『月の妖精』 後編
羽根を持たない妖精が、ひとり夜空を見上げています。ここは石の宮殿の庭。視線の先には、ふたつの妖精の影がありました。
「行ってらっしゃい、お兄様、お姉様」
ふたつの影が小さく見えなくなると、その妖精は下を向き、宮殿の外へ向かって歩いて行きました。彼にとって、夜は人目につかずに外出できるチャンスなのです。人目につくとどうしても、羽根の無い妖精だと指をさされているような気がしてならなかったから。
門番の男が気をつけの姿勢をしています。
「門番だって、僕のことバカにしてるに違いない」
自分に自信が持てないあまり、羽根を持たない彼はそんなふうに考えがちでした。でも実際には、門番の想いは違いました。毎夜、宮殿を出て行く妖精の姿を見て、何か元気づけてあげられる言葉は無いかと、いつも考えていたのでした。
そんなことは知らずに妖精は、門番の顔を見ないようにしながら、いそいそと宮殿の外へ歩いて行きます。
「僕は羽根が無いから空を飛べない」
考え事が口から出てしまっています。
「でも何か別の方法で、空を飛ぶことはできないかな」
ちゃんと前を向いて歩かないと・・・! ふらふらと歩く姿は、危なっかしくて見ていられません。
「絶対、何か方法があるはずだ」
考え事に夢中になりすぎて、大きな木に頭をぶつけてしまいました。
「痛っ!」
木の上の方の枝に止まっていた数羽の鳥が、驚いて飛び出します。
「ごめんよ、眠りを邪魔しちゃったかな。・・・木登りは得意だけど、飛んで行ってしまったならお詫びにも行けないや」
空の彼方に小さくなる鳥たち。その後ろ姿が、ゆっくりと流れる黒い雲の中に向かって行きます。
「鳥の足につかまることができたら・・・僕も空を飛べるのかな」
そう言ったかと思うと、妖精はすぐに口元をほころばせて笑いました。
「ふふ。そんなことしたら大変だ。僕は月へ飛びたいのに、鳥なんてどこに飛んで行くか分かりやしない。現に今だって、あんな遠くの雲の方へ・・・ん?」
どうしたのでしょう。
「んんん?」
どうやら妖精は何かを思いついたようです。今来た道を早足で戻り始めました。頭の中はまた考え事でいっぱいになっています。
「やってみなきゃわからない。でもきっと飛べる。この方法ならきっと」
きっと飛べる!
最近見るこの夢はすごく鮮明で、手で触れた石の宮殿の柱の冷たさやその匂いまでも、目が覚めたあとに体が覚えているような感覚だ。まるで夢の中の出来事が、自分自身の体験だったかのように。以前はぼんやりとした夢だったのに、何度も見る夢だからかな・・・。
倉庫に向かうと、ニスタがひとりでパラシュートの点検をしていた。固くて丈夫な厚手の布と安全装置を連動させる金具を外して、安全装置の細かい部分に油を注いでいる。ニスタの凄いところは、こういうところだと思う。飛行機の機体だけでなく、その装備品など隅々までしっかりと安全確認をする。全体にまんべんなく注意が行き届いているんだ。
パラシュートは、飛行機が空の上で何らかのトラブルに見舞われたときに使う。例えば、エンジンが正常に動かなかったり、梶の操作が効かなかったり、そういう時、パラシュートを広げて飛行機から飛び降りると、人間の落下速度がとてもゆっくりになって墜落死を免れられる、というわけ。ニスタのパラシュートは、飛行機に乗る時に装着しておいて、いざというときは片手でベルトを引っ張るだけで動作する安心設計だ。
ニスタの、安全へのこだわりは並々ならぬものがあった。安全でなければ飛ぶ意味はない、とまで言った。こんなニスタだから、彼の飛行機には安心して乗ることができる。
点検中のニスタに声をかけると、なぜかいつもと雰囲気が違う気がした。うまく言葉にできないけど、テスト飛行をライツさんに見せるから緊張してるのかな。次のテスト飛行までは、こういった点検作業を続けていくそうだ。ニスタは、作業は一人でいいから気象予報士としての研究をしてくれって。人手が要るときは声をかけるというので、僕はひとり家に戻った。
僕にもできることがあるということは、とても嬉しかった。気象学を極めて一人前の気象予報士になって、二人の役に立つこと。そんな目標を自分の中で立てて、これからどうやって研究を進めていくか計画を立てた。
まず始めたのは、気温の計測、空の様子や雲の形の記録、そして風が運んでくる僕自身の感覚の記録。これを一定の時間ごとに行う。全ての関連性を統計できるようにすることが目的だ。これは毎日継続することが大切。そうすることで初めて役に立つ資料になる。
三日ほど経った時、ヴィーナが気象学の資料をたくさん持ってきた。この三日間は、僕のために時間を費やしてくれた。
〝これ〟と決めたら、気がすむまでその事を深く掘り下げていくニスタに対して、ヴィーナはもっと視野を広げて関連する物事にも興味を持って行動を起こす。二人違う気質だけど、だからこそ相性がバッチリ合っているのだと思う。
聞けば、ライツさんも資料集めに協力してくれたとのこと。頑張らなくちゃ。その日から僕は、資料の解読と天気の記録で大忙し。わからない言葉はすぐにヴィーナに聞いた。世界にはこんな難しい学問を研究している人もいるんだな。世界ってすごいな。僕も、必ず修得してみせる。
ライツさんの訪問から一週間。また仕切り直しのテスト飛行という日の前日、ニスタが「ちょっと来てほしい」と僕を呼びに来た。倉庫に行くと、入り口の外まで飛行機が押し出されていた。ヴィーナもいる。ニスタがヴィーナに言った。
「ヴィーナ、明日に向けて、今日はエンジンの点検をしたいんだ」
ヴィーナは、その言葉の意味がわかったようで、了解! という雰囲気で、飛行機の機体に足をかけて上まで登り、体を操縦席にすっぽり沈めた。そこから僕に話しかける。
「アルテス、これ」
あの時のペンダントを手にしてる。
「操縦席の操作盤のところに、ペンダントを差し込む穴があるから。あたしのペンダントの隣に、あなたのも差し込んで!」
ヴィーナが操縦席から降りたあと、僕が登って、操縦席に座る。首からペンダントをはずして、ヴィーナが差し込んだペンダントの隣に自分のペンダントを差し込んだ。
僕が操縦席から降り始めると、ヴィーナが説明を続けた。
「三つのペンダントを操作盤に差すと、エンジンが動くしくみになってるの」
「じゃ、エンジンを動かせるのは三人が揃ってるときだけだね」
僕たちの会話を聞きながら、今度はニスタが登っていく。
「そうね。まさに三人だけの飛行機、って感じでしょ?」
僕が頷くと、ニスタが操縦席でペンダントを右手で上げて「いくぞ」と言った。
次の瞬間、飛行機はカタカタと音を立てはじめ、その音はどんどん大きくなった。
少しの間、ニスタは計器をじっと見つめたあと、エンジンを止めた。
「ひとまず問題は無さそうだ。このペンダント、今日一日借りていい? 夕方、返すよ」
ヴィーナも僕も、頷いた。
「毎日きちんとやってるわね」
その夜、今日最後の気象記録を終えた僕に、ママがそう言ってテーブルの向かいに座った。
「ねぇママ。考えてみたら気象予報士ってさ、飛行計画だけでなくて、いろんな人の役に立つよね。例えば材木屋の旦那だって、先の天気がわかれば喜ぶし、漁師や農家や酪農家の人だってそうだよね。ヴィーナのパパの会社は造船業だから、そういう所でも役立てられるんじゃないかな」
「ええ。造船所は船を造る所だけど、そこで造られた船を買って運航計画を立てる人には役立つわねぇ。それに普通の街に住む人にだって役立つわよ。外出するときの天気は誰でも気になるわ」
「嬉しいな。僕、そんな人になりたいんだ。ニスタやヴィーナだけでなく、誰にでも分け隔てなく役立てるような人に」
ママの動きが止まって、驚いたような顔をしている。
「だって、四季は誰にでも平等にやってくるでしょ? 野山の花は誰が見て楽しんでもいいものだし、太陽や月の光だって、誰もがその恩恵を受けられる。自然ってすごいよ。僕も、将来そんな人になりたいんだ」
「アルテス、いつの間に・・・」
ママが両手で口元を覆った。少し目が潤んでいる。
「いつの間にか、そんな風に考えるようになってたのね。ママね、今とっても嬉しい」
「うん。こんな内気でどうしようもない僕にだって、できることがある」
「どうしようもなくないわ。アルテスなら、やり遂げられると思う」
「うん、がんばる。じゃあ今日のぶんは終わったからもう寝るよ」
「ええ・・・おやすみなさい」
「おやすみ、ママ」
ハシゴを登って、ベッドの上で仰向けになった。頭の中では、テスト飛行のことを考えていた。
いよいよ明日。今晩寝て、起きたら明日だ。でも気持ちがそわそわして、眠れるか心配だな。
窓枠を軽く叩く音がする。窓の外に目をやると、ニスタがいる。もう夜だよ! しかもここ二階なのに!
「どうしたの?」
「明日の明け方、晴れだよな」
「うん・・・」
「風は?」
「風も穏やかなはずだよ。僕の予想では」
「じゃ、決まりだ。明日の明け方、日の出と同時に決行しよう」
「え! ライツさんを待たなくていいの?」
「ああ。待たずに。しかもテストじゃなくて本番をやる」
「え・・・すごい! いよいよ飛ぶんだね!」
夜だから小さな声で叫んだけど、次はもっと息を潜めて言った。
「でも、どうしたの? 急に」
「だよな。そう思うよな」
ニスタが僕から目を逸らすような格好になる。
「・・・徴兵だ」
最初は意味がわからなかった。でも、ニスタ、戦争に行くの? そういうこと?
「軍隊に出頭するために、明日の昼頃には発たなきゃならない」
そんな、急な!
あ・・・最近ニスタの雰囲気が違って見えたのは、そのためか。
「だからその前に、やる」
「ヴィーナはこのことを?」
「いや、明日本番をやることはこれから伝えに行く。だけど徴兵のことはヴィーナには黙っててほしい」
「なんで!」
「とにかく三人で飛行を成功させよう。まずはそれだ。そしたらチームは解散。・・・俺だけの都合でごめん」
僕は握りこぶしを固くした。手に意識が集中して、口が勝手に動く。
「こんな平和な町にも、戦争はやってくる。戦争が生活を、まわりの全部を変えてくんだ」
「だな。・・・でも戦争があったから、君がここに越してきた」
「・・・」
「いや、戦争に賛成しようってわけじゃないよ。でもそれが事実だ」
それはそうだけど・・・。
「思えば俺たち三人がここにいることって、奇跡に近いんだよな。そう考えると俺、頑張ってきてよかったって実感してる。俺、十二の時に設計を始めてからずっと、脇目も振らずにやってきた。それで明日、やっと飛び立てる。もし一日でも気を緩める日があったら、明日、間に合ってないんだよ。君と、ヴィーナと、俺がいて、三人で空を飛べる日は明日だけ」
一瞬、夜空に無数の星々が広がったように思えた。太陽でさえもその中に小さく輝く一点の星、それくらいに広い空間。かなた遠い昔からの時間の流れを全て見渡したような不思議な感覚・・・。雄大な時の流れの中、三つの星がひとつに重なる。その一点だけがひときわ光り輝いたように見えた。
「徴兵は、悲観的になることはない。国を守りに行く、と思えば前向きになれるさ。君やヴィーナが住むこの国を守る」
「誰かが勝手に始めたケンカだよ? そもそも戦争が無ければ、守るも攻めるも無いんだ! やっぱりおかしいよ」
「アルテス・・・」
途端に、明日が来るのが怖くなった。でもニスタはもっと怖いに違いない。
「ごめん。辛いのはニスタのほうなのに」
ニスタ、いつまでも僕の兄貴でいてほしいんだ。
二人を包む時間が流れていく。その流れは、風よりも正確で、容赦ない。
「今夜は星が多いな。綺麗だな」
ニスタの言葉には、答えなかった。
月の輝く夜空に、ふたつの妖精の影が舞っています。その輪郭を月の光に型取られ、白い蛍のようにほのかに輝きながら、地上に降りて来ました。
「お月様は、どんなご様子だったの? お兄様」
「ああ、これから何日かは、おだやかな夜が続くだろうって、安心していらっしゃったよ」
「お月様の、お声の様子は? お姉様」
「いつものようにとても澄んだ声で、私を包み込むようにお話してくださるわ」
二人の妖精の両足が地に着くのを待ちきれずに、質問したのは羽根の無い妖精でした。次に彼は、こんなふうに切りだしました。
「あの、僕、ここで待っている間、考えたんだ」
「ん?」
「一度でいいから、三人揃ってお月様のおそばまで飛んで行きたい」
その気持ちは王宮の誰もが知っていましたし、兄弟三人の願いでもありました。
「それで・・・こんな方法ならどうかな。お兄様とお姉様が僕の手を引いて一緒に飛び上がるんだよ」
「そんな! あなたの体を私たち二人で? とても無理だわ」
「やってみなきゃわからないよ。それに、僕の体が少しでも軽くなるように、風の精に風を吹かせてくれるようお願いしたんだ」
「君は風の精と仲がいいんだったな。それでも難しいだろうな。やってみてもいいけど、怪我をするかもしれないぞ」
「うん、それでもやってみたい。もし僕が重すぎたら、すぐに地面に降ろしてくれればいいから」
「そうか。そこまで言うならわかった。もし成功すれば、亡き母上も喜んでくださるかもしれないしね。ただし、試すのは一度だけだぞ」
三人は、宮殿の庭の中で一番背の高い、大きな木のてっぺんで手をつなぎました。
「じゃ、いくぞ。せーの!」
「飛んだ!」
タイミングに合わせて、強い風も下から吹き上げましたが、三人が飛んだのはほんの少しの間だけでした。
「重たいっ!」
「手を離すな!」
「もうダメ!」
「うわぁ~」
あああ~!
・・・ハッ。夢・・・!
なんで今日に限って、空から〝落ちる〟夢なんだ。今日は初飛行だっていうのに! あの落ちる感覚。まるで自分の体が落下したような・・・。思い出すと背中がゾクッとする。夢のことは忘れよう。そうだ、夢は夢だ。
まだ太陽が昇る前。ハシゴを降りると、もうママは起きていた。
「ママおはよう。今日、これから飛ぶことになったんだ」
「そう、いよいよ今日なのね。パンを切るから、スープをあっためてちょうだい。お腹をすかせてると、力が出ないわ」
「うん」
ママはパンを切りながら僕に言った。
「昨日の晩、ニスタがやってきたでしょ?
・・・ごめんね、会話、聞こえちゃったのよ」
僕は改めて、ニスタが今日いなくなってしまうことを自分の中の自分に言い聞かせた気分になった。
「うん、どうせわかっちゃうことだから。でもヴィーナには言うなって。なぜかな」
「ニスタがそうしたいなら、そうさせてあげましょ。ヴィーナとライツさんを見送ってから発つつもりでしょう」
このとき僕は全然気づいていなかったけど、ニスタはヴィーナを気遣ったんだ。ヴィーナのお父さんは造船業をやっているから、戦争のための船なんかも造っているはず。ニスタが戦地へ行くことをヴィーナが知れば、ヴィーナは戦争を恨んで、さらにはお父さんの仕事さえも恨んで、またお父さんとの関係がこじれるかもしれない。
そんなニスタの気持ちを、ママはお見通しだったに違いない。
「そうだ、ママも飛行を見に来てよ」
「ありがとう。でも飛行はあなたたち三人だけでやってらっしゃい。飛行が終わったら、ニスタとヴィーナに今までのお礼を言いに行くわ」
この時、ママはとても悲しい目をしていた。最初はニスタがいなくなることが淋しいのかと思った。でも悲しいのは目だけで、顔は笑顔だったから不思議に思った。
ずっと後になって、その訳を聞いてみたことがある。そしたら、こう言ってた。「ニスタとヴィーナが去ってしまったらきっと、あなたは大人へと成長する、って思ったの。一段も二段も成長した姿が目に浮かんで、嬉しいのと同時に、〝こんなに純粋な眼差しを私に向けてくれるのは今日が最後かもしれない〟と思うと、とてもとても淋しくなって・・・だから、そんな悲しい目をしていたんだと思うわ」そんなふうにママは話した。
朝食を済ませて、倉庫に向かった。
これから飛ばすんだという意気込みのためか、三人は「おはよ」と言ったきり、ほとんど無言で機体を運んだ。ふたつの羽根をまっすぐに伸ばして、今にも飛び立とうと胸を張る機体を。
そして僕たちは今、丘の上にいる。
白い月が浮かんでる。空はまだ暗いけど、もうすぐ夜が明ける。晴れ。おだやかな風。飛行するにはもってこいの気象条件。
「いよいよだ」
「いよいよね」
「うん」
ヴィーナと僕は、ニスタにペンダントを渡した。
「じゃ、俺が操縦席。後ろの席にアルテス、君が乗って」
「え! どうして? ヴィーナが乗らなきゃ。僕はここで見てるよ」
「何を言ってるの、あなたを一番に乗せるために、ここまでやって来たんだから」
「僕を?」
混乱している僕を尻目に、ニスタは操縦席に飛び乗り、機械のチェックをはじめた。
「そうよ。お月様がね、心優しい妖精さんの声を早く聞きたいんですって」
「?」
僕はヴィーナに尻を押され、操縦席後ろの座席に体をうずめた。ベルトをしっかり閉めるようにとニスタが言うと、プロペラという部品が音を立てて回り始めた。ついに機械が動き始めたんだ。大きな音が鳴り渡るなか、ニスタが後ろを向いた。
「あの時は悪かったな、手を離しちまって。でも今日は絶対に大丈夫だから」
「あの時? ・・・え?」
むかしむかし。
羽根を持たない月の精がいました。
飛べない彼は、
地上からではお月様の声を聞く事ができませんでした。
後ろからヴィーナが叫ぶ。
「すぐに思い出すわ。まだほんの数千年前の話よ」
「ああ! すぐにな」
ニスタも叫んで返す。
だけどいつかお話できるときが来たら何を話そうかと、
いつも考えていました。
曇りの日には、雲の精にお願いしました。
「雲さん、
お月様のまわりの雲を
少しだけよけてくれませんか?
そうすればお月様がよく見えるから」
雨が降ったあとには、雨の精にお願いしました。
「水たまりさん、
泥で濁らないように透き通っていてね、
そうすればお月様が綺麗に映るから」
そうやって、いつもお月様の事を考えていました。
ニスタが僕だけにつぶやく。
「あの時、誓ったんだ。いつか必ず一緒に飛ぶって」
・・・! あの時って、まさか夢の中のあの時?
僕は頭が混乱してしまいそうだ。
ヴィーナがもう一度叫ぶ。
「じゃ、機体を押すよー!」
「よし、頼む! 行くぞ!」
空に浮かぶお月様も、
その心優しい妖精とお話ができる日が来ることを、
いつまでも楽しみに待っていたのでした。
丘のずっと向こうの山の斜面が太陽の光でうっすらと明るくなっているのに気づき、その美しさに僕は、知らず知らず力が入っていた肩をゆるめた。その瞬間、スッと下から体を持ち上げられるような感覚。飛んだ! 飛んだんだ! ヴィーナの姿がみるみる小さくなる。倉庫もどんどん小さくなっていく。隣の家の中に、ママが何かを祈る姿が見えた気がした。
ニスタが叫ぶ。
「下の景色を見るのもいいけど、上もしっかり見ておきなよ」
見上げると、そこには今まで見た事もない大きさの、白く輝くお月様が浮かんでいる。なんて綺麗な! ・・・これは夢? いや、一瞬視界がにじんだのは、知らず潤んだ涙のせいだ。でもこの感じは何だろう。ずっと願い続けてきた希望が叶ったような・・・それは確かに正しいのだけど、そうじゃなくてもっともっと胸の深いところにある願い・・・。
機体が風を切り、ぐんぐんとお月様の姿が大きくなると、自分でも気づかないうちに「おーい!」と自然に声が出た。
そして続けた。ずっとずっと昔、そうしたように。
「あのね、お月様・・・!」
・・・数千年前・・・
「痛っ!・・・」
羽根を持たない妖精は、空から落ちて、体を地面に叩きつけられました。体重の軽い妖精と言えど、とても痛かったに違いありません。兄のニニスタと姉のヴィヴィナが心配して飛んできましたが、アルルテスは目を開けず、失神してしまったように見えます。
「おい、アルルテス。おい」
「心配だわ・・・。私、サニャに知らせてくる。お医者様も連れてくるわ」
「ああ。たのむ」
ニニスタの声は少し震えています。ヴィヴィナが走り去ると、アルルテスは目を開きました。ですがその視線はぼんやりとしていて、空を見つめています。ニニスタがその視界に入るように、自分の顔を持っていきました。
「おい」
「ん・・・う・・・お兄様。ありがとう」
「何を言ってる。こんな危険なことになってしまって、ごめん」
「いや。そうじゃなくて」
「ん?」
「羽根の話。僕に作ってくれた」
「アルルテス」
うつろな目で話すアルルテスのほっぺたを、ニニスタがピタピタと軽く叩きました。頭を打って、少しおかしくなったのかと思ったのです。
「はは。本当だよ」アルルテスがゆっくりと上半身を起こします。「今頃空を飛んでるはずさ。お月様のそばまで」
「どういうことだ?」
「僕、頭を打って、気を失って、夢を見たんだ。とてもとても長い夢だった。そこには、未来の世界があった。今から何千年も未来の世界」
「未来・・・?」
「うん。未来にも、お兄様とお姉様の魂が生き続けてた。そしてお兄様は、僕のために機械の翼を作ってくれたんだよ」
「キカイ? キカイって何だ? 翼を、作る?」
「うん。でも惜しかったな、今日はその記念すべき初飛行なのに、僕は夢から覚めちゃったから・・・」
初飛行のあとには、大好きな二人との別れが待っていることを、アルルテスは思い出しました。
「仕方ない、お月様の声を聞くのは数千年後の楽しみにとっておくことにする」
そこへ、ヴィヴィナがサニャとお医者様を連れて走ってくるのが見えました。ニニスタはまだキツネにつままれたような顔をしています。
「ふふ。じゃあ続きはお姉様にも、一緒に話すよ。少し長くなるよ、なにせ六ヶ月分の思い出話だから」
走ってきたサニャが、そのままアルルテスに抱きつきました。お医者様はテキパキと診察の準備をはじめています。ニニスタがヴィヴィナに歩み寄り、肩を抱きました。きっと、さっきの夢の話を耳打ちしているに違いありません。アルルテスは、サニャに言いました。
「サニャ、心配かけてごめん。もう危険な真似はしないから。僕、わかったんだ。僕にもできることがある、それが何か。羽根が無いからこそ、気づけた。・・・全部、お兄様とお姉様のおかげだよ」
サニャの眉が大きく上がって、次に嬉しそうに目を細めました。
「お話しするのは何もお月様だけじゃない。僕は月の精としていろんな妖精に話しかけるよ。そうやって地上からお月様の輝きを守る方法もあるんだ。自然は全部つながってるんだもの。雲の精や雨の精はもちろん、草や花の精たち、それに雪の精にも、それから・・・」
サニャの目尻が涙で潤んでキラキラと輝いて見えました。両手でアルルテスの手を握り、視線を空へ向けるサニャ。風を確かめたのです。今のアルルテスの言葉を、風に聞いていてほしかった。シシルナに。きっと、きっと聞こえていたでしょう。
・・・数千年後・・・
飛行機から降りた僕を、ヴィーナは質問攻めにした。お月様の声は聞こえたか、昔を思い出したか、羽根が生えた気分だったか、と。僕は「どれから答えたらいいの?」と笑っていると、ニスタがエンジン音の向こうから叫んだ。
「次はヴィーナの番だぞ、早く!」
二人を乗せた飛行機は、僕の目の前で大きな音を立てて再び飛び立った。ぐんぐんと高度を上げて小さくなっていく。太陽に照らされて、透き通るように佇むお月様。ひらひら揺れる飛行機は、まるでお月様と戯れているみたい。僕もさっきまで、あんなふうにお話できてたんだな。思い返して、その感動を胸に閉じ込める。飛行機が、またぐんと小さくなる。
・・・?
あれ? あれは! 大空の真ん中に、大きな大きな、とても大きなスカーフが突然現れた。パラシュートだ。パラシュートがひとつだけ、ゆっくりと落ちてくる。僕は、パラシュートを追って、その落下点を目指して走った。ヴィーナだ。ヴィーナが大きな布にくるまりながら、地上に転がり落ちた。
「大丈夫? ヴィーナ!」
ヴィーナは、すぐに立ち上がって空を見上げた。落下の衝撃はさほどでもなさそうだ。
「何かあったの? ニスタは?」
僕もヴィーナを真似て空を見上げたけど、飛行機は見えない。
「ニスタは・・・」
心配そうに空を眺めるヴィーナの顔に、僕は視線を移した。
「行けるところまで飛んでみたくなった、って」
僕に向けたヴィーナの顔は、笑おうとして笑いきれず、口の端だけが少し上がった。僕は驚いて、もう一度空を見上げた。驚いたけど、なぜかな、ニスタの気持ちがわかるような気がした。それを試せるのは今しかないんだもん。
さっきまであんなにエンジン音がしてたのに、今は静まり返った空を、二人でじっと見つめる。どこまで高い空を飛んでるんだろう。うっすらと広がる雲の上の方を見つめたまま、僕はつぶやいた。
「僕ね、赤髪に生まれてよかった」
突然の告白に、ヴィーナが目を丸くして、こっちを見たのがわかった。
実は、僕が最初に夜を好きになったのは、月の下だと僕の髪が赤く見えなかったから。恥ずかしかったんだ、他の人は綺麗な栗色をしてるのに、僕だけ赤い髪なのが。月の光は、それを隠してくれた。僕をやさしく包んでくれた。
「赤髪だから、夜を好きになって、お月様を好きになって、飛ぶことに憧れた。今ここにいるのは、そのおかげ。だから、よかった」
心地よい風が吹いた。
ヴィーナは何も言わずに、右腕で僕の頭を抱き寄せて、髪をクシャクシャにした。笑顔だ。二人はずっと、空を見つめて、ニスタの帰りを待った。
おわり
<他のストーリーへのリンク>
https://note.com/kuukanshoko/n/n4251357b90d3