恋人は冷たい3
**5**
達真を腐らせないよう海輝は苦心した。
バスタブに一杯の防腐剤を用意して漬からせ、強い酒を朝昼晩と飲ませた。
室温はエアコンで可能な限り下げておく。
それでも二日目の終わりあたりから腐敗が始まった。
まず手足の指先が変色し、爪が取れた。
眼球がどんよりと濁り、皮膚の一部が古いペンキのように剥がれ落ち、髪が抜けた。
酸性雨が晴れたある日の夜、海輝は達真を連れて近所の公園に向かった。
手を繋いでともにハイキングコースを歩く。
「いつか子供を貰おうよ、達真さん。
ぼくみたいな捨て子をさ。
海辺に大きな白い家を建てて、そこで三人で暮らすんだ」
「あー、あー」
「その家はおっきなベッドがあってね、子供部屋があってね、窓から海が見えるんだよ。
それでね、犬が飼いたいな」
「あー、うー」
「ねえ、ぼくはもう達真さんの愛人じゃないよね? ぼくは……恋人だよね?」
甲高い銃声が言葉をさえぎった。
海輝は驚いてその場で飛び上がり、達真の腕にしがみついた。
達真は音にしたほうに向き、コースを外れて森の中に入っていった。
「行っちゃダメだよ、達真さん!」
引きとめようと掴んだ彼の腕は、肘からちぎれて取れた。
海輝はバランスを崩して転んだ。
運悪く斜面になっていて、彼は悲鳴を上げながらそこを転がり落ちていった。
柔らかい草地でケガはしなかったが、やっとのことで立ち上がったときには、達真の姿を見失っていた。
「達真さん……?」
向こうに明かりが見えた。
木立の合間の広場に三つの人影があり、物音に気付いたひとりがライトをこちらに向けた。
その男たちはビニールシートに包まれた大きなものを埋めている最中だった。
海輝を見ると、仲間同士でひそひそと言葉を交わす。
「だから言っただろ、道から近すぎるって!」
「今さら仕方ねえよ。どうする?」
「どうって……とにかく捕まえろ」
男のひとりが走ってきて、震えている海輝を素早く捕まえた。
冷たくて硬いものが頭に押し当てられる。
男は海輝を広場に引きずっていきながら愚痴をこぼした。
「まったく、何だって今日に限って」
海輝は恐怖に凍りつきながらも、必死に達真の姿を探した。
「達真さん!」
「あ? ひとりで来たんじゃないのか?」
「達真さあああん!!」
「騒ぐな! おい、何人で来た?」
彼らが奇妙な物音に気付いたのはそのときだった。
男たちが振り返ると、一番後ろにいた仲間が誰かに抱きかかえられていた。
達真が喉元に齧りつき、すするようにして血肉を食らっている。
ぐちゃぐちゃ、ぼりぼりという行儀の悪い音を立てながら。
視線に気付いたように達真は顔を上げた。
食べかけの男を放り捨て、彼らのほうに向かった。
「うわああああ――!!」
海輝を抱きかかえていた男は長く尾を引く悲鳴を上げた。
彼を放り出して拳銃を乱射する。
数発が命中し、胸板で血肉が爆ぜたが、達真はそのことに気付いてすらいないように真っ直ぐ歩いてきた。
逃げ出そうとした男に背中から抱きつき、首筋にかじりつく。
肉が噛みちぎられるブチブチという音がし、ランタンに赤黒い血が跳ねた。
最後のひとりは目の前で何が起こっているのか理解できず、その場に立ち尽くしていた。
ガチガチと歯を鳴らしながら、仲間が食われるさまを呆然と見つめている。
「あ……あ……! ああああああ!!」
一目散に逃げ出した。
海輝は達真に駆け寄り、肩を掴んで揺さぶった。
「逃げなきゃ、達真さん! 仲間を連れて戻ってくるかも!」
だが彼は食事に夢中で振り返りもしない。
無理やりに連れて行こうとしたが、振りほどかれてしまった。
仕方なく待つこと数分、ようやく満腹になった達真がふらりと立ち上がると、その手を掴んで走り出した。
駐車場まで来たとき、海輝は自分が掴んでいる達真の手が、先ほどちぎれたはずの右手であることに気付いた。
驚いて彼の袖をめくった。
新品同様にまっさらな腕が生えてきている。
(何で……?! どうなってるの?)
ともかく車に乗せて出した。
途中、海輝は達真の体がみるみる元に戻ってゆくのを目の当たりにした。
取れた爪が生え、髪が伸び、胸の銃創が塞がっていく。
目に光が戻ると、達真は手で髪を撫で上げ、いぶかしげに海輝に聞いた。
「ん……? 海輝? 今、何時だ?」
「達真さん! 大丈夫なの!?」
達真は眉を寄せて口元を拭った。
「口の中が生臭い」
**6**
自宅に戻ると、達真はソファに沈み込み、目頭を手で押さえた。
「気を失ってたみたいだが……」
「何にも覚えてないの?」
「確かお前の部屋に来て、話をして、それから……思い出せん」
「えっと……」
海輝は眼を伏せた。
「えっと、達真さん、急に倒れちゃって。
それで医者のとこに連れてってたんだ。闇医者のところ。
もう大丈夫って言われたから帰ってきたところ」
「何時間くらいだ?」
「三日間」
達真は驚いて顔を上げた。
卓上カレンダーに眼を見張ると、弾かれたように立ち上がった。
「オレの携帯は?! 連絡しないと……」
「落ち着いてよ、いま深夜の二時だよ」
「三日だと……」
達真はソファに座り直し、頭を抱えた。
「病名は?」
「働きすぎじゃないかって」
よくもこうすらすら嘘が出てくるものだと、海輝は自分の舌に感心した。
「救急車を呼んだほうが良かった?」
「いや、それは……」
「言えないよね、愛人の部屋で……情夫《オトコ》の部屋で倒れたなんて」
達真はばつが悪そうな顔をし、立ち上がった。
「帰る。携帯を返せ」
「ダメだよ、まだ寝てなきゃ!」
達真は海輝の手を振り払った。
ハンガーにかけられたスーツとワイシャツにはきちんとアイロンがかけられている。
それに着替え、ネクタイを締める。
携帯端末は上着のポケットに入っていた。
「お前に話したことは覚えてる。こんな生活はもう終わりだ」
部屋を出ようとしたとき、海輝は先んじて玄関前に立った。
後ろ手にドアのレバーを握って彼を睨む。
「どけ」
「まだ治ってないよ! せめて明日になってから……」
達真は平手で海輝の頬を張った。
殴られた海輝も、手を出した達真も、双方が驚いていた。
海輝の眼にみるみる涙が滲む。
達真はうずくまってすすり泣く彼を一瞥すると、札束で膨らんだ封筒を上着のポケットから取り出し、テーブルの上に置いた。
一度も振り返らずに出ていく。