2023年末の雑感
今は2023年の12月27日で、僕は退屈な英語の授業を受けながら、この文章を書いている。あんまりまとまってなくていいから、とりあえず書いてみたいと思った。
あと5日で今年が終わるこのタイミングで。
すごくいろんなことがあった今年を振り返り、ちゃんと大事なものを大事にしながら来年を生きるために
今年は、自分にとって何が大事かがある程度はっきりした。自分はいろんなことを考えるのが好きで、いろんなことを考えてる人が好き。人としゃべることで、自分とその人の間に新しい何かが生まれるあの感じが好き。
人の自我はその人が今まで生きてきた経験の記憶の蓄積らしい。ならば、人と人とが向き合って対話すれば、その時、ふたりのそれまでの人生が、見てきたものが、記憶が、混ざり合うんじゃないかと思う。色の違う絵の具がパレットのうえで混ざるようなイメージ。
今年読んだ本のなかに「他者が自己の中に入り込む余地を除き切らない」という言葉があって、ずっと頭の中に残っている。自分のなかに他者が残っている、入り込んでいる、という状態が好きだ。他者は自分とは完全に異質な存在だから、自分の中の他者は消化され切ることなく他者であり続ける。だから、自分と、自分の中の他者との境界の部分では、自分と他者とが調和しないまま、ずっと反発しあって、泡立って、混ざりあって、あたらしい何かがプクプクと生まれ続ける。お風呂にいれた入浴剤の表面が泡立ってジュワーってあぶくが出る、あの感じに近いかも。自分の中に調和しないままの異質な他者がいるからこそ、「自分」が凝り固まらず流動的で可変的で生成変化していられると思う。これは、朝井リョウの正欲を読んで思ったことでもある。
なんせ、僕は考えることが好きで、他者と対話するのが好き(いつでも誰とでも話したい!って訳では無い)で、このふたつの「好き」は繋がってて切り離せない。で、このふたつの好きが僕の根っこであり、大袈裟に言えば生きる理由なのだ。そして、それに気づけたことが、2023年の最も大きな成長だったように思う。
ちなみに、この「他者と対話するのが好き」っていうのには、本を読んだり音楽を聴いたりすることも含むつもりでいる。
で、さらに、自分のいわば「軸」を自覚することは、自分のあり方に自信を持つことにも繋がる。当然この先もっともっといろんなことをできるようにならなきゃだし、なりたいし、生きていく上でいろんな困難にぶつかるだろう。でも、自分にとっての大事なものを大事にさえすれば、きっとうまくやっていける。逆にいえば、「考えること」と「他者と対話すること」以外は、言ってしまえば自分の人生に必要ではないから、無理してまでしなくてもいい。そんな風に思ってる。だから僕はいま、というか今年の8月ぐらいからずっと、すごく視界が澄み切ってるような感覚でいる。