和食にされますか、洋食にされますか
東日本大震災から一週間後、とある避難所に「風変わりなレストラン」が出現した。その記事のことをいまもよく覚えている。
「レストラン」の入り口にこんな看板が掲出された。「左の部屋は和食です。右の部屋は洋食です。どうぞ、ご自由にお選びください」。もちろんすべて無料。当時は大混乱の真っ只中だ。和洋どころか食材の確保さえままならない。それだけではなく、調理する燃料にさえこと欠く始末。にもかかわらず、その避難所では、メニューの選択制に踏み切った。一部からは批判もあったという。「この非常時になに贅沢をやっているんだ。食えるだけありがたいと思え!」。
その意見に対して当時の避難所の責任者はこう振り返っている。「たしかに食料も燃料の確保もままならない。和洋と言っても本格的なものとはほど遠い。食品ロスが生じる可能性もあります。こんな悠長なことをしてていいのだろうか、という自問自答もあった。けれども私たちは、被災した方々が当然のように、さあありがたく食えと我慢を強いられる風潮に、強い違和感を感じていたのです。自由を作る、という言い方は大げさに聞こえるかもしれませんが、選べること、それによって傷ついた人々の気持ちが多少なりとも癒されるのなら、それは、私たちはあなたたちとともにいる、という無言のメッセージなるのではないでしょうか」。
災害が起こると避難所や自治体宛に使い古された、場合によっては洗濯すらされていない衣料品が送られてくることは珍しくないという。「シェア」とはなんだろう。それを考えるたびに、この記事を思い出す。
非常時なのだから我慢しろ。非常時だからこそ人権を守らなければ。どちらも一理ある。すべてに人命が、現実が、優先されるのもたしかだ。それでも、と思う。そういう時だからこそ、私たちが他者を本当はどう思っているかが問われるのではないか。人間の尊厳、人権というほど大げさなものではないのかもしれない。それは、つまり、「想像力」なのだと思う。※painting:Peter Doig