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青空と黒い猫
空がいつもと同じ青さをたたえていたって、誰の身体もいつかなくなって、永遠はないだろう。
それだって、君の魂とどこか繋がっていたいと僕は思う。
僕がアジカンでいちばん好きな「青空と黒い猫」の一節だ。悲しくて、いとしくて、誰かのことを想いたくなるような爽やかな曲。心がしんどい時に口ずさんでいると、どこか涙がこみ上げてくる。苦しみの中でも、誰かと繋がっていたいと信じる自分の存在に気がつく。それがたまらなく寂しくて、でも心地良かったりもする。
仕事の環境が変わったり、いつまでも変われない自分にモヤモヤしたりと、3月という季節は何かと憂鬱な気分になりがちだ。僕の住む街にはこれから花粉も舞うし、かと言って凍えるような夜が終わるわけでもない。苦しい季節だ。
そういうだめな時に僕は、アジカンを聴きながら国道20号を東へ進んで、山梨県立美術館でミレーの絵を見に行くことにしている。キリスト教的価値観が支配的だった19世紀フランスで庶民に着目した画家で、彼の農民が働く姿や主婦が家畜の世話をする絵を眺めてと、その平凡な人々の中の一人になりたいという気持ちになれる。何者にもならなくて良いんだと、今の僕は思いたい。
永遠なんてどこにもないんだろう。だからこの気持ちもずっとは続かない。明日の僕は幸せになりたがったり、誰かと手を繋ぎたくなったするかもしれないんだ。間違えて永遠の愛を叫んでしまう日がもう一度来たっておかしくはないんだ。
一期一会って言葉がどうしても好きになれない。だけど刹那的な出会いの連続に何かを見出したり、それで寂しくなったりするのは好きだ。ぼんやりと青空と黒い猫のことばかり考えていたら、先月たまたまその曲が好きだという父親ほど歳の離れた知り合いができた。そういう出会いの一つ一つが嬉しくて、僕はまだまだ世界のことを少し信じてしまうのだろう。
死んだ後も繋がっていたいなんて思えるような人に、この人生でもう一度どこかで出会ってみたい。そんなことを喫茶店で考えながら、この文章を書き殴った。純喫茶なのに餃子が名物という風変わりな店だけど、居心地はとても良かった。