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『月の妖精』 中編


 王宮の三つ子は、産まれて数週間のうちにサナギになり、長い長い眠りのあとに男の子が、そして次に女の子が大人の姿へとふ化しました。華奢な体に透きとおった羽根。人間の背中にモンシロチョウの羽根が生えたような、とても幻想的な姿です。だけど心配なことに、ふ化したのは二人だけ。三人目の赤いサナギは待てど暮らせど、サナギの姿で眠ったままでした。
 長男の男の子が赤いサナギの様子を伺っています。その姿をシシルナが見かけて声をかけました。
「母上様、このサナギ、いつまで眠ってるつもりなんだろう。もう、ふ化しないなんてことないよね」
「お医者様は、大丈夫とおっしゃってくださっているの。じっと見守りましょう。サナギに耳をくっつけてみてごらんなさい、『早く遊びたいよ』って元気よく鼓動を打っているわ」
「・・・うん。そうだね。でも三人揃わないから、僕たちコイツのおかげで半人前だ」
「そんなふうに考えないで。この子に悪気は無いの。それにあなたはもうしっかりやってる。毎晩、お月様のそばでその声を聞いているでしょう?」
「本当は三人で聞きたいんだ。王宮のみんなも、僕らのことを気にしてる」
 いじけてしまったのか、下向き加減になる男の子。シシルナは男の子の顔が見えるように自分の姿勢を変えて、優しく続けました。
「こう考えてごらんなさい。・・・羽根の妖精の運命は知っているわね? 子供を産んだ妖精は、その子供がサナギからふ化すると・・・」
「死んでしまうんでしょ。母上様も・・・死んでしまうの?」
「そう。私も例外ではありません。でも、この赤いサナギがふ化しないから、私は心配で天に還ることができないのです。この赤い子は、あなたと私が一緒にいられる時間を長くしてくれているのかもしれない。だから、この子を悪いようには言わないで」
 男の子が言葉の意味を理解しようと、一生懸命に聞いています。
「私が死んだら、あなたは長男として、この子を気遣ってあげてほしい。あなたはしっかり者だから、きっとできるわ。あなたたちは色や性別が違っても、兄弟なのです。いつまでも三人、協力しながら生きていくのですよ」

 協力しながら生きていくのですよ。

 またこの夢だ。
 木枠の小窓から頭を出して、空に月を探す。
 ・・・あった。
 この夢を見たときは、いつも空に月が浮かんでる。朝、太陽が昇っていても、空に月がある。逆に言うと、曇った日や雨の日には、この夢は見ない。
 いや。そもそも月は毎日出るものだし、やっぱり僕が見る夢とは関係無いのかな。
 ん? この風。この懐かしい感じは何だろう。僕は、小窓から出した顔に吹く風がいつもと違うことに気がついた。これは・・・そうだ!

 ベッド脇に用意しておいた洋服に着替えて、僕はクジラ倉庫に向かった。家を飛び出し、庭の脇に立っている膝丈くらいの柵を軽々と跨いで、隣の家の敷地へ。土を蹴る音が耳に届く。走りながらクジラの皮膚を指先で触ると、空気よりも冷たかった。倉庫の表に回り込んで、少し重たい引き戸を開ける。銀色の工具を持って何かをしていたニスタが、顔を上げた。
「ニスタ! 今日ね、雪が降るよ」
 風が教えてくれた。
「アルテス得意の天気予報か。雪っていうのは初めてだな」
「うん。夕方か、夜くらいには降ってくると思う」
 引き戸を両手で閉めて、倉庫の中に入った。
「いよいよ寒くなるな。・・・でも、雪の精霊は健在ってことだ。嬉しいよ」
「雪の精霊?」
「ああ。自然界には、たくさんの精霊がいる。アルテスだって、風の精霊と友達じゃないか」
 風の、精霊・・・。
「草も木も、雪も風も、俺たちの知らないところで、その命を鎖すまいとがんばってる。ずっと大昔からね。こいつにも・・・」ニスタが飛行機に使う木材に手をあてた。「ありがとう、って気持ちで接しなきゃな」

 その日の薪割りは、いつもと違った。「ありがとう」という気持ちで、薪を割った。人間が暖をとるために薪を割る。誰だって、薪を焼べて暖まることができる。薪は人を選ばない。考えてみれば、自然のものは全部そう。雪は人を選り好みしないし、冬は全ての人に平等に訪れる。まるでニスタとヴィーナみたい。二人は、僕みたいな内気で、いつも空想にふけっているような男の子にも、分け隔てなく明るく接してくれる。僕は、次の薪を割るとき、ニスタとヴィーナにも「ありがとう」と言った。
 でも。
 確かに嬉しいけど、僕は二人に何かしてあげられてるのかな。
 飛行機作りだって、僕はあたふた動き回るばかりで、どれだけ手助けになっているかはわからない。・・・何か役に立ちたい。二人のために。
 僕は今日最後の薪を縄で縛った。それを薪置き場まで運び、山積みになった他の薪の束に重ねる。木と木がぶつかる乾いた音が「今日もご苦労さん」と言ったように聞こえ、耳に心地良い。材木を置いておくためだけの簡易的な建物を出ると、空を覆う雲は地上に降りてきそうなほど厚く見えた。
「今日はずいぶんゆっくりだったな。べつに構わんが」
 材木屋の旦那が、筋肉質な両腕を大きく振りながらやってきた。ボサボサの髪の毛が風に揺れている。
「うん。ちょっと今日は丁寧にやったから」
「なあに、薪なんてのは割れてりゃいいのさ。どうせ燃やしちまうんだから」
 大声でそう言いながら、僕に今日のお駄賃を手渡した。
「それより旦那さん、今日は雪が降るよ。湿気に気をつけて」
「雪だって? どうも雲行きが怪しいと思ったら、そういう訳か」空を見上げる。「薪に布をもう一枚かけておくかぁ。湿った薪を客に売るわけにはいかねえからな」
 何かを考えるように手をアゴにあてて、旦那さんがこっちを見た。
「・・・なんでわかるんだ?」

 その夜、今年はじめての雪が降った。雪の一粒一粒は小さくて軽くて、ふんわりゆっくりと空から落ちてきた。まるで空から落ちてくるのを雪が楽しんでいるみたい。
 僕は雪の気持ちになってみた。高い高い空の上、大きな大きな夜の雲があまりの寒さに身震いすると、はじけ飛ばされる雪の粒たち。キラキラ光る星の明かりにさよならして灰色の大空へ。地上を眺めると、やがて広がる大草原。小さな家と大きな倉庫が見えてきて、だんだん地面が近づいてくる。そしてゆらゆらくるくる、僕の目の前を通り過ぎて、最後には僕の足元に。・・・地面に染み込む。
 僕は少し淋しくなった。雪の一生って短い。空から落ちてきたら、地面に吸い込まれておしまい。
 僕は右の手のひらを、降ってくる雪の中に差し出した。雪の粒が手のひらの上で水になる。・・・水に。
 あ!
 僕は左手も合わせて、両手で落ちてくる雪を受け止めた。ひとつずつ、落ちては水になっていく。
 土に染み込んで終わりじゃなかった! 雪は水になって、地面の下の旅に出る。木の根に吸われるものもいれば、井戸の水になるものも。川になって海に出るものもいる。木の根に吸われれば、いずれ綺麗な花を咲かせるかもしれない。それは人々の目を楽しませるかもしれないし、蜂のために蜜を作ってあげるのかもしれない。大木になれば、人々のためにその身を捧げて薪になるものもいるだろう。
 雪ってすごいな。自然ってすごい。いろんな旅をするんだ。そしてどの旅も、人間の元に辿り着くじゃないか。不思議だ。人間と自然は、つながってる。
 この土地に来て、僕はニスタとヴィーナに出会った。優しくて、しっかりとした強さがあって、賢い、そんな二人と毎日旅をして、最後には僕もいつか誰かのためになりたいな。
 僕はもう一度、寒さに震える雲を見上げた。

 半月が経った頃、雪は本格的になった。今度はすぐに地面に染み込まず、少しずつ土や石や草を白くした。いつしか、家も倉庫も、丘も、遠くの山も、どこを向いても雲の中にいるような白の景色を作っていった。風が無いからとても静かで、知らない世界に来たみたい。この国のどこかで戦争をしているなんて、嘘のように思えた。

 僕らの冬が、またたく間に通り過ぎる。

 土も石も、草も木も、雪で白くなっていた景色たちが、顔を洗ったあとのようにサッパリとした表情に変わったころ、ニスタが僕に「ペンダント大切に持ってる?」と言ったのを聞いて、飛行機の完成は間近なのだと悟った。

 暗い。
 そしてバリバリと音がする。僕の身体から。
 僕は背伸びをしたいのに、何かが体じゅうを覆うように巻きついていて、思うように手足を動かすことが出来ない。
 思い切って力を込めると、背中の方でバリッと大きな音がした。これでいい・・・僕は本能的にそう思った。体の締め付けがずいぶん楽になったのだ。僕は背中を丸めるようにしながら、手と足を徐々に伸ばしてみた。
 気持ちいい。体じゅうの皮膚が剥がれ落ちて、生まれ変わった気分。

「うはぁーあ」
 ・・・あ。なんだか僕、ウトウトしちゃったみたい。夢見てたのかなぁ。
「疲れてるんじゃないの? 今日は早く寝ないと」
 ママが井戸水で夕飯の食器を洗っている。
「明日はテスト飛行なんでしょう?」
 そうだ。明日はテスト飛行。テスト飛行では機体を空高くは飛ばさず、低空飛行でエンジンや梶の調子を確認する。あの機体が飛ぶ日が、本当にやってくるなんて!
 みんなの出会いから半年。
 この家にも住み慣れたもの。ママは食器の片付けを済ませると、昔を思い出すように微笑みながら、テーブルの僕の向かいの椅子を引いた。
「あれから半年になるのよね。引っ越しの日、あなたとっても興奮しながら帰ってきたわ。おしゃべりが止まらなかったもの。ここに越してきてよかった、と思った。安心したわ」
「だって、あんな大発明がお隣の倉庫にあるなんて。誰だって興奮だよ」
「ニスタには感謝してる。あなたの良き兄貴分になってくれたから・・・。ヴィーナも、お勉強たくさん教えてくれたわね」
 ママはこうやっていつも僕の心配をしてる。僕を受け止めてくれる。だからついつい不安な気持ちや心配事を打ち明けてしまう。本当はママに心配かけたくないのに。

「最近思うんだけど・・・」
 飛行機が飛ぶ喜びとは裏腹に、その完成が近づくにつれて大きくなる別の感情が、ふいに口から漏れはじめた。僕の声のトーンが下がったことが、ママにはわかったみたい。溶けて短くなったロウソクの灯りに、ママの視線が揺れる。
「ニスタもヴィーナも、すっごく才能があって、努力家で、自分たちの目標に向かって走ってる。僕も少しでも力になりたくて、いつもお手伝いしてるけど、僕ができることなんて本当に少しだけで・・・。飛行機が完成に近づくほどにそういう思いは強くなってきて。同じ〝空を飛びたい〟って夢を持ってるのに、もっと力になりたいのに・・・」
 ママが僕の目の前に手を伸ばして、テーブルの上に三本の指を立てた。人差指、中指、薬指のみっつが塔のように立っている。そしてこう言った。
「三本だと安定するわね、二本よりもずっと」
 ・・・!
「ママはそう思う。あなたがいたからこそできたこともあったはずよ、どんな小さなことでもね。・・・でもやっぱりママは側で見てきただけだから、一緒にやってきた二人にあなたのその想いを伝えてみたら? 明日にでも。二人ならきっとしっかり受け止めてくれる」
 胸が、あったかくなった。その温もりは僕の体じゅうに染み渡って、今までかじかんでいた指先までもが楽になった気分。
「うん。そうする」ちょっとだけ笑顔で返事できた。「ありがと」
 ママがママでよかった。いつでも僕の味方だ。
 僕はおやすみのあいさつをして、屋根裏部屋へ上がった。

 部屋の小窓から外の景色を覗く。僕の好きな夜の景色。星たちの明かり。そして心落ち着かせてくれる微かな風。本当にいよいよ明日だ。早く寝なきゃ。僕は夜の景色にもおやすみを言って、藁のベッドに体を横たえ目を閉じた。

「王様、お知らせがございます」
 使いの者が走ってきて、ひざまずきました。
「どうした」
「はい。あの赤いサナギですが」
「む? ふ化したのか?」
 王様が驚くのも、仕方ありません。子供がサナギになってから、とても長い時間が過ぎていたのです。
「では、ようやく月の精三人が揃ったか」
「はい、ですが王様・・・」
「なんだ、言ってみよ」
「あの子には、羽根が、ありません」
「なに・・・! 羽根がない、と?」
 王様はすぐに、シシルナの元に向かいました。宮中を歩く王様のそのお顔には、焦りと危惧の念が現れていました。

 羽根の妖精は若くして寿命を迎えます。シシルナも例外ではありません。子供を産んだ妖精は、子供がサナギからふ化するのを見守ると、そっと息をひきとるのです。シシルナは、静かにその時を待っていました。傍らには、羽根のない子の穏やかな寝顔があります。
「王様・・・」
「羽根の無い子だというではないか」
 王様は、挨拶もせずに問いました。そしてそのままシシルナの脇に膝をつき、腰をかがめて子供の様子を伺います。その姿を見ながらシシルナが答えました。
「はい、王様。私は悲しくてなりません・・・この子の将来を案じて・・・」
「肌は透き通るように白く育ったか。髪だけが赤く残ったのだな。しかし、羽根が無く空高く飛べずして、どうやって月と会話するのだ。飛べなければ月の精としての役割を果たせぬ・・・」
「王様・・・」
 シシルナと視線が合い、その瞳が哀しい色を帯びていることに気づくと、王様は眉間に込めていた力を緩めました。同時に、一度大きく呼吸をして、落ち着いた心で言いました。
「我が子に対してこのような言葉しかかけられぬとは・・・そなたにとっては、つまらぬ夫であろう。しかし、この土地の自然を守ること、それがいつも頭にあってな。精霊の務めを我々が成すことができねば、大自然の連鎖は調和を乱し、人間界にも大きく影響してしまう。我々は多大な責務を負っているのだ」
「王様、お察し申し上げます。ですがこの子に罪はありません。この子はただ、生まれてきただけなのです。この屈託のない寝顔をご覧ください。どうか、他の二人と同じようにお育てください・・・」
 シシルナが何かに気づきました。
「王様、私にもお迎えが来たようです。そこに、もう星の精が来ています」
 王様も振り返り、星の精がそこに居るのを確かめました。そしてもう一度視線をシシルナに戻すと、彼女は何かを決意した目をしていました。
「王様、お願いがございます。私を・・・星の精ではなく、風の精の元に連れて行ってくださいませんか」
「なんということを。そなたは風となって・・・この子の生涯をそばで見守っていたい、そう願うのか」
「おっしゃるとおりでございます。なにとぞ、なにとぞ」

 風の精に抱かれながらその姿を消していくシシルナを見送ると、長年シシルナの身の回りのお世話をしてきた侍女のサニャは、とても悲しみました。シシルナの魂が星と輝く日は来ないのですから。しかし王様の次の言葉を聞くと、キッパリと悲しむのをやめ、乳母として三人目の子供も立派に育て上げることを決意したのです。
「思えば、ひとりでは成し遂げられないことを三人で協力せよ・・・三つ子で生まれたのは、そのような思し召しだったのかもしれぬ。ひとつの事を三人で成し遂げる・・・成し遂げた時の喜びは、ひとしおであろう。シシルナにこのように言ってやれなかったことが悔やまれる」

 三人の子育てを任されたサニャは、羽根の無い子供にこんなふうに言い聞かせました。
「あなたは、自分なりのやり方で、月の精を務めればよいのですよ、何も案ずることはありません」
「妖精で羽根が無いなんて恥ずかしいよ。空を飛べないし、お月様の側に行くこともできないんだ。だから僕は、地上からお月様に話しかけるばかり。・・・このままずっと、お月様の声を聞くことはできないのかな」
「お月様の声は、お兄様とお姉様が届けてくださるでしょう? 三人で協力すればよいではありませんか」
「うん、でも僕もおしゃべりしたいな」
「そうねぇ。そのためにはどうすればよいか、考えましょう。いつかきっと・・・かなえられるように」

 いつかきっと、かなえられるように。

「ハッ・・・」
 目が覚めて、シーツの下に敷きつめた藁の匂いで現実に戻る。やっぱりまたこの夢だ。木枠の窓越しに外を見てみる。もう明るい。けど月も白く浮かんでる。月が見せるこの夢・・・。あれ、もう空がこんなに明るい? いけない! こんな時間。
 ベッド脇にそろえてある洋服に着替えて、ハシゴを下りる。古い木がきしむ音が響くと、ママの声が飛んできた。
「アルテス! 起きたの? パンを切るから、スープをあっためてちょうだい」
「ママごめん、顔を洗ってすぐに出かけるから」
「そう慌てなくても、ニスタは逃げはしないでしょうに」

 僕は家を飛び出して、膝丈くらいの薄い板でできた庭の柵を越えて隣の敷地へ。家の裏手にあるクジラの倉庫に向かう。クジラの口は全開。飛行機は倉庫の扉の前までせり出され、勇壮なその姿を朝の日の光に晒していた。湾曲した金属の骨組みに、しなやかに打ち付けられた木の板。樹液を固めた塗料で覆われて、微かに光沢がある。本体は縦に細長く、横長の翼をつけていて、やっぱりトンボを大きくしたような見た目だ。人が乗る座席が縦にふたつ、トンボの背中のあたりにあり、トンボの頭と尻尾、そして左右の羽根の先の合計四カ所に、プロペラと呼ばれる機械が付いている。そのプロペラが高速で回り、空気をかき分けながら空の上を進む。
 準備中のニスタとヴィーナが、僕に手を上げる。ああ、いよいよこの機体を動かす日が来たんだ。

「まずは、コイツを丘の上まで押していく。そのために付けた車輪だ」
「うん、飛ぶ前に滑走しなきゃいけないから、飛び立つには広い場所がいいんだよね」
「そうだ。十分もかからず丘に着くだろ。ヴィーナも、準備はいいな?」
「うん。いよいよね、晴れてよかった」
「ああ。行こう」
 そのときだ。男の声が聞こえた。
「ようやく探しあてましたよ、ヴィーナお嬢様」
 僕たち三人は、一斉に声の方向を向いた。一人の紳士が立っている。髪は短く整えられ、ネクタイを締めてベストと背広というきちんとした格好。痩せた体型、歳は四十前後だろうか。その目つきは鋭くヴィーナに向けられている。ヴィーナはとても驚いている様子だ。
「町に宿を取っていないようなので、おかしいと思ったのですよ。まさかこんな田舎にいらっしゃるとは」紳士が一歩踏み出して続ける。「さあ、お父様がとても心配していらっしゃいます。私と一緒に帰りましょう」
 ・・・!
 ヴィーナを連れ戻しに来たのか。
 ヴィーナは? ヴィーナの顔を見ると、真顔でキモの座った顔をしている。あの紳士と一緒に帰る気持ちは一切無さそうだ。それとも、もう逃げも隠れもできないから開きなおってる、ってことなのか。
 僕は叫びたかった。「ヴィーナを連れて帰らないで!」と。だって、飛行機の完成はもうすぐそこなんだ。ここまで三人でやってきたのに・・・。その気持ちが高ぶって、僕はとうとう声に出そうになった。
「あの・・・!」
「アルテス、」
 ほとんど同時にヴィーナもしゃべりはじめた。いや、瞬間的な判断で僕を制したのかもしれない。
「ニスタ、二人に紹介するわ。あたしのパパの・・・有能な右腕、ライツさんよ」
 紳士が軽く会釈をした。そっけない会釈だ。ヴィーナは次に僕たちの紹介をしたけど、彼に対して別に友好的な態度ではない。
「ライツさん。で、パパは何て?」
 ヴィーナは腕を組んで、倉庫の入り口の柱に寄りかかった。
「お父様はただただ、ヴィーナお嬢様の身を案じてらっしゃいます。半年も家を空けるなど、それは心配なさって当然でしょう。しかも、お嬢様が研究していた設計図を持ち出しているご様子ですから、どこかの危険な人物と関わりを持ってやしまいか、でなければ、どこかのご友人と世紀の発明だの何だのとママゴトでも始めてやしまいか、しかと確認してくるよう私に命ぜられたのです」
 なんだか、イヤな言い方だな。
「これが・・・ママゴトに見える?」
 ヴィーナが、そのまま肘で左腕だけを立てると、飛行機を指差した。
「先ほどから気にはなっていましたが、これは、何ですかな?」
「これは、飛行機だよ」
 僕が割って入った。
「ほぉ・・・これが! ・・・噂に聞く飛行機ですか」
 紳士のこの反応を見ると、ニスタが一歩前に出た。
「ライツさん、こうしませんか? ちょうどこれから、こいつをテスト飛行させるところだったんです。その様子を見ていただければ、俺たちが本気だってことがわかってもらえると思います。そうしたら、ヴィーナをあと少しだけ、ここに置いてもらえませんか」
「ふ。ずいぶん一方的な提案ですな」
「お願いします。本当にもうすぐ完成なんです」
 僕も真剣に頭を下げた。
「待て待て待て。・・・まずはそのテスト飛行とやらを見せてもらうとしましょ」
 その投げやりな口調とは裏腹に、ライツさんはとても飛行機に興味があるように思えた。だってさっきからずっと、飛行機から目を離さないんだもの。
「ただしそれが終わったら、ヴィーナお嬢様には一旦帰っていただきますよ。そしてお父様ときちんと話し合うことですな」
 きっぱりとしたその言葉に、ヴィーナが息を飲んでいる。ライツさんが続けた。今度は口調が柔らかくなった。
「なぁに、一度きちんと話し合えば済むことではないですか。もしまた戻って来たいなら、私も口添えしますよ」
 ヴィーナが、ニスタと視線を交わす。しばらく考えたあと僕の顔を見ると、仕方ない、という表情になって頷いた。
「もしもテスト飛行とやらが茶番だとわかれば、私の口添えは無しですぞ。さあさあ、見せてもらいましょ」
「わかったわ」
 ヴィーナが気を取り直して「やりましょ」と僕らに言った。それでその場の空気も元に戻って、気分は前向きになった。
 三人の計画に思いもよらない出来事が割って入ったけど、このテスト飛行を見ればライツさんも驚くに違いない。きっとヴィーナに口添えしてくれる。そして本番の飛行は、ヴィーナが戻ってきてから絶対に三人揃ってやりたい。
「よし、じゃ予定どおり行こう、さっきの続きだ。二人とも機体を運ぶぞ」
 ニスタが改めて指示したそのとき、僕は何かを感じた。・・・風だ。少しだけ倉庫の柱をギシギシときしませる。なんの変哲もない風に思えた。でもこれは・・・。
「ヴィーナは中央に付けた縄を引いて。アルテスと俺は、車輪を片方ずつ押していく。・・・ん? アルテスどうした?」
 僕はニスタに視線だけを送り、遠い空に耳を澄ませた。そして肌の感覚に集中する。これは・・・この感覚、そうだ、この風はただの風じゃない。きっと突然の雨や雷を連れてくる、そんな風だ。僕の脳裏に、物凄い勢いで空を駆けてくる黒い雲のイメージが浮かぶ。こんな大切なことに今頃気づくなんて。
 僕は空を見上げた。いや、でも、こんなに晴れてるのに、こんなに天気がいいのに何考えてるんだ? 僕。それに、テスト飛行をやめるわけにはいかない。今やらなきゃライツさんが・・・。
「ごめん。何でもないよ。行こう」
 ニスタとヴィーナは顔を見合わせた。
「ね、アルテス、何かあるなら言ってくれなきゃわかんないわ」
「うん、でも・・・」
 もう一度、空を見上げる。穏やかな空だ。やっぱり言い出せない。何か言おうとすると、体の中心から力が奪われたように、緊張して喉が震えてしまう。すると、ヴィーナが僕の様子に気づいて声を上げた。
「もしかして! ・・・風? 風が気になるの?」
 そう言ってくれたヴィーナに、ようやく僕は感じたことを正直に打ち明けることかできた。ヴィーナもニスタも迷うこと無く僕を信じて、出発を少し遅らせようと言ってくれた。するとすかさずライツさんが・・・。
「おやおや、こんなに晴れているのに、天候を理由にテストを行なわないので? おかしいですな。お嬢様、悪あがきはせずにもう腹をくくってはいかがです?」
 二人ともごめん。せっかくのテスト飛行なのに、出ばなをくじいちゃった。そればかりか、ライツさんからはあんなふうに言われて。くやしいよ。
「一度だけ、子供たちを信じてくださいませんか?」
 ・・・ママの声! 振り返るとママがいた。
「お話に割り込んで、失礼いたします。私、アルテスの母でサニと申します。この子たちは、とても熱心に研究に取り組んでますの。テスト飛行は、まさにその集大成ですわ。第三者の私が勝手を申しますが、どうかこの子たちが、この子たちの計画で目標を達成するのを、見届けていただけないでしょうか」
「第三者だなんて・・・アルテスのママはいつもあたしたちのこと、見守ってくれてるわ。ライツさん、あたしが無事にここで生きてることをパパに月に一回でもお手紙するようにと助言くださったのは、サニママなの」
 そうなの? ママ、いつの間に。
「それは感謝いたします。その郵便物を逆にたどって、ここを突き止めることができたんですからな」
 大人が相手だと、ライツさんの口調がちょっと和らいだ気がする。こういう大人が子供を見下してるんだな。僕はずいぶんとご機嫌が悪い。
 ニスタが空を見ている。空に灰色の雲が広がってきた。あれから少ししか経ってないのに・・・。雲はみるみる空を黒く埋めていく。と思った瞬間、大きな音がした。空気を切り裂くような大きな音。
「雷?」
「降ってくるぞ! 急いで飛行機を中に入れよう」
 三人で機体を押す。後ろ向きに倉庫の中に戻されていく機体。少ししょんぼりしているように見えた。
 ごめんよ、でも君を守るだめだ、天気が良くなったらまた頼むよ。
 ヴィーナが空の様子を眺めてる。
「すごいわ、アルテス。あんなに晴れていたのに、一気に雨雲が広がった。アルテスが言ってくれなかったら、今頃あたしたち、丘の上よ・・・」
 そう言い終わると、倉庫の屋根に雨粒の音が響きはじめた。みんなで倉庫の中に駆け込む。
 本当に雷を連れてきた。雨も風も、どんどん強くなる。僕自身とても驚いたけど、でも二人の役に立てた! 僕はそれが嬉しかった。
 ヴィーナがライツさんに向き直った。嬉しくて笑顔になるのを我慢して、お澄まし顔で言う。
「ライツさん。悪天候のため、またの機会に確認に来てくださる?」
「そうですな。優秀な気象予報士もいるようで」ライツさんがため息をついた。「仕方ない。来週また出直しましょう。町に宿を取ります。お父様には手紙で詳細を報告しておきますぞ」
 やった! 僕は、二人の役に立てた気がして、とっても気分がよかった。それと、ママの助け舟に感謝。

 ママが「雨宿りして行かれては?」と、ライツさんを家に案内する。その姿を見送って、僕はヴィーナに聞いた。
「ね、ヴィーナ、気象予報士って何?」
「ああ。最近外国では〝気象学〟っていう学問が研究されてて、それを学ぶと先の天気が予測できるらしいの。つまり今日の午後の天気とか、明日の天気とかを予測することができる学問ってわけ。気象学を元に先の天気を予測する人を、気象予報士って呼ぶのよ」
「ライツさんはさっき、アルテスのことを気象予報士って呼んだわけだな」
「えーすごい。どうやって予測するんだろう。僕、気象予報士になりたいな。それって飛行計画に役立つよね」
「そうだな! アルテスが気象予報士になってくれたら俺嬉しいよ」
「もともとアルテスは、そういう力に長けてると思うけど、さらに学術的な根拠が合わされば、鬼に金棒ね。あたし、本とか資料とか取り寄せることができると思う。難しい言葉はあたしが教えるから」
「やったな、アルテス。俺たちのチームの気象予報士になってくれ。飛行機を安全に飛ばすためには、重要な役割だ」
 僕は大きく頷いた。だって二人の役に立てるのは、とても嬉しい。今までもっと力になりたかったこと、その気持ちを昨晩ママに相談したことを、二人にも打ち明けた。
「そんなふうに考えないで。あなたがいたから、ここまで来れたんじゃない。って、まぁ、あたしも途中で割り込んできたクチだけど」
「ヴィーナの言うとおりさ。それに俺、アルテスと一緒に飛びたい、そう思ってがんばってきたんだ」
 ・・・胸一杯に暖かい波が押し寄せて、僕は目がしらを熱くした。その波音は体じゅうを大きく駆け巡って、倉庫を打ち付ける激しい雨の音も耳に届かなくなるほどだった。二人とも、大好きだよ。


つづく


<後編へ>
https://note.com/kuukanshoko/n/n814c063def3c


<他のストーリーへのリンク>
https://note.com/kuukanshoko/n/n4251357b90d3

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