原 伸明「茶の伝道師」
1.お茶の産地・静岡
年間生産量は29,500トンにも及び、日本一のお茶の産地として知られる静岡県。
全国の約4割が県内で生産されており、街中の至るところに「お茶」の看板が掲げられている。
そのひとつ、「熊切商店」は静岡県藤枝市でお茶のブレンド・販売をしている店舗だ。
「蒸し時間が違う茶葉をブレンドすることにより、一煎目は深蒸しメインの味と色を味わうことができます。形がある茶葉は徐々に葉が開いてきて味を出すので二、三煎目までお茶を楽しめる『三剪一体』の茶葉がうちの特徴なんです」
そう話すのは、この店の代表取締役である原伸明(はら・のぶあき)さんだ。
2017年に三代目の代表取締役に就任した原さんだが、実はその半生は「深蒸し茶」のように実に濃厚なものだった。
2.父は調理師だった
1971年に2人兄妹の長男として生まれた原さんは、両親が共働きで忙しかったため、週末になると藤枝市にある祖父母の家へ預けられていた。
「父は長野県下伊那郡高森町の出身で、16歳から知り合いを頼って静岡で板前修業をしていたんです。昔は結婚式や葬儀の専門式場がなかったから、部屋を借りてそこに集まった人たちに仕出し料理を出すのが父の仕事だったんです。雇われだったんですけど、母も同じ会社で働いていました」
料理の仕入れも任されていたという原さんの父親は、朝5時には仕入れで市場に出かけていた。
父親が帰宅したときには、原さんが学校へ行っていたため、父とはすれ違いの毎日だったようだ。
「何度か早起きして市場へ連れて行ってもらったことがあったんですが、それが父との唯一の交流することができた時間でした」と当時を振り返る。
両親が土日も仕事だったため、週末になると、原さんは妹とともに藤枝市の祖父母宅へ預けられていた。
静岡へ戻る父の車の後部座席にマットレスを敷いて、妹と一緒に眠たい目をこすりながら横になっていたのは良い思い出のようだ。
3.野球少年だった、あの頃
原さんが子どもの頃といえば、「学童野球」が盛んな時期で、小学校3年生からはソフトボールに熱中した。
中学校でも野球を続け、卒業後は野球の名門校だった静岡県立静岡商業高等学校へと進学。
「友だちのお兄さんがここの高校で野球をやっていたのと、両親の背中を見て育ってきたので、小学校の頃から『仕事をするんだったら商業の勉強をしたほうが良いんじゃないか』と思っていたんです。ただ僕は体格が小柄だったこともあって、硬式野球部だとついていけないことは分かってたから、軟式野球部に入ったんですよね」
「そもそも軟式野球をやっている高校自体が少なかったんで、まず県内で優勝しないと監督にめちゃくちゃ怒られるんです」と笑う。
東海大会ではベスト4の成績を残すなど、3年間野球に専念した高校時代だった。
進学コースの1期生だった原さんは、3年生のとき担任の先生から「大学へ行かなかったら後悔するから行っときな」と声を掛けられ、進学を決意。
成績も良かったことから、指定校推薦枠で中京大学商学部へ入学することができた。
「高校まで野球をやってたんで、バブル期だったこともあって、大学へ入ってからは遊んでいましたね。4年間、食事付きで風呂とトイレは共同という六畳一間の下宿生活を送っていました。下宿に駐車場がなくって車は買えなかったから、代わりにバイクの免許を取って、よくツーリングに出かけていました」
母方の叔父が医薬品卸売・製造会社に勤務していたこともあり、「将来は人のためになる仕事に就きたい。薬で病気の方を手助けしたい」と医薬品卸会社へ就職することを決めていた。
目当ての会社から内定をもらい、卒業後はそこで働く予定だった。
4年次の11月には教員免許取得のため教育実習に出向き、慣れない授業やそのための指導案づくりで随分と苦労していたようだ。
「ストレスで体重が2週間で6キロも増えて、昼はオニギリを6個も食べるほど爆食になっていたんです」
4.病は、突然に
そんな教育実習のあと、突然悲劇は訪れる。
下宿先で体調が悪くなり、食事も喉を通らず、お粥を口にするようになった。
歯を磨いていたとき、急に吐き気を催し血反吐を吐いてしまった。
すぐに通院していくつかの病院で検査してもらったところ、大腸にたくさんのポリープが見つかってしまう。
「その数が尋常じゃなかったんです。僕にとっては、初めての検査で全部画面がボコボコしてたから『なんだ、普通じゃん』と思って眺めてたら、それが全部ポリープだったんです。その日は1993年12月25日で、帰宅したらアナウンサーだった逸見政孝さんの訃報が速報で流れてきたんです。『俺も、もう駄目かもな』と思いましたよ」
病名は、家族性腺腫性ポリポーシス(家族性大腸腺腫症)で、100個以上のポリープが発生する場合にそう呼ばれるそうだが、原さんの大腸にはなんと700個ものポリープが発見された。
遺伝性と考えられるが当時は医療が現在のように発達していなかったため、はっきりとした原因は不明のままだった。
さらに、手術をすると一生「人工肛門」にしなければならないとさえ言われていた。
まだ22歳だったこともあり、主治医が色々と調べてくれた結果、学会で試験されたばかりの新薬を試してみたところ、ポリープの肥大を抑えることができたようだ。
以後は、薬を服用しながら半年に1度、内視鏡検査で経過観察を行い、1センチ以上大きくなると癌化する危険性もあったため電熱線で切除するということを繰り返した。
5.20時間の大手術
「半年にいちど検査をして1週間入院する必要があるから普通の会社で働くことは難しいのでは」と主治医から告げられ、泣く泣く就職を断念。
定期的な検査入院のために時間の融通がきく会社として自営業に目をつけた原さんは、母方の再従兄弟(はとこ)が経営していた「熊切商店」に入社したというわけだ。
「そういうわけで、やりたくて始めた仕事じゃないんです。僕が高校の頃は、お茶屋さんが儲かっていた時代で、バイトとして働いていたこともあったから、ある程度の経験はありました。病気の方は、27歳になったときに、ポリープが『フタコブラクダ』のように2つが重なり合って大きくなってて、下の方まで焼き切ると大腸に穴を開けちゃう危険性もあるからってことで、23年前に大腸を全て摘出する手術を行ったんです。腹を開けてみたら、思ったより大腸が長くって、小腸と直腸を繋げる手術だったんですが、20時間もかかりました。小腸と直腸の長さがギリギリだったので、完全に縫合するまでは人工肛門にしなきゃいけなかったんです。目覚めたら人工肛門になってましたよ」
幸い、半年後に人口肛門をふさぐことができ、現在は便を貯める器官がないので、一般の人よりは便の回数が多くて下痢をしやすい程度だという。
ところが、原さんはそうした困難に直面してもふさぎ込んではいない。
2年後からは、茶の繊細な違いを見極める「闘茶」のコンテストである全国茶審査技術競技大会などさまざまな大会へ出場し、茶匠としての腕を磨いてきた。
「個人商店なのですが、大会では大手企業の人たちとも対等に渡り合えることが嬉しかったですね。自分が良い成績を収めれば、それだけお店の注目度もあがりますから。大会へ出ているうちに、お茶の奥深い世界へのめり込んでいった感じです」
核家族化が進み、家族が集まってお茶を飲む機会は少なくなった。
何より水が美味しくなり、さまざまな飲料が世の中に出回るようになったこともあって、急須でお茶を淹れる文化は希薄となり、お茶業界全体は下火になっているのが現状だ。
そうした逆境においても、原さんはみずからを研鑽し高めていくことで、この危機に挑み続けている。
市場に出ているお茶を厳選して仕入れ、加工をしてお互いの良さを引き出し合うようにブレンドして販売するというのは、先代から受け継いだ技術のひとつだ。
原さんはこれを惜しみなくSNSで公開し広めていくことで、業界全体の盛り上げを試みている。
6.いま、この瞬間を大切に
私生活では、26歳のときに6歳下の妻と結婚し1人息子を授かった。
ところが27歳のときの大腸摘出手術で生殖機能に障害が出てしまい、精子を出すことができなくなったようだ。
やがて妻は遊びに出かけるようになり、離婚。
その後、前妻は再婚し、別の男性との子どもをもうけた。
原さんは、その姿を見て、子どもの将来を考え、子どもに会うことを辞めた。
2011年には、同じく6歳下の女性と再婚することができたが、彼女の胃がんが発覚し、39歳のときに原さんを残して他界してしまった。
このように人生において、数々の試練が訪れている原さんだが、「過去を振り返っても現実は変わらないので、いまある場所で頑張るしかないんですよね。そのとき良いと思った方向へ進むように一生懸命に生きるだけです」と教えてくれた。
原さんが語る「いま、この瞬間を大切にする」という思考は、まさにマインドフルネスの考えだ。
現在、このマインドフルネスの多くは、瞑想法が中心となっているが、実は「お茶を飲む」ことも、こころを整える効果がある。
平安時代末期に、臨済宗の開祖である栄西禅師が中国で入手した茶の種を持ち帰って栽培を始めたことが、日本で茶を飲む習慣が広まるきっかけになったとされているように、当時のお茶は嗜好品ではなく、健康のための貴重な薬であり、こころを落ち着けるための道具だった。
そう考えると、ストレス過多な現代社会において、気軽にこころを整えることができる手段として、いま改めてお茶の重要性に僕らは気づくべきなのかも知れない。
きっと原さんは、そうしたお茶の楽しみ方や遊び方を教えてくれる人なのだろう。
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