13.ハートの声(3)

<戻目次次>

****

 早朝、切捨橋近くの川原。
準備運動を終えた俺と芥は川原の土手で相対した。
どちらもトレーニング用のジャージ姿だ。

 芥はいたってリラックスした様子だ。
あくびをし、ぼりぼりと背中を掻いてからのんびり言った。

「じゃ、やるか」

 その言葉が終わる直前に俺は飛びかかった。
ひとっ飛びに間合いを詰め、顔面に向かって拳を振る。

(入った!)

 そう確信した瞬時、意識に空白が生じた。
俺はふと、自分が仰向けに倒れていることに気付いた。
ぼんやりとあたりを見回すと、鼻の奥に生ぬるい感触があり、血が垂れ落ちてきた。

(え……殴られた!? いつ? 全然見えなかった……)

 芥は片手をぶらぶらと振った。

「終わりだ。朝メシなんかあるか?」

 俺はぐにゃぐにゃの両足で必死に立ち上がった。
朦朧としたまま芥を追い、子供の喧嘩のようにめちゃくちゃに殴りかかる。
芥はそれをひょいとかわし、俺のジャージを掴んで子猫のように吊り上げた。
宙吊りにされて手足をじたばたさせているうちに、どういうわけだか涙が出てきた。

「何でだよ……何で、俺にはなんにも話してくれないんだよお……! 俺を大事にしろよお……」

 芥はため息をつくと、ぱっと手を離した。
どさりと地面に落ちた俺を放置し、どこかへ行ってしまった。

 仰向けになった俺は、澄み渡った空を見上げながら考えた。
顎がズキズキする。

(何にも聞こえなかった……強さに差がありすぎてわかんないんだ)

 だけどそれとは別に気付いたことがある。
俺が内心で煉を侮ってたことを芥はわかっていたし、何より俺が勝つって信じていた――俺以上に信じていたから、サマーの条件に何も言わなかったんだ。
意地を張っていた自分が情けなくて、恥ずかしかった。

 コンビニの袋を持った芥がやってきた。
俺の顔を覗き込む。

「食えるか」

「ああ」

 切捨橋の下に入り、コンクリートの地面に並んで腰を下ろした。
俺はおにぎりのフィルムを剥く手を途中で止め、言った。

「お前の兄貴のこと、聞いてもいい?」

 彼はうんざりしたように言った。

「何で最初からそう言えないんだ」

「気を使ってたんだよ!」

 芥は唇をチュッと鳴らした。

「その前に。何か忘れてないかい?」

「……」

 俺は勢い余ってあんな約束をしてしまったことを後悔した。
赤くなって頭を抱えていると、彼は笑い声を漏らした。

「まあいい。お楽しみはあとに取っておこう」

「先に言っとくけどな、舌を入れるなよ!」

 俺が念を押すと、芥はくっくっくと笑った。

「童貞《しょじょ》に? ショックで死ぬかな?」

「うるせえよ!」

<戻目次次>

ほんの5000兆円でいいんです。