3.宵人の家(1)

<戻目次次>

****

****

 翌朝五時。
日課の稽古をこなすため、近所にある切捨《キリステ》橋という大きな橋の下に向かった。
宵人を起こすつもりはなかったけど、着替えている最中に目を覚ましてついてきてしまった。

 俺が柔軟体操を始めると、宵人は眠そうな目をこすり、真似して体を伸ばし始めた。
微笑ましい姿ではあったけど、首を傾げずにはいられなかった。
きのう風呂場で豹変したあの男と同一人物だとはどうしても思えない。

「ココ兄ちゃんが出る格闘技の大会ってどんなやつなの?」

「ん? ああ、あれだよ」

 俺は壁に貼ったポスターを指差した。

『格闘技団体<財音ウォードッグス> 総合格闘技大会
経験・年齢不問 参加者大募集! 優勝賞金100万円』

「漢字が読めない……」

「総合格闘技っていう何でもアリの喧嘩みたいなやつ。賞金100万円だぜ。スゲーだろ!」

「スゲー! 黒猫ニンジャコロシアムみたい」

 宵人は目をキラキラさせた。
俺も少年漫画とかのバトルトーナメントが大好きだったから気持ちはわかる。

「宵人は100万あったらどうする?」

「ええ?! えーっとね、えーっと……」

 彼は真剣な面持ちで考え込んだあと、決心した様子で言った。

「黒猫ニンジャのシャドー&ライト本体同梱版を買う! あとは貯金! ココ兄ちゃんは?」

「親父が消える前の生活に戻る。いい家に住んで、学校に通って、空手部に入る」

 ついこぼしてしまった本音に宵人がきょとんとした顔をした。
俺は笑ってごまかした。

「あ、うん。何でもない

 早々に飽きてフィギュアでひとり遊びを始めた宵人を尻目に、サンドバッグを打った。
拾ったふとんマットを丸めてロープで吊るしただけのものだ。
殴っているうちに親父のことを思い出してしまい、怒りがこみ上げてきた。

(クソ親父! クソッ、クソッ! 借金残して消えやがって)

 気が付くとすっかり息が上がっていた。
激しく揺れ動くサンドバッグを抱き止める。

(金だ、金、金! 金さえあればクソ親父が消える前の生活に戻れるんだ)

****

 家で朝飯を食べたあと、宵人の記憶を頼りに郊外へ向かった。
小さな無人駅を降り、寂れた住宅街を見回す。

「えーと……もっかい教えてくれ。お前んち、どこだって?」

「六門《ロクモン》駅で降りてすぐのでっかい団地。迷ったらおっきな道を真っ直ぐ行って、それで郵便ポストんとこを曲がればすぐ着くって兄ちゃんが言ってた」

 午後からはバイトが入っているからあんまりのんびりしていられない。
スマホの地図と風景を見比べていると、車道にパトカーが通りかかった。

 俺はあわてて顔をそらした。
財音市警は身寄りのないガキを犯罪者だと決め付けてかかる連中で、俺は以前やってもいない引ったくりを白状しろと迫られたことがあった。
宵人のことで通報するのを渋っていたはこういう理由からだ。

 そそくさと道をそれて隣の通りに入ると、古びたポストがあった。
宵人はそれを指差し、眼を輝かせた。

「あった! ポストってあれだよ!」

 突然走り出して角を曲がった。
後を追うと、彼はその先で立ち尽くしていた。
確かに大きな団地がそこにあったけど、鉄条網で囲まれて廃墟になっている。
門には十何年も前に閉鎖されたことを知らせる看板がかかっていた。

(うーん? こいつ、やっぱり頭が少し……)

 どう声をかけたものかと悩んでいると、宵人は突然振り返った。

「神社……! そうだ、六門《ろくもん》神社!」

 彼は来た道を少し戻り、丘の階段を駆け上がった。
てっぺんにある小さな神社につくと、縁の下に腹ばいで潜り込んでいった。

「おいおい……!?」

「ヒュー兄ちゃんと一緒に隠したんだ、ここに……宝物……」

 蜘蛛の巣まみれになって戻ってきた彼は縁側に錆びたクッキーの缶を置いた。
大事そうに蓋を開くと、中から古びたフィギュアやカード、コイン、ジュースの蓋などを取り出して並べていく。
俺は映画のチケットを手に取った。
ふたつあり、どちらも片側の入場券部分が千切られている。

「宵人……これを隠したのっていつ?」

「前の夏休みだよ! その『黒猫ニンジャ・シャドーギルド』劇場版を見に行った次の日!」

 改めてチケットの日付を見た。
上映日は15年前の8月になっている。

 神社の階段に一緒に座ると、俺は宵人を見つめた。

(こいつ、15年前で記憶が止まってるのか……?)

 彼は泣きそうな顔で手の中のフィギュアを見つめている。
『黒猫ニンジャ』は20年前にテレビゲームがアニメ化したもので、両方の続編が今日まで続いている。
不意に宵人の頬を涙が伝い、ぽつりと落ちた。

「ヒュー兄ちゃんに会いたい。兄ちゃんに会いたいよお」

 泣きじゃくる彼の頭を抱いてやった。
事情はわからないが10才かそこらの少年がある日突然、15年後の世界にたったひとりで放り出されてしまったのだ。
俺と同じだ。
親父が借金を作って消え、母親は俺を捨てて出て行き、身ひとつで放り出された俺と……

 鼻をすすって泣き続けていた宵人は、不意に俺の手を払い退けた。
泣き腫らした眼に冷徹な光が宿っているのを見た俺は、はっとして身を引いた。

「お前……?!」

 いらついた様子で目元を拭いながら、宵人は――芥は言った。

「あのガキにせがまれて兄貴を探してたんだろ」

「え? 宵人のときの記憶があるの?」

「おぼろげにな。宵人のほうは俺のときの記憶はないみたいだが」

 宵人と同じ容姿、同じ声、だが態度と喋り方はまったく別人と接するというのは、本当にヘンな感じだ。
芥は髪を掻き分け、額の右端にある大きな傷跡を俺に見せた。

「見えるか? 少し前、大ケガをして障害が残った。医者が言うには〝まだらボケ〟に近い状態らしい」

「あ……! それじゃ、宵人って!」

「黒猫ニンジャ。好きだったな」

 彼は手の中でフィギュアをもてあそびながらフッと笑い声を漏らした。

「宵人は15年前の俺なんだよ。ときどきあいつになっちまうんだ、多重人格者みたいに」

<戻目次次>

ほんの5000兆円でいいんです。