みんなスタバが好き
とある掲示板の書き込みを読んで、しばらく考え込んでしまった。
「たった1000円の時給で、責任ある仕事なんかできるかよ。1000円しか貰えないのに、責任だけはしっかり取らされる。やってられね」。スレッドは盛況で、相当数のコメント(100はあった)が寄せられ、うち9割は「賛成」で占められていた。つまり「そうだ、そうだ、やってられね」。
話は、時給1000円から飛躍してしまうけれど「アポロ計画」について少し書く。ご存知の通りこのプロジェクトは、米国の威信をかけた国家事業で膨大な予算と人と時間が注ぎ込まれた。当時のアメリカ航空宇宙局(NASA)の「働く環境」は、どんなだったのだろう。
ここから先は、ぼくの勝手な想像である。
それは「NASA組」としか呼びようがないものではなかったか。組とは、山田小学校2年3組の組ではなく、黒澤組のように映画製作チームを意味する組でもなく、ヤクザの世界で言うところの「組」である。もちろん、NASAの職員が唐獅子牡丹姿で仁義を切る、という意味ではない。
いつか月に行く。人類が長年追い続けてきた夢だ。当然そこには、マニュアルもなければ、前例も実績もない。そして、ライバルはもうひとつのスーパーパワー「ソ連組」である。生きるか死ぬかは大げさだけれど、どちらが先に月面に立つか、超大国の意地とプライドをかけた「シマの争奪戦」を、世界中が固唾を飲んで見守っていた。そんなヒリヒリするような状況のもと、NASAのボスとメンバーの間に、ヤクザの親分と子分のような関係が成立していたとしても不思議ではない。もしそうだとしたら「NASA組」という表現も、あながち的外れではないと思う。そういえば、記録映画の中のフライトディレクターは、どことなく若頭のような雰囲気を漂わせていた。
NASAの話を持ち出したのには訳がある。アポロ計画に参加できるのなら、どんなに給料が安くてもいいから働かせてほしい、とみずから名乗り出る科学者や技術者がいてもおかしくはない、と思ったからだ。時給1000円の話に戻す。
時給1000円「なのだから」責任のともなう仕事はしたくない。アポロ計画「なのだから」最低賃金でもかまわない。一見相反する主張のように思えるけれど、どちらも正しい。結局は「カルチャー」の違いなのだ。文化が違うのだから、優劣や正邪はそもそも存在しないし、議論を重ねたところで意味があるとも思えない。
働き方改革によって、たしかに雇用形態は多様化した。(多様化とは聞こえはいいが、実際は非正規雇用が増えて、所得や待遇の格差が増大し、企業側に都合のいいように利用されているのが実体だとは思うけれど、本稿とは論旨が違うのでここでは触れません)。問題は雇用の形態だけではなく、受け入れる側、つまり企業や組織に、たったひとつカルチャーしか用意されていないこと。
わかりやすく説明すると、時給1000円でかまわないから、言われたことだけをやる。責任なんてまっぴらごめんというカルチャーと、この仕事には夢がある、他では味わうことのできない体験ができる、それなら最低賃金でもかまわないというカルチャーが、日本の企業ではそもそも「共存」できないのだ。単線である。線路が一本しかない。しかも、そのたったひとつのカルチャーは、「時給1000円」でも「NASA組」でもなく、「みんな我慢しているのだから、お前も文句を言わずに働け」という独特のスタイルをとる。
さらに付け加えるなら、個人の価値観はきわめて流動的で、ささいなことで揺れ動く。経験を重ねるうちに給料は安くてもいい、そのかわりもっとやりがいのある仕事がしたい、と思い直すことは普通にある。その逆もしかり。しかし「単線」だから、仕事をやめるか我慢し続けるか、そのどちらかを選ぶしかない。企業はかたくなに「家風」を守り、多様化が損なわれているばかりではなく、すっかり硬直化してしまっている。
時給1000円とアポロ計画。あえて対照的なふたつの例をあげた。しかし、実際の働き方に対する価値観は、もっともっと複雑で多岐にわたる。100人の働く人がいたら、100通りのカルチャーがある。それを「わがまま」と一蹴されてしまうことが問題なのだと思う。
本来、それは、わがままのひと言で片付けてはならない。なぜなら、会社とは組織とは、社会のため、顧客のため、資本家や投資家のために存在しているのではなく、第一義的に「そこで働く人々のため」にあるのだから。雇用形態という「入り口」だけを整えて、これが働き方改革ですと胸を張られても困る。もっというなら、そんな面倒臭いことはやってられるか、と景気の低迷をいいことに高を括る経営者は、遅かれ早かれ退席することになるだろう。人は自分のカルチャーを犠牲にしてまでも、「文句を言わず働き続ける」は過去の物語になりつつあるからだ。
「スケボ」の種目を増やしてみたけれど、すべての選手に同じトリックを強要しているようなものだ。こうとも言える。分量もトッピングもテイクアウトか否かも選べずに、マスター自慢のブレンドコーヒーを姿勢を正して飲まなければならない。そのコーヒーが気に入ったのならいいだろう。常連になればよい。現実はそうはいかない。もし口に合わなかったら、最悪、排除されてしまう。
かつては、企業の「家風」に労働者が合わせることが是とされ、それが美徳のように思われてきた。しかし、時代は変わりつつある。働く側が「家風」に合わせるのではなく、これからは、企業の側が働く人に柔軟に対応しなければ、自分たちが先に「石化」してしまう。流動体のようにしなやかに。「ベクトル」を真逆に。それができなければ、組織そのものがやがて淘汰される。
労働者から働く人へ。資本家から人を育てる人へ。労使関係から相互関係へ。言葉そのものも少しずつ変わってきた。「雇ってやってる」は、もうそろそろ終わりになればいい。みんながスタバを好きなのには、それ相応の理由がある。 (画像は『DOB君』村上隆 1995)