他人は操れないのだから、私は他人に操られなくて当たり前。
他人は操られないと知っていながら、どうしていつも私たちは他人の目を気にして行動をするのだろう。
こんな短いスカートを履いていたら、
そんなに大きな声で叫んだら、
『変な目で見られちゃうわ。』
村単位で生存していた時代にはすぐに殺されていただろうけど、今は別に深い関係を狭い空間で築かなくていいし、変だったら職質されるだけで、生存していける時代ではないか。
というくらいに、わたしたちの生活は他人に侵食されているし、人の目=他人に操られていることが多いように思う。
ここ最近、意味深な質問に、この人は私を操ろうとしている、と思った瞬間があった。詳しくは書けないけど、知られたくない話を無理やり掘り出すような、ねちっこい質問。
はーっと腹立ってさっさと帰った。
その日はビールを飲んだ。
嫌だなって感じることを、少し前なら耐えていた。大丈夫。笑っていたら、時は経つ。だけど、そうやって耐えた時間は、相手に捧げているのと同じだったんだなって思う。
私はそれ、嫌だったよ、と口で言うまでもなく、そこに居たくないなら出る。逃げる。時間を代償に取られないように、逃げる。戦いたくないと思ったら、それでいいんだと思う。
それに対して、他人があいつは無愛想だとか、礼儀がなっとらんとか言われても、知りません。
あなたは私を、操られません。
意図せず、影響を受けたとしても、それは私が良しとして受けた影響だからノーカウント。こいつをどうにかしてやろうって近づいてきたやつには、きっぱりとノーと言っていいんだ。
初めに言っていた、人の目も、そいつの基準に合わせてやろうっていう企みだと考えたら、何も言うこと聞かなくていい。
履きたい靴を履いて、
スカートを着て、
化粧を楽しんで、
ジャラジャラにアクセサリーしちゃって、
カツカツ歩いていいんだ。
何歳になったって、好きならやればいい。
他人は操れないのだから、私は他人に操られなくて当たり前。
自分の世界が、最優先。