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どうする、ニッポン

2.1.2 タテ社会の成熟-国風文化

奈良時代から平安時代になると天皇を中心とする支配者層が、中国から学んだ統治手法を独自に発展させて日本型の統治形態を確立しました。日本人貴族層の矜持が大陸の進んだ文化を、消化し改良し発展させて独自の日本文化として花開かせることとなりました。天皇を“国”の頂点とする厳格な中央集権の律令政治が成熟して、今に続く「タテ社会」が完成しました。平安時代の朝廷は「場」を優先する「タテ社会」から、氏・素性という「資格」を優先する「タテ社会」に代わっていきました。新しい「タテ社会」の構造は、摂関政治から院政へと政治権力が変わっても揺るぎませんでした。

日本人は日本語の音に一つずつの漢字をあてて、万葉仮名と呼ばれる文章の書き方を作り出しました。万葉仮名の活用は貴族文化の発展に大きく寄与しました。平安時代の初期は漢文と万葉仮名の和文が並立していたのです。平安時代に政権を担う役職にある貴族たちにとっては、先例を重んじて毎年同じことを繰り返すことが大切でした。彼らは誰が、いつ、どこで、何を、どのように行ったかという詳細を公文書に記録しました。出来事の感想などは私的な日記につけました。借り物の漢字を万葉仮名にして、男性専用の文字として使ってきたのです。女性が使う文字としては平仮名を発明して、日記、随筆、和歌、小説などの女性文学の世界を広げました。平安時代に花開いた国風文化は、平安人が示した優れた能力のお陰です。中国の進んだ文化を取り入れて、自分たち用に改良し新しい文化を生みだしたのです。貴族文化が日本独自の文化を発展させたのは、貴族文化の担い手には男女の区別のない男女共同参画の世だったからです。国風文化が示すように、平安時代は日本人が精神的に最も発展した時代でした。

昔から日本人は外国の進んだモノを受け入れて、物まねが上手な民族でした。最初はただの物まねだったかもしれませんが、時間と共に取り入れたモノを消化して自分のモノにしました。輸入したモノを日本社会に合うように改良を加えて日本型のモノを作りだしてきたところに私たちの知恵があります。平仮名の次にカタカナを発明して、外来語のカタカナ表記法を編み出しました。自分たち用に輸入モノを改善する能力を発揮して、用途によって表記を使い分けたのです。外国のモノを単に物まねすることはないし、輸入したモノをそのまま使うことはあまりありませんでした。輸入のモノから日本型を作り出す知恵は、今に引き継がれています。中国文化を消化して国風文化を作り出した平安時代の活力は、私たちのDNAに刷り込まれています。

漢字から平仮名を発明したのと同じように、外国のモノから日本型を作り出すのは私たちの文化になっています。私たちが作り出してきた日本型のモノは元の姿と比べると、名前は同じでも似て非なるモノになっていることは少なくありません。法律や規則を作る時でも外国の例をお手本にして、自分たちの使い勝手がいいように解釈して日本型を作り出しています。日本型は原形と比べると往々にして似て非なるものになってしまうところがあります。たとえば、民主主義での政治形態、会社の経営と執行、チームワークとみんなで一緒に、ベースボールと野球などです。今年のWorld Baseball Classic(WBC)では日本が優勝し、野球がベースボールと肩を並べました。

飛鳥時代から続く藤原氏は、平安時代になると朝廷との姻戚関係を結び外戚として権勢をふるうようになりました。平安時代中期の藤原道長の歌“此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思えば”にありますように栄華を誇ります。平安時代も中期以降になると、貴族や荘園の警備を担ってきた武士階級が台頭するようになりました。末期には武家の台頭が著しくなり、桓武平氏と清和源氏が有力な武家集団として頭角を現してきます。「保元の乱」と「平治の乱」を制した平氏が源氏を抑えて実権を握りました。平清盛は朝廷との姻戚関係を結んで「資格」を得て権勢をふるい、平氏一族の平時忠は“平家にあらずんば、人にあらず”とまで言ったのです。しかし、源賴朝が東国で息を吹き返して、平氏を滅ぼし鎌倉に武家政権を打ち立てました。再び「場」が「資格」に優先する社会が見えてきたのです。

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