28.俺の母親のこと。(2)

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 翌日、バイトが終わると母親が入院している病院に連絡を入れた。
彼女を見舞いたいと言うと、面会時間は過ぎているが特別に許可してくれると言う。
というのも彼女はもう先が長くないそうだ。

 高校時代の教師が、テストは解けそうな問題から解いていくのがコツだと言っていた。
まずはこの問題を終わりにする。
今日で決別し、二度とあの女には関わらない。

 店を出たところで煉に電話をかけた。
彼の嬉しそうな声がした。

「はい!」

「煉くん、今いい?」

「全然、全然。部活終わって帰るとこです」

 本題に入る前に、ふと俺は言った。

「煉くんのお母さんってどんな人?」

 彼は少し不思議そうに答えた。

「どうって、普通の専業主婦ですよ」

「そっか」

「センパイ? どうかしましたか?」

 しばらく黙り込んでいた俺ははっと我に返った。

「うん? ううん。よかったらうちで遊ばない? 宵人がゲーム機もらってさ」

 そのあと短く後日の約束を交わして電話を切った。
煉についてきて貰おうとしていた自分が情けなくなった。
これは俺の問題だ。
他人をアテにしちゃいけない。

 電車とバスを乗り継ぎ、郊外にある大きな病院の前で降りた。
受付で電話した者だと告げると、医者に説明を受けた。
母親は大腸と肝臓を癌に侵されていて助かる見込みはほぼないという(40歳前後で患うと病巣の成長が早く、気が付いたときには手遅れということがままあるそうだ)。

「率直に申し上げますよ。余命はあと半年か、もっと短いかも知れません」

 淡々と説明する医者の言葉を、俺のほうも無表情に聞いた。
末期患者が集まっている棟に案内され、そこで二年ぶりに母親の顔を見た。
ベッドに横たわり、体中にチューブを繋げられた彼女は、煮干のように痩せ細って骨ばっていた。
彼女はこちらを見た。
どんよりとした眼が大きく開かれる。

「……」

 医者は「終わったら呼んでください」とだけ言い、ベッド周囲のカーテンを閉ざした。

 俺と母親だけが其の場に残された。
かけるべき声が見当たらなかった。
泣き叫んでいるか怒り狂っている(だいたいそのふたつはセットだったけれど)姿しか思い出せない。

 彼女は小さく呻き、呼吸器をずらした。

「狐々」

「母さん」

「来てくれたの?」

 弱々しい笑みを向けられると、俺はそわそわした。

「いいのよ、怒ってない」

 俺はきょとんとした。

「え?」

「あんたのこと、もう怒ってない」

「俺が謝りに来たと思ったの? あんたに?」

 俺は怒りをこらえてまくし立てた。

「あんたは何かひとつでも自分の間違いを認めたの? 親父にも新しい男に捨てられてひとりぼっちで死ぬ今でも、まだ他人がみんな悪いと思ってんのか? ああ?!」

 母親の目の涙に眼が浮かび、眉を吊り上げた。
相手に罪悪感を抱かそうと打算している泣き方、それから一転して喚き散らすというパターンだ。
あとはもうめちゃくちゃだった。
狂ったように喚き始め、泣き喚いた。

「いつもわたしのことバカにして! あんたのせいじゃない! みんなあんたのせいよ! 何でこんな子になっちゃったのよ! あんたなんか産むんじゃなかった!!」

 俺は本当に、うんざりするほどこのパターンに付き合ってきた。
医者があわてて飛び込んできたが、追い出されるまでもなく俺は病室を出た。

 どうやって自分ちに帰ったのか覚えていない。
気が付いたら自室でソファに沈み込んでいた。
ふとあたりを見回した。
携帯端末は充電器に傾いたまま刺さっているし、台所で買った覚えのない冷凍食品が溶け始めている。
自分がどこにいるのか、何をしているのか一瞬わからなかった。

 玄関のドアが開き、芥が入ってきた。
冷凍食品をちらりと見たあと、俺の背に声をかけた。

「狐々、来な。型を見てやる」

「ああ……今はいいや」

「気が向いたら来い」

 しばらく呆然と空中を見つめていたが、俺は服を着替えて屋上に向かった。
空手の型というのは要するに演舞のようなもので、あらかじめ決められた通りに体を動かしながら息吹という呼吸法を行う。

 夜気に白い息を吐きながら、芥と並んでひと通りの型をやった。
彼とは流派が違ったから若干動きは異なったけれど、向こうのほうが俺に合わせた。

 一連の動きを終えたあと、芥は俺と向かい合った。

「約束試合だ」

 あらかじめ動きを決めておく練習試合だ。
相手がこうパンチしてきたらこうかわし、蹴りが来たらこう反撃して……といった動きをゆっくり、確かめるように何度も行う。
これを何百回、何千回も繰り返して体に染み込ませることで、いざ実戦となれば考えるより早くその動きが出来るようになるんだ。

 芥の正拳を外受けで受け流し、踏み込んで鉤突き。
向こうはいたって真剣で、少しも手を抜いていない。

「芥のお母さんってどんな人だったの?」

「集中しろ」

 俺が黙り込むと、彼はふっと笑みを漏らした。

「優しかったよ。シャブが回ってるときはな」

「お父さんのほうはどうなったの?」

「塀の中で裁判中。まあ、生きては出られないだろ」

 雑談でもするように平然と言った。
彼ほどの強さの持ち主なら、こんなことでウジウジ悩んだりはしないんだろうか。

「今日、母さんに会ってきた」

 彼は何も言わない。
俺は小さく笑いながら続けた。

「テレビなら感動の再会とかってテロップがついただろうな。それでテレビなら、俺と母さんは抱き合っておたがいのことを許すんだ。泣きながら。
そこで場面はスタジオに変わって、芸人たちがカメラに見えるようにわざとらしく涙を拭く」

「……」

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