、巳晴くんのおばちゃん。それにね、ヘビは害虫じゃないよ。ヘビって見かけでずいぶん損しちゃうなぁ。)
 母親が階下へ降りたあと、巳晴は視線を床に落とした。
「ん? 僕のスマホ、机の上に置いてたのに」
 スマホを拾い上げる巳晴。画面の文字に気づき、読む。何度か読み返し、眉間に力が入ったり目をぱちくりしたり、驚きと戸惑いを隠せない。

[さっきのしろへび、わたしなの。あみ。いちねんぶりね。もししんじてくれたら、べっどのしたをみて、あみがいるから]

「まさか、そんな・・・」
 言葉を全部言い終わらないうちに、巳晴は右のほっぺたを床に着け、ベッドの下を覗き込んだ。本当にいた。奥の方に、白ヘビがこっちを見ている。
「信じられない」
 あまり直視すると、急に襲いかかってくるのではないかと不安になり、後ずさった。
「白ヘビに生まれ変わったなんて」
(ちょっと違うんだなぁ、生まれ変わったわけじゃないよ。)
 巳晴は、考えを巡らせた。生と死の狭間では、幻覚を見てしまうのだろうか。それとも、さっき実は僕は死んで、ここはもう死後の世界なのか? 
 そのままの姿勢でどれくらい経っただろう、巳晴は、よし、といった感じで何かを決意すると、手に持ったスマホを、ベッド下の白ヘビに向けてすべらせた。すると白ヘビは、尻尾の先っぽを使って器用に文字を入力して、またそのスマホを巳晴に向けて滑らせてきた。
[ありがとう、まだはんしんはんぎよね、ぜったいかんだりしないから、べっどのしたからでてもいい?]
「ああ、いいよ。絶対に噛んだりするなよ」
 言いながら巳晴が、部屋の隅っこまで下がり、背中を壁に付けてしゃがみこんだ。白ヘビは顔だけをベッドの下から出して、舌をペロペロしている。
「全部、出てもいいよ。で、でも、その辺にいろよ」
 尻尾まで全部出てきたのを見届けて、続けた。
「本当に、アミ、なのか?」
 答えが〝YES〟とわかるように、アミが頭を大きく縦に振った。
「こんなことって・・・信じられない」
 目の前の白ヘビが、自分に注ぐ強い視線。だけど、敵意が無さそうなのは、感覚でわかった。
「そうだ。僕の、好きな本は?」
[なぞとき、くいずばとる]
「それ、去年読んでた本だ。本当にアミだ。す、すごいな、スマホで会話ができる」そう言うと、ふと気づいた。「なんか、さっきよりデカくなってないか。成長してるのか」
[なぜかな、ろーぷにかみついたときは、もうすこしちいさかったとおもう]
 巳晴は、首を吊ろうとしていたことを思い出し、バツが悪そうにしている。アミがもう一度しっぽで入力して、スマホを差し出す。
[さっき、しのうとしてた?]
 今度はメッセージを読んでも読まなかったようなそぶり。スマホから目を離す巳晴。
[りこーだーふいてたよね、あまりりす、もういっかいふいて]
「いつからこの部屋に居たんだよ、覗き見かよ」
[おねがい、ふいて、あまりりす、すきなの]
「知ってる」
 巳晴は、少しふてくされたような態度で立ち上がって、机の前の椅子を引いた。椅子に座って、リコーダーを持つ。
「そうだよ。死のうと思った。本気で。アミが好きなメロディーを吹いたら、アミが迎えに来てくれんのかな、とか思って吹いた」
 視線を机の上のどこかに向けたまましゃべり終えると、巳晴はリコーダーを奏ではじめた。弱々しい音色、リコーダー得意じゃないのに、ひとつずつの音を丁寧に出そうとしてる。得意じゃないからこそ、ひとつ音を鳴らすことに一生懸命なんだ。アミは、目を閉じてそれを聴いた。地面に足を付けて走り回っていた頃の風景が蘇ってくるようで、胸のざわめきがとても心地よかった。
「ヘタクソだけどな。そしたら、本当に・・・アミが」
 吹き終わった巳晴は、ベッド脇のアミに目をやった。
「あれ!? 今度は小さくなった?」
[ふえのねをきいてたら、ちいさくなっちゃった]
「笛を聴くと小さくなる? そんなこと・・・現実なのか? これ」
 そこへドアをノックする音がして、母親が顔を覗かせた。素早い動きでベッドの下に身を隠すアミ。
「巳晴、誰かいるの? 話し声が聞こえてたけど」
「あ、いや。えっとスマホでさ、なんか声を聞かせると答えてくれるから」
「ゲームをするために持たせてるんじゃないのよ。おやつ、あるから降りてらっしゃい」
 母親の足音が階下に降りるのを、じっと耳で追う。
「もう大丈夫だ。出てこいよ」
[わたしね、しんだあと、おもいのこすことがあって、おぼんのあいだだけもどってこれたの。おやつたべたら、てつだってくれない?]
「おやつはいらないよ。すぐにやろう、やり残したことって、何」

 アミの思い残すことは、ふたつあった。ひとつは巳晴の部屋からある物を処分すること。でもそれは巳晴に内緒でこっそりやりたいから、それはあとでチャンスを伺うことにする。巳晴に協力してほしいのは、もうひとつのほう。アミは、自分の家に行きたいことを告げ、二人で外へ出た。

「えー、日記を処分するくらいの理由で、戻って来たの?」
 アミが巳晴の肩に乗って、歩きながらスマホで筆談している。
(たしかに、死ぬほど思いつめていた巳晴くんに比べれば、自分が思い残すことなんて、すごくちっぽけなことなのかなぁ。でもそれで巳晴くんへの想いを断ち切ることができそうなんだもん。あの日記さえ処分できれば、気持ちにけじめをつけて、絶対に成仏してみせるんだから。)
「しかもだからって、なんで僕が泥棒みたいなマネしなきゃいけないんだよ」
 巳晴がアミの家のインターホンを押した。適当な理由を言ってアミの部屋に上げてもらう。アミのお母さんは喜んで巳晴を上げてくれた。部屋の窓を開けて、外で待機していたアミを呼び込む。
 日記はすぐに見つけた。

「はい、日記帳のカギ開けたよ。僕、窓の外見てるから」
(ありがとう、巳晴くん、特にあなたには見られたくないの。・・・えーっと、日記の最後の方のページ。)

 八月十八日(晴)
 リナが私に言ってきた。「巳晴くんのこと、好きだ」って。
 幼なじみだから私にはすごい遠慮がちに言ってたけど、もう自分の気持ちがおさえられないみたいになっちゃって、表情には遠慮が無かった。
 私だって、巳晴くんのこと好きなのに。
 あ~。なんだかなー。これが乙女の悩みかあ。私・・・どうする?

(アハハ。なっつかし~。リナ、あれからどうしてるかな。このページは破っておくべし。そうだ、次の日も書いたんだった。)

 八月十九日(晴)
「同じ学年に、巳晴くんのことが好きな子がいます。さて誰でしょう?」
 こんなクイズ出すことしかできなかった。
 答えは知らない・・・ってなによ、バカ。こっちだって、どうなっても知らないんだから!
 ・・・てわけにはいかないよ~(泣)

(青春だね。・・・このページも、さらば!)

 日記を読んでるときのアミは、人間の体に戻ったような気分だった。きめ細かい肌の白い手でページをめくり、小さな爪のついた指先を立ててそのページをそっと破った。切り離されたページを見つめる。そしてそのふたつのページを一気に口に運び、飲み込んだ。不思議と、喉に支えなかった。これで儀式は終わり。アミは、窓の外を見ている巳晴の後ろ頭を一度見て・・・日記帳を閉じた。
 いつしか瞳が潤んできたような気がして、涙は流すまいと手で拭こうとした時、気づいた。
(そうだ、私、ヘビだった。)

 この部屋はアミが生きていたときの、ほとんどそのまんまだ。机の上には、シールを貼ったりはがしたりして跡が付いてる本棚、きれいに並んだノートや教科書、動物キャラクターを象った電動式鉛筆削り。ヘビになったアミには全てが大きく見える。木目調の勉強机を角に沿って降りていくと、椅子の上に丁寧に置かれたピンクのランドセル。中に詰まった想い出が溢れ出して来そう。白いベッドの足元にたどり着いて、そこに置かれたレモン色の大きな箱は何だったかと考える。これにはたぶん、アミが描いた絵や作文などが入っているのだろう。両親がまとめてきちんととってあるものに違いない。
 淡いベージュのマットの上を横切って、巳晴の足から肩の上まで這い上がる。巳晴がチラッとアミを横目で見ると、視線を窓の向こうの入道雲に戻してつぶやいた。
「景色が、色を失ってしまったんだ。いつのまにか・・・空も雲も、全部灰色の霧に覆われたように。どうやったらこの霧が晴れるのかわからなくなった。このさき生きてたって、もう晴れないんじゃないか、そしたら生きてく意味って何だろう、って、毎日考えた。でもね、アミ、この部屋は違う。アミの色が見える。僕・・・・・・」
 まぶたをギュっと強く閉じる巳晴。
「僕、アミのことが好きなんだ」
(・・・巳晴くん。)
 そう言って巳晴は下を向いたままだ。
(あの、今の、告白? ・・・でもアミは、アミはもう生きてないんだよ。遅いよ。うん遅すぎる。生きてるときに言ってほしかったぁ。もし生きてるときに告白とかされたら、どんなに素敵だっただろう。
 きっと、体じゅうの産毛が一気に逆立って、私の肌をやさしくくすぐるの。かと思うと、一瞬止まった呼吸のおかげで、トクントクンと不揃いの脈が指の先の先まで踊り出す。体じゅうが熱くなって、立ってられないくらいの目眩に襲われて、おまけにうつろな瞳はマンガみたいにハートの形に・・・。なぁんて、そんな幸せを噛み締めちゃうんだろうなぁ。
 ・・・でもなぁ、今の私には、産毛も無ければ指先もない。お目々だって、まん丸なんだから。もう、男子って本っ当にダメね。私、ヘビだよ。人間とヘビじゃ、付き合ったりできないし、キス・・・だってできないし! ずるいよ! 今のアミになら、振られたってきっとショックも小さいもん。今のアミに告白なんかしたって・・・どうにもならないもん。)

[わたしはへびだよ、にんげんをすきになりなよ]
(そう、どうせ巳晴くんだって、こんな私よりいつか人間の女の人を好きになる。そんなこと、わかりきってるんだから。)
「その体で僕の首、締め付けてよ。アミと一緒に天国に行けるなら」
[ばーか]
(でも、あいこだ・・・アミも生きてる時に、言えなかった。・・・ありがと。とっても嬉しかったよ。)

 帰り道、もう夕方になった。セミの大合唱が聞こえ、そんなに木があるわけではないのにどこで鳴いているのかと不思議に思う。巳晴があちこちをよそ見して歩きながら、肩の上のアミに言った。
「またデカくなってる。やっぱり放っておくとすぐに成長するんじゃないか? 早く帰ってリコーダー吹かないと、それじゃ人目につくよな」
[ねえ、へやにかえったあと、わたしがあっちのせかいにきえてしまったら、またくびつりのつづきをやるの?]
「ううん。・・・もうやらないよ。やらない。その気は失せた。それよりアミは、思い残すことをやってしまったら、消えてしまうの?」
(送り火に乗って帰らなきゃいけないんだけど、そういえば送り火に乗るってどうやればいいんだろ。)
「黙って行ってしまうなよな、」
 そのとき、巳晴の言葉を遮るように背後から声がした。
「ちょっといいかな、ボク。おじさんね、警察の者なんだ」
「警察? それなら警察手帳見せてよ。本当に警察官?」
 警察官は、面倒くさそうに手帳を広げて見せると、続けた。
「ボク、その白ヘビはどうしたの? どこかで捕まえたのかな? かなり大きいね」
「これは・・・うちで飼ってるヘビです」
「そう。このくらいの大きさになると迫力あるね。毒とか、危険は無いのかな。実はね、ついさっき通報が入ってね、大きなヘビを持った小学生を目撃したってね。危険なんじゃないかって、地域の人が心配しているんだ」
「だから、これはペットで、」
「じゃぁ、おじさんを君のおうちまで連れてってくれるかな。おうちの人とお話したいんだ。それとも交番まで来てもらおうか。そこからおうちの人に電話するから」

 巳晴は、家まで案内することにして歩きはじめた。少し後ろを警察官がついてくる。
(ウチまで付いてこられるとマズいな。・・・よし)
 思い立ったら即行動。巳晴は次の曲がり角を曲がると、急に全速力で走り出した。
「振り落とされるなよ」
 もちろんアミに言った言葉だ。
「おい、待て」と叫ぶ声を背中に聞きながら、路地を走る。五十メートルも走ると、テレビドラマの逃亡シーンのように勢い良くフェンスを飛び越えて、何かの作業場のような敷地に入った。いま巳晴の頭の中には、逃亡ルートの詳細な地図が出来上がっている。敷地の裏手に行くと、またフェンスを上って、水路沿いの細道へ。バス通りまで出て、追ってきてなければ大丈夫か。
 ハァ…ハァ・・・。後ろを振り返っても、先ほどの警察官は追ってこない。バス通りへ。
 しかし、安心したのも束の間、通りの向こうに別の警察官が居て、どうやら無線で誰かと話しているように見える。あわてて身をかがめた。もしかして自分たちのことを話しているのかと思うと、気が気ではない。巳晴は一大決心し、アミを水路脇の草むらに逃がした。

「アミ、池之台公園の東側ベンチで落ち合おう! あそこなら草むらに身を隠しておける。リコーダーを持って必ず行くから! ・・・わかるよね、すぐそこの池之台公園」
 アミは、振り返ってうなずくと、あっという間に姿を消した。巳晴もバス通りに沿って走り、家に向かった。大きな通りは警察官がいるかもしれない。遠回りになるとわかっていても、巳晴はなるべく、細い小さな路地を走った。

 池之台公園は、その周囲を一周するだけでも大人の足で十分、十五分かかるような大きな公園だ。中央の池を取り囲むように、遊具のコーナーや、サッカーなどができるスポーツコーナー、芝生だけのコーナー、噴水やベンチのある憩いのコーナーなどがあり、平日でも昼間は子供たちや犬の散歩をする大人、カップルのような人たちなどで賑わっている。今日は夏休みだからなおさらだ。
 巳晴がリコーダーを持ってそこへやってきたのは、もう陽が沈んで、西の空の橙色が微かに残る頃だった。あんなにうるさかったセミたちは営業時間を終了し、替わりにコオロギか何かの涼しげな声が夏を演出しはじめていた。
(なんだか、いつもと様子が違うな。)
 何が違うかはわからない。いつも通りこの時間になると人はそう多くない。でも何かざわついてるというか、雑然とした雰囲気がある。ふと、周囲の人の会話が耳に入った。
「大蛇が出たらしいぜ」
「こんなところにUMA出現?」
「捕獲するんだってさ。業者が来てたよ」
 アミだ。巳晴は、東側のベンチに急いだ。行く途中、先端がY字型になっている棒や、網を持った大人を数人見かけた。作業服みたいなものを着ていて、草むらや木々の茂みを調べている。地方局らしきテレビカメラもいた。
(捜索してる、ってことはまだ見つかってはいないな。よし。)

 東側ベンチのスペースは公園の端っこにあり、コンクリートと石が混ざったようなもので舗装された地面の周囲には、子供の背丈くらいの木がきれいに並べて植えられている。ここにはまだ捜索の手は及んでいないようだ。
「アミ!」
 すぐにザザッと音がして、剪定された木の向こう側に白いものが動いたのが見えた。
「そこに居て」
 出てきてはだめだ。まばらだけど人の目がある。巳晴は、白いものが見えた場所に一番近いベンチを選んで座った。
「リコーダーを吹くから、小さくなったら僕の足元に来て!」
 後ろのアミに聞こえるように強く『アマリリス』を吹いた。一曲吹いて振り返ってみる。するとすぐにアミの顔があった。
「うわっ」
 デカい。おかしい。さっき茂みの隙間に見えたときより、さらにデカくなっている。なぜだ。
「顔出さないで」
 アミが顔を茂みに戻した瞬間、例の捜索隊の一人が姿を現した。
「ボク、ここちょっと危ないから、今日はもうお家に帰りなさい」
 そう言うと、男は視線を巳晴から逸らし、じっと巳晴の後ろの茂みを見つめはじめた。巳晴は、アミがなぜ大きくなったのかで頭が一杯だったが、男の視線を遮るように自然と立ち位置を変えた。しかし男は腰を屈めて眉を寄せると、何かに気づいたようで、声を上げて仲間を呼んだ。
「まずい、アミ、僕についてきて。走るよ」
 地面を蹴る。アミが茂みの中を、隠れながら並走する。
「おい、きみ」
 走りながら考えた。なぜアミは小さくならなかったんだ? 昼に吹いた時と何が違うのか。曲は同じ。昼か夜かの違い、部屋の中か外かの違い、他には・・・? 他には?
 公園の端に沿って数十メートルを一気に走り、剪定された木の並びが切れたあたりで、巳晴がブレーキを踏んだかのように立ち止まった。

(わかった!)

「アミ、出て来な」
 恐る恐るアミが顔を覗かせる。するとそのとき巳晴が目をとめたのは、アミの体だった。首から下、その白い体に無数の小さなひっかき傷がある。夕方、水路で別れてから今まで、枯れ木や石ころの上を一生懸命走り回っていたんだから、当然かもしれない。あぁ、こうなることくらいも気づいてやれてなかったなんて。
「アミ・・・ごめん」
 巳晴はその場にかがんで、頭の部分が自分の手のひらよりもずっと大きくなったアミの体を、やさしく抱きしめた。そのままゆっくり、ゆっくり自分のほうに導くと、アミはそっと体を巳晴に巻き付けてきた。ずっしりと重みを感じる。
「もう逃げるのはやめよう。でも安心して。今度は大丈夫だから」
 アミを首や肩に巻いたまま立ち上がると、男が三人、駆け寄ってきた。一人は網を持っている。駆け寄った勢いで、そのまま巳晴の腕を掴もうとする男。それを振り切る巳晴。
「やめろ!!」
 巳晴が叫び、同時にアミが口を開けて威嚇する格好をとると、男たちはひるんだ。その隙に、アミの開いた口を巳晴が自分の首に向けた。
「触るな。刺激するとコイツ、僕を噛むよ」
 後ろから、数人の野次馬やテレビカメラのクルーも駆け寄ってきて撮影を始めたのが見える。
「ライトは消して!」
 捜索隊の男たちが懐中電灯を消すと、テレビ局の男も渋々といった感じでライトをオフした。それでもアミの白い体は、公園内に設置された灯に映えて浮かび上がった。
 巳晴は、大きく開けたアミの口を首の横に感じながら、リコーダーを構え『アマリリス』を吹き始めた。
(絶対そうだ。さっきは茂みの中のアミに聴かせようと強く吹いたから大きくなった。弱く吹けば、小さくなるはず。たのむ、小さくなってくれ。見えないくらいにまで小さくなったら、捜索隊も諦めて帰るよな。そうすればまた大きくしてやるから。)

 巳晴の導きだした答えは正解だった。アミはみるみる小さくなり、どっしりと肩にかかっていた重みが、するりと抜けるような感覚だ。捜索隊の男たちも、テレビのクルーも、集まってきた野次馬も、一瞬の出来事に、何が起こったのかわからない様子。そりゃそう、目の前のヘビが小さくなるなんて、誰一人予想していなかっただろう。

 アミが鉛筆くらいの大きさになったとき、肩からスルリと落ちて、ズボンの後ろのポケットの中に落ちる重みを感じた。
(いいぞ。)
 それから、もっともっと小さく、曲が終わるころには、とても小さくなった。
 巳晴は、悠々と歩いてその場を去りはじめた。後ろで聞こえる、捜索隊やテレビクルーのざわめきが、巳晴には心地いい。
「どこへ行ったんだ? 探せ」
「おい、さっきの、録れてたか? すぐに確認しろ」
 野次馬の中には、こんなことを言う人もいた。
「ねぇ、さっきのヘビ、写真撮ったんだけどさ、写ってないんだよね。ほら、男の子しか撮れてない」

 巳晴は、ポケットの口をしっかりと押さえながら公園の入り口近くまで歩いてくると、少しでも早くアミを大きくしてやりたい気持ちでリコーダーを構えた。このあたりはもう野次馬のざわめきは無く、いつもの夏の夜の公園の静けさだ。
 夏の夜空に大きく鳴り渡るアマリリス。こんな時間に誰が吹いているのか、公園前の通行人は不思議に思ったかもしれない。一曲が終わる。しかし、ポケットのアミが大きくなった気配はない。すごく小さくなりすぎて、まだまだ糸くずくらいの大きさにしかなっていないのか? もう一度演奏してみる。焦りの表情が、巳晴を襲う。
(吹く強さが違うのか? それともあのあと、ポケットから落ちたのか? どこで? ・・・ポケットから落ちて、僕の足元に来ようとしてたのに、僕があまりにスタスタと歩いて行ってしまったから、追いつけなかったのかもしれない。)
 巳晴は念のため、もう一度だけその場で吹いてみたあと、急いでさっきの場所に戻った。

 すぐにでもリコーダーを吹きたい気持ちを抑えて、巳晴は物陰から様子を伺った。野次馬はもういない。テレビ局のクルーと捜索隊だけが、大蛇発見に躍起になっている。今吹けばまた騒ぎになる。巳晴は、彼らがどこかへ行くのを待つ事にした。そして十分か十五分もすると、誰かが諦めようと言い出した。彼らは円陣を組むように丸くなって、少しだけ何かを話したあと、バラバラと解散していった。ヘビが見つからなかったシラけムードが漂う中、誰かがつぶやく。
「あのボーズは何だったんだ、何か話を聞き出しときゃよかったな」
 その時、巳晴の右ポケットでメッセージの着信音が鳴った。人工的なその音は、夏の夜の空気になじむことなく、捜索隊の男たちの耳にも届いた。影に身を潜めている巳晴が、慌ててスマホをポケットの上から押さえつける。しかし、どこかのベンチに人がいる、くらいに思ったのか、巳晴のことを探しにくる気配はない。ひと安心してスマホを取り出すと、帰りが遅い事を心配する母親からだった。公園にいるから心配しなくていい、と簡単に返信したあと、男たちの姿が見えなくなったことを確認して、さっきアミを小さくした現場に走った。

 そしてすぐにリコーダーを吹いた。何度も。
 アミは一向に姿を見せない。そんなはずはない・・・そんなはずは。リコーダーを吹く事をやめない巳晴。不安で押し潰されそうだ。
(僕のせいだ。僕がアミを小さくしたから。いっそのこと、さっきの男たちに全てを打ち明けて、協力してもらっていればよかったのかもしれない。僕ひとりでどうすればいいんだ。あとで大きくできるなんて考えてしまった僕のせいだ。)
 いつしか巳晴の顔は涙まみれになっている。鳴き声こそ出さないが、喉が震えて、もうまともに曲の旋律を奏でることはできていない。それでも巳晴は吹く事をやめない。もう、こうすることしか他に方法を思いつかないから。
(ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。)
「おい! うるせぇぞ。こんな時間に何やってんだ!」
 遠くの誰かの叫び声が、巳晴の耳に入ってきた。ガクリと膝を落とし地面に手を付く。事態の変わらないこの状況が、重く背中にのしかかってくる。ついに頭をも地面に付け、体全体を震わせて泣いた。ポケットで着信音が鳴ったが、スマホを取り出す気分にはなれなかった。ふと、今日の午後の、アミとの出会いのシーンを思い出す。考えれば、アミは僕の命を救った。なのに僕はアミのことを守ることができなかった。自分を責める。放心状態の巳晴に、今度は何度も着信音が鳴った。右ポケットに手を突っ込む。もう一度音が鳴ったとき、いよいよスマホを取り出した。

[みはるくん、わたし、あみだよ]
(あ! アミから? ・・・どこから・・・。)
[さっきはまもってくれて、ありがとう。とってもかっこよかったよ。みはるくんのおかげで、おとなたちにつかまらずにすんだ]
[それに、みはるくんがわたしのからだをすっごくちいさくしてくれたおかげで、わたしのたましいがからだにはいりきれずに、]
[からだのそとにとびだしちゃったみたいなの]
[ふわふわういていると、おくりびをたいてるおうちがみえたから、ちかづいてみたの。そしたらそのままたかいところまでとんできちゃった]
[じつはわたし、やりのこしたことがもうひとつあって、みはるくんのへやのあるものをしょぶんしたかったんだけど、]
[もうそんなこと、どうでもよくなった。さいごのさいごに、みはるくんからおおきなあいをもらったから]
[これでおもいのこすことなく、じょうぶつできるよ]
[わたしがへびのすがたになったのもりゆうがわかるね、あんなにおおきなあいをうけちゃったら、にんげんのすがただとおたがいみれんがのこっちゃうもん]
[かみさまにかんしゃだね]
[じゃあね、もういかなきゃ。わたしはてんごくにいくんだから、みはるくんはにんげんのおんなのこをすきになってね。ばいばい。あみ]
 しばらくうずくまっていた巳晴だが、スマホをわしづかみにして立ち上がると、空を仰ぎ見た。言葉では説明のつかない感情を吐き出すのに、躊躇はなかった。
「ぉわーーーーーーーーーーーー!!!!!!」


 ― 数ヶ月後 ―


(どれも、捨てていいような本は無いんだよなぁ。)
 もうすぐ中学生になるんだから、ということで、母親に部屋の本棚の整理を命ぜられた巳晴が本棚の前に突っ立っている。
(でもまぁ、こんな時でないと思い切って整理できないだろうから、今日は片っ端から見ていくか。)
 一冊一冊を手に取ってはパラパラとめくったり、並べる順番を変えたりしていく巳晴。下段の隅っこにある百科事典に手を伸ばす。
(さすがにこういうのは、もう見ないかなぁ。昔はこういうので、よくいろいろと調べたっけ。・・・ん?)
 たまたま開いたページ、ウェディング・ドレスの項目に何かを見つけ、顔がほころぶ。
「アミが処分したかったものって、これだな? やっと見つけた。フッ、何才の時のラクガキだよ」

『← あみ』

ドレスを着た女性の隣に、男の子の落書きが描かれてある。

『みはる →』

 巳晴は、百科事典を閉じ、丁寧にもとの場所に戻して考えた。次はどんな夏がやってくるんだろう、と。

 
   おわり



<プロローグに戻る>
https://note.com/kuukanshoko/n/n9760348abffc


<他のストーリーへのリンク>
https://note.com/kuukanshoko/n/n4251357b90d3


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