「自分がいる環境」を意識出来ることはとっても素敵なことだと思いました。【発見】
今朝の事、テーブルの上に置かれていた新聞の一面アタマに、「内定率急落61.7%」や「高卒求人数24%減」などという不穏な文字の羅列を観ました。おそらくそのときに僕は漠然とした不安を感じたのだと思います。
一日の出だしがそんなだったので、午前中は考えがまとまらなかったり考えても発想が暗くなることが多かったです。こういう些細な事の積み重ねで僕の気持ちは不安定になるみたいです。
午後からは母の誘いもあり、実家から近い祖母の家に行きました。祖母の家でテレビなどの刻々と変化する情報を避けて、明るい話を聞いたりコーヒーを飲んだりしていたら考えも明るくなってきて文字を理解する意欲も出てきました。
そういう事があって今は記事を書けています。
さて本題。
前々からぼんやりと考えていたことですが、どうも世の中には自分が嫌だと思ったらすぐにその環境から逃げられる人とそうでない人がいるようです。
ちなみに僕は後者で、自覚している要因の一つに気持ちより言葉を優先してしまう癖があります。
なぜ言葉を優先して気持ちを置き去りにしてしまうのかは定かではありませんが、少なくとも言葉を置き去りにして行動することは僕にとっては難しいようです。なのでこの癖に気づいてからは言葉を覚えるとき、「言葉」の中に「気持ちや意味」を蔵う、本とカバーのようなイメージで記憶するように心がけています。
ちなみに、気持ちを置き去りにしてしまう癖はここ1〜2ヶ月で急に輪郭がはっきりしてきました。同時期から言葉と意味との結びつきも強くなってきた気がします。(相互に作用しあっているのかもしれません)そのおかげか、最近は落ち込む事は少なくなってきたように思います。(今日は落ち込みましたが…)
なぜ急に癖が自覚できたのでしょうか。考えを整理できたから?ではなぜ整理できた?
会社をやめたから?よく眠れているから?自分と向き合える時間が増えたから?少し考えてみましたが複雑すぎて今の僕にはとても原因を特定できる力はなさそうです。
しかし、いずれにしても僕の気持ちは環境によって左右されているのだという発見はありました。
まるで自分が天秤ばかりになったかのようです。
その天秤ばかりの上に「環境」というつかみ所のない重さが乗ったり取り除かれたりする事で気持ちが明るくなったり暗くなったりするのではないかと考えています。(天秤ばかりの代わりに自分のことを境界だとイメージしても面白いです。)
このイメージの発見があったからこそ「自分がいる環境」を意識出来ることはとっても素敵だと思ったのです。
今回この記事を書こうと思ったのはこの発見を言葉に出来た嬉しさと、この癖について考えたり意見を持っている方と繋がりたい気持ちがあったからです。
繋がりたいという気持ちを具体的に書くと、「分かるわー」と思ってもらったり、「それはこういう原因があるんじゃないかな」とか教えてもらう事を望んでいるということです。
自分を責める原因はきっと環境にあります。何かがおかしいと感じたら「自分の感覚」を頼ってあげてください。
この言葉はこれを読む人に対する言葉であり自分への言葉でもあります。
では