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イレイザーヘッド

ぼくが小学校の2年か3年の時のお話です。

生家ではよほどの事情がないかぎり「家族全員で食卓を囲む」、というのが暗黙のルールでした。子供には、基本的によほどの事情など存在しませんから、必然的に皆勤賞ということになります。しかし、食事中に家族で楽しく会話をした、という記憶はほとんどありません。テレビはいつも消されていたし、必要最小限の会話しか許されない雰囲気が、食卓を支配していました。

食器が触れあう音、やかんのシューシューという音、あわてて席を立つ母。光沢のない床板とタイルがところどころ抜け落ちた肌寒く薄暗い食堂。フィラメントが作る小刻みに震える光と影。これがぼくの一家団欒の原風景です。たしかに辛気臭い食卓なのですが、余計なことはしゃべらずに黙々と食べ進めるという習慣は、それほど珍しいことではなく、高度成長期の日本の食卓の多くは、存外、ひっそりしていたのかもしれません。

その日の夕餉も、家族全員がテーブルに顔をそろえ、上座には祖父が塑像のように座っていました。献立までは覚えていないのですが、あいかわらず一同は淡々と箸を運んでいたはずです。その沈黙の中で、唐突に祖父が口を開きました。

「ノブオ、中村の子供とはもう遊ぶな」

ノブオはぼくの本名です。中村というのは隣家のことで、そこには姉妹がいました。上の子は一学年上、下の子は二学年下だったと記憶しています。自分は、小学校3年生くらいまで、女の子のように育てられました。遊び相手はいつも女子で、おままごとや手芸の真似ごとや塗り絵が定番で、服が泥だらけになるとか、かさ蓋を作るということは一切なかった。その中でも、とりわけ仲が良かったのは「中村のお姉ちゃんたち」でした。話を元に戻します。

驚いたぼくは、反射的に祖父に訊きました。「どうして?」。一瞬、祖父の手がぴたりと止まりました。

「あそこは、アカだから」
「アカってなに?」

祖父は、問いかけに答えようとはせず、なにごともなかったかのように味噌汁を口に運びます。呆気にとられたぼくは、家族全員を見わたしました。すると、祖母も両親も叔母(叔母は結婚前で同居していたのです)も目を伏せたまま、深海魚のように身じろぎもしない。子供心にも、自分は訊いてはいけないことを訊いてしまったことに気づきました。それ以降、「中村家にまつわる」話題は一切語られることなく、またひとつ、新しいタブーが家族に追加されました。

その後も(以前ほどは大っぴらではないにしろ)、ぼくはあいかわらず中村姉妹と遊んでいたし、それを咎められることもなかった。その一方で、祖父の口をついた「アカ」という言葉は、まるで焼印のようにくっきりとした輪郭をもち続けたままでした。

ある日、学校から帰ってなにげなく中村家の様子をうかがうと、玄関の引き戸が、開けっ放しになっていることがありました。当時は、鍵をかける家はほとんどなく、天気が良い日は窓だけではなく、玄関の戸が開け放たれていることも珍しくはなかったのです。

上がり框(かまち)に手をついて、中をそっと覗き込む。玄関を入ってすぐの階段に、上から下まで新聞がうず高く積まれていた。踏み板の右半分を新聞が占領していたので、昇り降りするスペースは、人ひとりがやっと通れる程度。山積みの新聞は普段から見なれたそれではなく、『赤旗』という題字が、くっきりと印刷されていました。乱雑に積み重ねられた新聞紙の束は、家庭の温もりとは程遠く、けっして裕福とは言えない生活ぶりをいっそう際立たせていました。

ぼくは、中村家の両親が好きだった。

父親は、小柄で小太りで黒ぶちの丸眼鏡をかけていて、頭はイレイサーヘッドのようなきつい天然パーマ。眼鏡の「度」がきついせいで、繊細な表情までは読みとれなかったけれど、いつもニコニコしていた印象があります。黒い腕カバーがトレードマークで、くたびれた白いカッターシャツのところどころに油やインクのしみがありました。いま思うと地方都市の赤旗局員は、記事を書くだけではなく、時には活字を拾い、あるいは輪転機を回すこともあったのでしょう。

母親は、お父さんとは対照的に背が高くすらっとしていて、髪は艶のない「べっちん」で、華やいだ服装をしているのを一度も見たことがありません。まるでウクライナの農婦のような人でした。前掛けを開くと馬鈴薯がこぼれ落ちてきそうな。一度、クワガタに指をはさまれたことがあります。慌てた母親は、僕の手を引き中村家に駆け込んだ。「奥さん! 奥さん!」。泣きじゃくるぼくから、まるで魔法のようにハサミをそっと外してくれたのが、中村家の「奥さん」でした。

やがて自分は、普通に男の子たちと遊ぶようになり、かさ蓋を作り、ズボンを泥だらけにし、そして、中村家の姉妹とはしだいに疎遠になりました。祖父は逝き、深海みたいな食事風景が再現されることもなくなりました。

子供の頃、世界には「影」ひとつなく、すべてが明快で単純なものだと信じ込んでいた。いや、正確に表現するなら、矛盾や禁忌という概念がそもそもなかった。ところが、祖父の言葉をきっかけにして、世の中には人々が進んで語ろうとしないこと、見て見ぬふりをすること、そしてかかわらない方が「無難」な事柄が、いくつもあることを知りました。

このことは、世界を薄汚れたものではなく、そこは自分が想像しているより、はるかに重層的で複雑なこと教えてくれた。4を2で割ると答えは2で、あまりは0という風に世界は必ずしも成り立ってはいない、ということです。

このエピソードが、いまの自分にどんな影響を与えたのかは、よくはわからない。ただし、世界には「あまり」があって、そこから目をそらすべきではないこと。実際の計算であまりが重視されることはまれですが、時として、そのあまりにこそ、大切ななにかがあることを学びました。あまりは、あまりではない。

「イレイサーヘッド」を思い出すたびに、今でも「世界はそう簡単にわりきれるものではないんだよ」と語りかけられているような気がしてなりません。3割る2は1。そして、そこには「1」がひっそりと、それでいて力強く息づいているのです。

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映画『イレイザーヘッド』より(デビッド・リンチ監督、1981年日本公開)

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