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友人Xの逆鱗。 (短編小説)

私には昔から仲の良い友人が一人だけいる。私にとって唯一の友人と言っても過言ではない存在である。

だが先日、そんな友人と一悶着あった。今回はその一件について書き記したいと思う。ここでは仮にその友人を「X」と呼ぶことにする。

Xはとても優しい日本の男である。言動や行動、雰囲気など全てが優しさに包まれており、怒った姿を一度も見たことがない。まさに優しさの権化のような存在である。

私は小学生の時、友人が一人もおらず少々寂しい思いを抱いていた。そんなときに、Xは唯一私に話しかけてくれて、なおかつ友人にまでなってくれた。私は嬉しかった。本当に嬉しかった。

今は共に同じ高校に通い、運良く席も前後であるためよく喋っている。その時間はとても楽しい。


そんなある日、私は一時間目の授業が始まる前に、消しゴムを忘れてしまったことに気づいた。昨日、宿題を夜中までやっていて、朝急いで支度をしていたらそのまま机の上に置いてきてしまったようである。なんたる不覚。無念であった。

私はやたらと几帳面なところがあり、忘れ物をすることなどほとんどなかった。いつもきちんと家を出る前に持ち物の確認をしていたのに、その日はそれを怠ってしまったのだ。自責の念が積もり積もって私を覆い尽くしていた。

だが、もうしょうがない。忘れてしまったことを嘆いていても何も現実は変わらない。そう思い私は冷静に苛立ちを鎮めた。昔であれば、誰かに消しゴムを借りる勇気はなかった。でも、今は友人のXがいる。私はXに消しゴムを借りようと考えた。

先ほども言ったがXとは席が前後であり、私の前にXが座っている。だから、消しゴムが一個でも授業中に少し借りるぐらいなら大丈夫だろう、などと完全に高をくくっていた。

私はXに話しかけた。

「X君、今日消しゴム忘れちゃったから貸してくれない?」

「・・・」

すぐには返事が返ってこなかった。顔も前に向けたままである。なにか悪いことを言ってしまったかと己の言動を振り返って見るも、特に問題点は見当たらない。私はもう一度Xに話しかけようとした。

その時。

「消しゴムはアカンねんっ! 消しゴムだけはアカンねんっ!!」

Xは突然キレた。突然キレて、凄まじい形相で私の方に振り返りそう叫んだ。Xの怒声は教室中にこだました。突如叫んだ関東人Xは、ふっと我に返り静かに前を向いてうつむいた。

私は呆然とした。周囲の人達も驚いていた。いや、気圧されたと言うべきかもしれない。いつも優しいXだったからこそ、まさかこんなにキレるとは誰も思いもしなかった。

その後、私はなんとなくそれ以上Xに話しかけることができなかった。周囲もなんとなく静かになっていた。


結局、私は他の人から消しゴムを借りる気にはならず、消しゴムなしで授業に臨んだ。なぜか分からないけど、消しゴムが手元にないというだけでなんだか落ち着かない。それにやたらと誤字が生じてしまう。その誤字があまりにも気になって仕方がなかった。

次の休み時間、私は思い切ってXに事の真相を尋ねてみた。

「さっきはなんかゴメン。消しゴム貸すのそんなに嫌だった?」

私は内心ビクビクしていた。また、Xを怒らせてしまうのではないかという考えが脳裏に充満していた。だが、Xは静かに振り返り、こう答えた。

「いや、俺の方こそゴメン。なんか俺、昔から消しゴムのこととなるとついカッとなっちゃうんだよね…..」

そう言ったXは本当に申し訳なさそうな顔をしていた。先ほどの凄まじい形相は跡形もなくなり、いつもの優しさの権化のような雰囲気を取り戻しつつあった。

「でも、なんでカッとなっちゃうのか自分でもよく分からないんだ。消しゴム以外だったら全然大丈夫なんだけど。ホントにゴメン…..」

それを聞いた私は素直に「なんで消しゴムだけ!?」と思った。消しゴムだけは勘弁して欲しいという、そんなマニアックな欲求など今まで聞いたことがない。

しかも、理由は本人ですら分からないという。本当に理由なき怒りなのか、それとも何か特殊な事情により理由を言いたくないのか。謎はますます深まるばかりであった。

だが、理由がなんであれ、嫌なものは嫌なのだろう。相手が嫌だと言っているのに、しつこく理由を尋ねるなんてそんな野暮な真似はするべきではない。そう思った私は、溢れ出そうになる疑問を己の内側にグッと押さえ込んで、Xにこう言った。

「まあ、なんというか、人の数だけ悩みがあるというか、皆それぞれにいろんな事情を抱えて生きてるのが人間ってもんだよね。今後は気をつけるよ。だから、これからも仲良くしましょうぜぃ」

Xはいつもの優しい表情を完全に取り戻し、笑顔で頷いてくれた。その後、私はXとまたいつもと同じように楽しく話すことができた。消しゴムは借りられなかったけど、もうどうでもいいやと思った。間違えたら間違えたでいい。テストじゃないんだから別に消さなくたっていいんだ。

その日、几帳面な私のノートに初めて、書き間違えた文字がそのまま書き残されていた。今までだったら気になってしょうがなかったその文字も、なんだかとても愛おしく見えた。


人間には誰にだって触れて欲しくないところの一つや二つはある。もっとたくさんある人だっているだろう。それがXの場合、理由はよく分からないけど「消しゴム」だったというだけだ。

一体なぜ「消しゴム」なのか。そんなに愛着のある物だったのか。理由なき怒りとは一体何なのか。今でも疑問は尽きない。だが、疑問は疑問のままでいいのである。

私が消しゴムを借りようとしたことが、Xを嫌な気持ちにさせてしまった。温厚なXをキレさせてしまった。それ以上でもそれ以下でもないのだから。

人間とはなんとも不完全な生き物である。完璧な人間などこの世には存在しない。だが、その不完全さが、人間という生き物の素敵なところでもある。不完全を受け入れよう。我々にはきっとそれができるはずだ。

誤字にまみれたノートを眺めながら、私は静かに不敵な笑みを浮かべた。

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