シン・エヴァは「エヴァ」という作品を解き放つメタフィクションなのではないだろうか?
※前回に引き続き完全なるネタバレです
先日下記のような感想を書いたけど、ふと違う考えが浮上してきたので書きなぐってみようと思う。
シン・エヴァンゲリオンは間違いなく上記のように受け取れるように作ってあるとは思うのだがそれは一種のミスリードなのではないか?
別の真意があるのではないか?という考えがふと頭をよぎった。
TV版のとき、シンジくんは庵野さんの一部であり、ゲンドウは不条理な大人「いいからアニメ作れよ!」と言ってくる大人であったのは間違いないだろう。
その延長線上として旧劇が作られた。
そして前回も書いたとおり、シン・エヴァはTV版のリフレインのよう内容から旧劇をなぞるような物語となり着地する構造なわけで「同じテーマなんだな」と読み解くのが自然だと思う。
ただなんとなくそこが引っかかった。「あの人達」がそんな事するだろうか?
旧劇とシン・エヴァの差は「ゲンドウの内面が長々と語られる」という点だ。
そしてシンジとゲンドウ、2つのエヴァの鏡面性がくどいほどに反復される。時には立場が入れ替わったかのような演出がなされる。
これを「親を許す」というスタンダードな作劇と受け取ることもできるのだがなんとなく違和感があっった。
「もしかしてエヴァをゲンドウの視点で捉え直す」という思い切った手法なのではないか?とふと思った。
根拠はないがつまり「庵野さんはゲンドウになった」のではないかということだ。
ではシンジくんは何なのか?
それは「エヴァンゲリオンという作品そのもの」なのではないだろうか。
庵野さんの代表作であり、人生を大きく変化させ、二度も制作することとなり、時には疎ましく思ったであろう「エヴァ」という作品を
「親」として許し(許され)、長く連れ添ったキャラクターたちの未来を祝福する。
そしてラストの「外に出よう」というのは、我々おっさんに言っているように見せかけて「エヴァ」という作品に対して「自分の手を離れて自由になっていいよ」といっているのではないか?
もう大人になって良いんだよと。
そして新劇場の「変化」の象徴であるマリとシンジがくっつく。
作中で反復される「出産」や「一次産業」も創作のメタファーなのではないかというのは色んな人が指摘しているところだと思う。
コンテ撮演出や書き割り描写「世界を書き換える」「槍」という単なる旧劇の反復、衒学的なものと割り切っていたディテールもそう考えると意味を持ってくるようにも思える。
「自分の事だけに執着していた男ゲンドウが、息子であるシンジの乗る、自身が仕組んだエヴァに止められ、救われる」と。
自主制作アニメから始めたクリエーター達の、紆余曲折あった末の「アニメ造りもやっぱ悪くないよね」みたいな話だったのではないか…という粗削りの説を思いついたので書いてみた。
じゃあ俺たちオタクは何なんだよ!?というと長い年の時の中で先に大人になっていたケンケンやトウジなんじゃなかろうか。
つまり我々とアスカをひっつけてくれたわけである!サービスサービスゥ!
まあDAICON世代にあまりにも憧れて影響を受けた人間の生み出した妄想かもしれないが。