27.俺の母親のこと。(1)
ある休日、自宅のリビングで参考書を広げていた。
俺は卒業前に高校を辞めてしまったから、大学に入るためには入学資格検定を取らなきゃならない。
学費を貯めながらこうして自習に励んでいるわけ。
宵人は同じテーブルに自由帳を広げていた。
こっそり盗み見ると、豚とサメを合体させたようなキャラクターの絵を描いている。
赤黒く塗られた姿はまがまがしく、ホラー映画でよくある〝実は本当のことを知っていた子供〟が書いた絵のようだ。
(何だこれ? 黒猫ニンジャにこんなのいたっけ)
それを見ているうちに宵人の精神状態が心配になってきた。
最近は様子が少しヘンで、いつも上の空だ。
電話に着信があった。
バイト先のラーメン屋からで、出前に出たバイトが事故ってしまい急遽人手が必要という。
俺はちょっと躊躇った。
毎週土曜日は宵人を銭湯に連れて行き、風呂上がりに休憩所の大型テレビで黒猫ニンジャのアニメを見る。
彼はそれを楽しみにしているんだ。
だが店長の声は本当に切羽詰っていて、俺は結局断り切れずに引き受けてしまった。
俺のことを気にかけてくれるいい人なんだ。
宵人にそのことを言うと、彼は失望を露にした。
「銭湯は?」
「ごめんな、帰るのたぶん閉店後だから夜中になりそう。先に寝てて。誰が来ても玄関開けちゃダメだぞ」
「ヒュー兄ちゃんなら連れてってくれた」
そうつぶやいてテーブルに戻り、落書きを続けた。
出かける準備をし、急いで家を出た。
胸が痛んだ。
****
新しいバイト先は国道沿いにある古いラーメン屋だ。
閉店間際にきた男に注文を取りに行くと、彼は眼鏡越しに俺をまじまじと見た。
「連川さんの息子さんじゃ?」
顔を見ているうちに思い出した。
俺の母親が入っていたアルコール依存症治療病棟の医者で、治療プログラムの説明を聞きに行ったとき顔を合わせたことがある。
俺が記憶をたぐりながら挨拶をすると、医者は神妙にうなずいた。
「お母さんは気の毒に」
俺がきょとんとした顔をすると、彼は驚いた。
「知らないのかね?」
母親はつい最近また病棟に入ったが、重篤に陥って別の専門病院に送られた。
長年の飲酒癖がたたって癌に蝕まれているという。
バイトを終えて帰る途中、携帯端末を取り出した。
医者が教えてくれた母親の入院先を検索したけど、芥、宵人、俺自身、すでに手一杯なのにさらに問題を抱え込む気かと自分を問い詰めた。
端末を閉じてポケットに戻す。
ため息が出た。
医者に彼女のことを告げられたとき、俺は動揺した。
自分が彼女を見捨てられなかったことに気付かされたようで、いらいらした。
あんな女もうどうでもいい、俺の知らないところで勝手に死んでくれって何度も思ってたのに、それなのに……
重い体を引きずるようにして家に帰った。
玄関の前で深呼吸し、顔を平手で叩く。
無理やり笑顔を作ってドアを開けた。
「ただいま!」
誰もいなかった。
寝床も空だ。
(芥の野郎! 酒飲みに行きやがったな)
彼に持たせているキッズケータイにかけると、芥が出た。
「狐々か? 今、六門神社だ」
「え? 何で」
「俺が行ったんじゃない。今から帰る」
「ううん、迎えに行く」
電話を切って駅に取って返し、電車に乗った。
彼は無人駅のベンチに膝を抱いて座っていた。
俺に気付いて顔を上げたのは宵人だった。
「ココ兄ちゃん」
「ひとりでこんな遠くまで来ちゃダメだろ!! 何考えてんだ、バカ!!」
俺は自分でもびっくりするくらいの大声で怒鳴った。
彼はびくっとし、手にしていた紙切れを後ろに隠した。
「それは?」
彼はおそるおそるそれをこちらに差し出した。
探偵事務所のチラシだ。
「ここへ行こうとしてたの?」
「うん、うちの郵便受けに入ってた」
彼は眼を伏せた。
無言だったけど、その理由はわかった。
(自分で飛雄児さんを探そうとしたんだ。俺がいつまでたっても見つけられないから……)
胃の奥に重いものが込み上げた。
俺はそれを吐き出してしまおうとした――飛雄児はもうこの世にはいないんだってことを。
だけど喉の下で詰まってしまって、どうしても口に出せない。
薄情な神がただひとつこの子に与えた希望をもう一度奪うのか?
宵人を立たせて向かいのホームに行き、帰りの電車を待った。
ふたりとも無言だった。
芥がふと顔を上げた。
「白猫黒猫でも寄ってくか? 酒が飲みたい」
「お前宵人のことになると丸っきり他人事だよな! いっつも!」
「俺があいつを歓迎してるとでも思ってるのか?」
怒る俺を芥は鼻で笑い、吐き捨てた。
「あいつの面倒はお前が自分から見たいと言い出したんだぞ。それを忘れんな」
「……そうかよ」
ほんの5000兆円でいいんです。