『ふたりのオリアナ』
三月も半分を過ぎて、日差しは春の暖かさを増してきたというのに、イングランドの北部に位置するこの町の風はまだ冷たく、肌を撫でるのは暖かさと冷たさが調和された不思議な空気だ。私はアルバイト先のフラワーショップで、今日の花を店先に並べながら空の色をうかがった。千草色の空。季節との別れを惜しむような、なんだか胸をくすぐる青。
お店の電話が鳴って、店内に戻る。お花の注文だ。いつもなら店主があちこち配達に行くのだけど、今日は私が配達を引き受けることになった。こんなときは、パパの反対を押し切って取得した自動車免許が役に立つ。パパは少し心配性なんじゃないかな、このアルバイトも土日だけなら、ってことで許してもらえてる。本業は学生なので仕方ないけど。
その配達の依頼は、〝町はずれの公園まで花束をひとつ届けてほしい〟 とのこと。そこにお客様が待っているそうだ。公園になんて、珍しい配達もあるものだ、と思いながら花束を作る。店の奥さんによると、ここ数年この時期に毎年注文くださる方らしい。
「その方、車椅子のはずだから、何かあったらお手伝いしてさしあげてちょうだいね」
私は快く返事をして、車に乗り込んだ。
辿り着いたのは、花壇と木陰とちょっとした遊具だけの、シンプルな憩いの広場、という感じの公園だ。見上げると、背の高い木々。午前中の清々しい空気の中、揺れる木の葉は互いにおしゃべりをしているみたい。
花束を持ち公園の敷地の中へ入ると、お客様の姿があった。もっと年配の方を想像していたけど、まだ若く二十歳過ぎくらいに見える。栗色の髪の毛に濃いブルーの瞳、穏やかな表情。以前どこかで会っただろうか、初めてではないような気がした。答えが見つからないうちに花束をお渡しする。
「公園に配達をお願いするなんて、珍しいお客でしょう? ありがとう。とても助かります」
毎年、この公園に花を手向けるのだという。奥のブランコのところまで行くとのことなので、車椅子を押してさしあげた。自然と身の上話をはじめる彼。
「ここは妹がよく遊んだ公園でね・・・今日が命日なんですよ」
最初は相づちを打ちながら聞いていた。だけどそのうち、彼が私と共通の思い出を持っていることに気がついた。驚きで車椅子を押す手を止める。彼が振り返る。そして思い出した。彼が私にとても近しい存在で 〝あった〟 ことを。 もう十年も前の話。九歳の私。忘れてしまっていたあの記憶が、こんなにも鮮明に、私の体のどこかにまだ潜んでいたなんて。 それはまるで古い引き出しの奥から写真を見つけ出したように、くっきりと私の目の前に姿を現した。
遠い記憶の中の私は、学校が終わると知らない道を探検しながら家に帰ったり、帰り着いてもすぐに鞄を投げ出して遊びに出かけるような子だった。元々活発な性格だったということもあるけれど、家庭の雰囲気が大嫌いで家にはあまり居たくなかったから、というのが一番の理由・・・。
肩まで伸ばした髪を小さく後ろ頭でくくり、どこかで拾ってきたスキー用の大きなゴーグルをピッカピカに磨いて(これは私の宝物だった)頭につけて、バスタオルのマントを首に巻く。そして厚紙を曲げて作った短剣のようなものを腰につけると、いつも遊びに出かけるスタイルの出来上がり。何かのヒーローになったつもりでいたのかも。
その日は日曜日。日付は、そう三月十九日。まだ朝露が草木の葉を湿らせる早い時間から一人公園で遊んでた。
いつの間にか、五、六歳くらいの男の子と友達になって、鬼ごっこのような単純な遊びを始めたの。色白で華奢な、黄色いカーディガンが似合うハンサムボーイだったわ。
二人で追いかけ合って、遊びに夢中になるあまり、辺りは私の知らない風景になってしまっていた。背丈の高い雑木林。どれくらい遠くに来てしまったのかキョロキョロしていると、その男の子には知った場所のようだった。
「僕、知ってるよ。こっちこっち」
「悪者め! 悪の組織に導くのか!」
男の子を追って走ると、スッと広い空間に出た。くるぶしくらいの丈の雑草で覆われていて、端っこには黄色いナルシサスの花が綺麗に並んで咲いている広場だ。すぐ隣に大きなお屋敷があって、お屋敷を背に立つと私が住む小さな町が見渡せた。ランカシャーの田舎町。いろんな色の屋根が見えて、そこが小高い丘の上であることがわかった。
いつしかさっきの男の子を見失ってしまった。だけど、私はかまわず飛んだり跳ねたり、一人遊びを続けていた。誰にも知られていない秘密の場所を見つけたようで、嬉しかったのね。
少しすると、隣の大きなお屋敷の二階から、じっと私のことを見つめている少女の姿に気づいた。いえ、なんとなく誰かに見られているような感覚は、その場所に来た時からあったのだけれど。
私はその屋敷の塀のすぐ側まで駆け寄って、話しかけてみた。
「何してるの?」
「空が・・・淋しい色をしてるの」
面白い子だ、即座にそう思った。
「私、マリー。そこに遊びに行ってもいい?」
うん、と答えてくれたのを見て、私はお屋敷の塀に沿って歩きはじめた。
角を曲がると見えてきた大きな門。彫刻のような飾りが施されていて、絵本の中みたい。門についた扉は鉄製か銅製か金属のもので、真ん中に二つの取っ手がある。古めかしいけど、よく磨かれていてとても綺麗だ。私はその取っ手のひとつを握り、扉を押し開けた。
視界に、門から玄関まで続く石畳が現れ、その両側には、よく手入れされた緑色の草が広がる。いつもの私なら、寝っ転がって遊ぶところだけど、この時はなんだか高貴な大人の世界に足を踏み入れたように思えて、ドキドキしながら石畳を歩いた。
玄関のステップに立って、こんなに高さが必要だろうかと思うほど大きなドアを両手で引いて開け、中に入る。ツルツルの石でできた床、不思議な模様のカーペット、柱や階段の手すりそのものが美術品かと思ってしまうほど綺麗な装飾、吹き抜けの天井にはシャンデリア。私は階段を一歩上がるごとに、目線が高くなっていくのを楽しんだ。
二階は少し薄暗いようだ。そういえばさっきから人の気配がしない。他人がこんなに簡単に二階まで入って来られるなんて、不用心ね。
「こっちよ」
廊下に二つ並ぶドアのひとつが開いて、さっきの少女が顔を覗かせる。重たそうな二重まぶたの奥の、深いグレーの瞳。胸のあたりまでまっすぐに伸びたプラチナブロンドの髪は、丁寧に手入れされているのが見て取れる。肌は〝白い〟を通り越して、透き通ってるのかと思ってしまいそう。薄い素材のワンピースが、ハンガーに吊るされたようにひらひらと揺れている。これをネグリジェっていうのかしら。
「私、オリアナ。入って」
小さな唇をかすかに動かし、部屋に入れてくれた。
部屋の中は、私には珍しいものばかり。たくさんのぬいぐるみや女の子姿のお人形、図書館のように背の高い本棚、壁にかかっている大画面、これはたぶんテレビ。DVDもたくさん置いてある。それにここにも小さなシャンデリア。中でも目を惹いたのはベッド。まるでお姫様が眠るようなツヤツヤの枕に、天蓋がかすかに揺れている。そのベッドに少女が腰をおろしたのを見て、私は思ったままを言葉にした。
「あなた、お姫様?」
彼女は小さく微笑むと、生まれつき体が弱いと打ち明けた。ほとんど外へ出ることはなく、この部屋の中が彼女の世界の全て、らしい。それでもテレビやインターネットで世間の様子はわかるし、観たい映画はDVDで全部観た、だからそれほど悪い生活ではないのだという。そのためか彼女の口調に悲壮感はなく、むしろ落ち着いたその声は穏やかで、私の心を優しく撫でるような感覚さえ覚えた。
オリアナにはお兄さんがいて、同じ病気で彼が六歳の時に亡くなったそうだ。そういうこともあり、ご両親のオリアナへの扱いは、多少行き過ぎではないかと感じることもあるという。家のまわりを散歩するにも、インターネットで大気の状態を調べてからでないと出かけられないなんて、大変そう。
「だからね、正直言うとやっぱり憧れる。あなたみたいに、裏庭を駆け回る楽しそうな姿を見てると」
言葉の内容にしては、窓の外に視線を向けた彼女の横顔は無表情すぎて、チグハグな印象を受けた。しかし却ってその無表情さが、悲しさを増強させて私の胸にぶつかってきた。そして私はとんでもないことを思いつき、そのままを口にしたのだ。
「私たちちょっとだけ、入れ替わってみる?」
そのとき一瞬だけこの部屋の空気が大きく歪んだ気がして、今言ったことを後悔するくらい恐かった。お部屋のぬいぐるみ全部から見つめられているような妙な気分。そして彼女がゆっくりと顔をこちらに向けた。あまりの無表情さに、驚いているのか怒っているのか、わからない。背筋が寒くなってきたのを紛らすように、私はすぐに付け加えた。
「あの、私たち、ほら、背丈や体格も似てるし、お洋服を取り替えたらお互いの立場を入れ替われるんじゃないかなぁ~なんて」
「本当に?」
唇の両端だけを少しだけ動かして聞き返した彼女の、瞳の奥のグレーの色が、ぐっと濃くなった瞬間があったのがわかった。
「うん、本当だよ・・・」
「それ、名案ね」と少し笑顔になった彼女に、私はホッとした。場の空気が明るくなる。
それなら、と、すぐに私たちはお互いが着ている洋服を取り替えた。私はネグリジェの首の穴にすっぽりと頭を通し、わざと裾がひらひら揺れるような動きをして楽しんだ。あちらのオリアナは、慣れないゴーグルやマントをジロジロ見つめて半分笑いながらこう言った。
「ねぇ、この格好、何なの?」
「ニンジャガールよ。ゴーグルが特にお気に入りなの。かっこいいでしょ」
私はふかふかのベッドに飛び乗った。シーツの中に潜ってみる。わぁ・・・いい匂いがした。思いっきり息を吸い込んで、顔だけをシーツから出す。
「ねぇ、」
夜までには戻ってきてね、と言いたかったけど、彼女の姿はもうそこには無かった。よほど嬉しかったのか、もう飛び出して行っちゃったの?
私はそのままの姿勢で首だけを窓の外に向け、空を眺めた。雲がゆっくり流れてる。いつもの風景なのに、なんだか今までとは違う人生を手に入れた気分になって、私はとても清々しかった。
そこへノックの音がして、誰かがオリアナの名前を呼んだ。
まずい。オリアナは外出中! いま私と入れ替わってるの! と心の中で叫びながら、ベッドの上で頭からシーツをかぶる。
「お嬢様、お昼ご飯です」
「今は食べたくない」
とっさに答えた。でもシーツで口を押さえて、くぐもった声で。そうすれば声でばれることはないと思った。
「それでは、こちらに置いておきますから、あとで召し上がってください。お薬も忘れないように」
私はシーツの下から彼女の気配をうかがった。運んできた料理をテーブルに置き、食器を整える。部屋のドアを開け、こちらを振り返る。
「冷めないうちに」
ドアが閉まると、彼女の足音のしない足音が階下に降りていった。
置かれてあったスープと果物を口に入れてみる。夢のような味がした。こんなに美味しいスープがこの世にあったなんて。私はペロリと食べ上げた。そして部屋にある色んなものを、ひとつひとつ見てまわった。精巧にできた人形や、かわいらしいぬいぐるみ。食器の横に、お薬の袋。いけない、これは飲んだことにしておかないと。少し考えて、枕の下に隠した。枕元の写真立てに小さい頃のオリアナの写真。隣に写っているのは亡くなったお兄さんかな? あれ? この顔、そして黄色いカーディガン・・・さっき追いかけっこした男の子?
その時またノックの音がした。すかさずベッドに潜り込み顔を覆う。さっきの女の人が入ってきて、食器を片付けている。片付けてしまうと、私に声をかけた。
「往診の先生が、もうすぐいらっしゃるそうですよ」
え・・・、それはまずい。まずいよ。どうしよう。あの子が戻ってからにしてもらえないかしら。
「あの・・・今日はとても気分がいいのよ。先生に来ていただかなくても大丈夫だわ」
女性が一瞬動きを止めて、こちらを見る姿が目に浮かぶ。でもそのままドアを閉めて出て行ってしまった。
あの子、何してるかしら。このままじゃいられない。しょうがない、こっそり逃げ出してしまうしかない。だって診察なんて受けたら、入れ替わっていることがばれてしまうもの。
部屋のドアをそぉっと開ける。右よし、左よし。足音をたてずに階下へ。人影はない。ツルツルの石でできた玄関口に向かって、つま先で早歩き。そして玄関ドアを開ける。少しだけ、体が通るのに必要な分だけ。こっそり、こっそり、静かに。右足を外に出す。そして頭。体半分が玄関から出たとき、背後から声がした。
「お嬢様?」
見つかった! その声が不意打ちすぎて、思わず外に走り出た。石畳の上を門まで一直線に走る。
「お嬢様!」
呼ばれても止まるわけにはいかない。門の鉄の扉を開け、迷うことなく走る。
ハァ、ハァ、苦しい、胸が。・・・来た道を戻る。あまりに苦しくて、さっきのナルシサスの花の広場あたりでしゃがみ込んでしまった。息が・・・苦しい。それに、クラクラする。
「お嬢様ッ!」
追いかけてくる声がだんだん悲痛になるのを聞きながら、こんなに苦しいならもう逃げなくていいや、と思った。その瞬間、意識がすうっと遠くなった。
どれくらいの時間が経ったのか、気づくと私はベッドで寝ていた。静かに目を開けてみる。見覚えのあるシャンデリア。少し開いた窓から入ってくる、穏やかな夕方の風。
「目が覚めた?」
突然の声に、心臓が握りつぶされたかと思うほど驚いた。窓とは反対側にいた、女性の声だった。
もう隠れてもしょうがない。私はその女性の顔をしっかりと見つめた。さっきの追いかけてきた女の人よりは年上に見える。表情はこわばり、安堵と心配のどちらに落ち着いたらよいか、まだ迷っているような頬の動き。瞳は、言いたげな何かを飲み込んだ替わりに、少し潤んだ。
すぐにあの子の母親だと悟った。叱られるのだろうか、それとも「あなたは誰?」と問われるだろうか、それよりまず謝るべきか。
そこへ、大きな音を立てて部屋のドアが開いた。
「オリアナ!」
「あなた、大きな音を立てないでください。この子はいま目を覚ましたばかりなんですから」
男性は、彼女の言葉を聞いているのかいないのか、私の方へまっすぐに歩み寄り、寝ている私の頬に自分の頬をくっつけた。
「驚いた。しかし、無事でよかった」
「往診の先生が、ちょうどいらした時だったらしいの」
男性の後ろから母親とおぼしき女性が話しかける。しばらく安静にしていれば大丈夫と告げると、男性はたいそう胸を撫で下ろした。
おかしい。
会話を聞く限り、二人はあの子の父親と母親だ。それなのになぜ、何も言わないの? 目の前の娘がすり替わっているのに、まさか気づいてないなんてあり得ないでしょう。
ベッドに寝たままの私が何気なく横を見る。目の前に私の髪の毛。胸まであるプラチナブロンド。ん? この髪の毛、私のじゃない・・・そういえば、さっき裏庭まで走った時も、このロングヘアを振り乱してた。
そのとき私の中に、あり得ない想像がくるくると回り始め、魂が抜け落ちそうになった。
——私、体ごと彼女と入れ替わってる?
その悪い想像を打ち消す気力も、すでに削ぎ落とされていた。体全体がガクガクと震え始める。
「ち・・・違う、私は」
母親が様子に気づき、耳を私に近づける。
「鏡、見たい」
父親がか細い声を聞き分け、部屋のどこかから手鏡を取り出すと、すぐに母親に手渡した。それをそのまま私の手に持たせる。鏡の中に映った顔は、紛れもなくあの子、オリアナだった!
「いやぁ・・・・・・」
私の叫びは、かすかな息となって空中に舞った。そのまま、また意識のない世界に落ちていった。
暗い。
ここはどこだろう。次第に、目が慣れてきた。閉められたカーテンの隙間から、微かにこぼれる月の明かりがぬいぐるみたちの瞳を輝かせている。あの部屋だ。私は立っている。そして、目の前に私が現れた。つまり、私の姿をしたあの子が現れた。昼間別れたそのままの出立ちだ。目が合うと彼女は口を開いた。
「どう? 私の体は」
どうもこうもない。こんな病弱な体、早く元通り取り替えてほしい。彼女(外見は私だけど)は、相変わらず表情が乏しく、その感情を読み取るのは難しい。ただ、次の言葉には少しトゲを感じた。
「あなたが、入れ替わろうって言ったのにね」
「体ごと、なんて言ってない。それに・・・あなたも喜ぶと思ったから」
私の言葉を聞くと、彼女は目の周りに力込めた。
「そうよね、健康な人はすぐに何々〝してあげる〟って言うわ。どれだけ人を見下すの。寝室で毎日を過ごす気持ちなんて全然わかってないくせに」
まさかそんなふうに言われるなんて、思いもよらぬ言葉に悲しみが溢れ出た。今思えば単純すぎる提案だったのかもしれない。彼女の心を傷づけたのかもしれない。でも・・・あのときは純粋に喜ばせてあげたかったし、私もそうやって小さな遊びをただ楽しみたかっただけ。私は、自分の正当性を自分自身に訴えた。それは悲しい気持ちを打ち消すためだった。けど、悲しみが消えたそのすぐ後ろからは、怒りの感情が顔を出しアッという間に胸いっぱいに膨らんだ。
「あなただって・・・」
私は、彼女をまっすぐに見つめて口調を強くした。
「あなただって、せっかく健康な体を手に入れたのにこんな夜中に戻って来たりして、どうしたの。私の家まで帰ったんでしょう?」
彼女が、一歩下がった。
「どうだった? 私の家は。あまりの貧乏ぶりに驚いた? それとも、車椅子の兄に嫌味でも言われた? 兄が事故にあってから、家族は変わったわ。とても優しいお兄ちゃんだったのに、今はいつも苛立っていてただ鬱陶しいだけの存在。パパは最っ低。昼間っからお酒を飲んで、時には暴力まで・・・あなた、体のどこかに新しい痣でも作ったんじゃない? パパに殴られて。それとも、痣ではなく火傷の痕かしら。それでこんな夜中に逃げてきたのよね」
「いえ、私は・・・」
うつむきかげんの彼女は、歯をくいしばって何かを我慢しているようにも見える。私は追い打ちをかけた。
「あなたこそ、外を元気に飛び回ってる子がみんな幸せを手にしてるなんて、勘違いもいいところよ! どうやったらあの家のことを忘れられるか、そんなことでいつも脳みそ精一杯使ってるんだから!」
私は、言うだけ言うとスッキリした。言いながら、自分の気持ちにも整理がついた。やっぱり自分の家庭環境は最悪だ、と。体は健康でも、心を癒す場所が無い。
・・・ただそれでも、いくら家庭環境が悪くても、やっぱり自分の体に戻らなきゃ。
彼女が両手をふわりと持ち上げて私の方に差し出した。私も同じようにしながら、彼女のほうに歩いて行く。
両手が触れると、元に戻るのかな、本当にいいの? 私。戻って、あの生活をまたやるの?
・・・いけないいけない、当然だよ、この体はあの子のものだし、元に戻るのが二人にとって一番いいのよ。
ほんの二、三歩を歩く間に、ずいぶんいろんなことを考えた気がする。このときだけ、時間がスローモーションで流れたのかな。ゆっくりゆっくりとその距離を縮めた二人の両手が、今にも触れそうになる。私は一瞬だけ、触れるのをためらってしまった。するとその隙を衝いたかのように、彼女が口を開いた。
「さっきはひどいこと言って、ごめん」
ふたりの指と指が、互いの指の隙間に、するりと入っていく。
〝わたしこそごめん〟
言葉のかわりに私は首を横に振り、彼女の手のひらを両手に感じながら、だけど心の中では強く拒んでいた。やっぱり、いやだ。あの生活には戻れない。だって、もう限界だった。体が戻ったところで、パパの暴力に耐えきれず自ら命を絶ってしまうかもしれない。車椅子の兄をどこかの階段から突き飛ばしてしまうかもしれない。いつもそんなこと考えてる。このさき起こる事柄に、希望は全く見いだせないんだもの。だったら・・・このまま。身勝手なのは分かってる。でもあなたはどう? オリアナ。病気と闘う毎日にサヨナラしたいと思ってる? そうじゃない? オリアナ。
目の前の彼女は、何か言いたげで、言えずに躊躇しているような目をしている。でも喉の奥で唾液を一度飲み込むと、その表情が少し変わり、私の顔を真剣に見つめて言った。
「私の体、大切にしてくれる?」
「え・・・? うん」
私は、唐突な質問に、心を読まれたのかと恥ずかしく思いながらも即答すると、彼女は淋しそうに、でも安心したような微笑みを見せた。その日見た彼女の(私の風貌だけど)一番人間らしい表情を見た気がした。
「必ず大切にする」
私がそう誓うと、・・・目が覚めた。
まるでダイバーが酸素を求めて水面に上がってくるように、目覚めは突然にやってきた。ただ、思考はすごくぼやけていて、一度まぶたを開けたものの、ひどい眠気は覚めないままだ。白い天井、顔には酸素マスク? あまりに頭がだるい、もう一度まぶたを閉じる。
そうだ、私、手術を受けたんだ。麻酔から覚めたのか。
「目が覚めたかい? よくがんばったね。自分の名前が言えるかな?」
私? 私って誰だっけ・・・「はい。えっと」医師の言葉に反射的に答えたものの、自分が誰であるか、もっとゆっくりと考えたかった。今まで麻酔で眠っていたのよ、そう急かさないでほしい。でもこれで、長い長い胸の病気との闘いから解放される。私は心臓移植という大手術を受けて、この命をつなぎとめることができた。
「自分の名前が言えるかい?」
そうだ、私の名前は・・・。
「マリー」
医師やナースたち数人の動きが凍り付いたのが、寝ていてもわかった。答えを間違ったんだ。心電図か何か医療器械の音だけが、ピッ…ピッ…ピッ…と室内に響く。
「オリアナ・・・フィンレーです」
すぐに言いなおした。
移植された心臓には、前の持ち主の様々な記憶がしっかりと残されたままで、ゴーグルにマントをつけて飛び回っていたその生々しい記憶は、私自身の記憶として生き続けた。もちろん、寝室で窓の外を眺めながら過ごした日々も、忘れてはいない。まるで、ふたつの人生を生きてきたような心持ちだったけど、子供の私は、そのことについてさほど気にとめることはなかった。
最初の頃は、私は心の中で頻繁に(ドナーの彼女と)会話をした。「これってどっちの記憶だっけ?」などといつも話し合っていた。「元の心臓は体を離れることが不安だったでしょうね」なんて言ってくれる優しい子だったから、お話するとすごく安心できた。
そんな様子をパパとママはとても心配していて、ある日私が「亡くなったお兄様がマリーを連れてきてくれたの」という話をすると、すぐに私をカウンセリングに連れて行った。そこでドナーの記憶が臓器に残っているケース、つまり記憶転移の話とかを教わって、自分の体の状態を少しずつ頭で理解できるようになると、心の中で彼女と会話する機会は次第に減っていった。同時に、九歳以前の記憶も年月とともに薄れていってしまった。
「ここは妹がよく遊んだ公園でね・・・」
車椅子の男性が話を続けた。
「ここのブランコから落ちて、頭を強く打ったようで。集中治療室で約一日・・・苦しんだと思います。いや、それ以前に、僕自身がずいぶん彼女を苦しめたんです。もう十年も前の話です。
・・・でも妹は臓器バンクに登録していて、あ、うちの家族は全員、僕が事故でこんなふうになったときに登録したんです。彼女の心臓や、他の臓器もですが、今はどこか誰かの体の中で生き続けてるはずで・・・それだけが救いです」
間違いない、この方は彼女のお兄さんだ。今日の日付も私の手術した日と一致する。あまりの驚きに、私は車椅子を押す手を止めてしまった。私を振り返る彼。
「すみません、つまらない話を」
「いえ、そんなことないです。車椅子、押しますね。あの・・・妹さんの名前、うかがってもいいですか?」
「マリーです。マリー・ケイフォード」
鼓動が、一度だけ高く鳴った。
「可愛らしい名前、ですね」
私は、自分の胸に意識を向けた。マリーはここに生きてる。そのことを彼に伝えるべきだろうか。
・・・いえ、違う。うん。それを知るべきなのは彼ではなく、私だ。今日のこの出会いは〝私に〟向けたマリーからのメッセージじゃないかな。〝私を忘れないで〟というメッセージ。いつのまにか、私ひとりで生きてきたような気がしてた。手術後、性格が明るくなったと言われることが多くなったのは、マリーが心の中にいて支えてくれたから、に違いないのに。
ブランコの横に着き、二人それぞれにこの場所に想いを馳せる。
「妹が元気に飛びまわる姿が思い浮かぶよ」
「ええ、お気に入りのゴーグルをつけて」
私は微笑んだ。
うっかり口を滑らせたことに気がついたのは、彼が私の顔を見上げた時だった。
「君、マリーの友達?」
「あ。・・・はい。とても仲の良い友達です」
風が吹いて、木々が揺れた。木の葉が手を振ってるみたい。この風が、季節を連れ去るのかな。
私は大きく深呼吸をした。大きく広げた私の手で、肌で、髪の毛で、深呼吸した胸で、体全部使ってこの風を憶えていようと思った。マリーと出会ったこの季節の風を。
おわり
<他のストーリーへのリンク>
https://note.com/kuukanshoko/n/n4251357b90d3