見出し画像

過去旅行

最近ずっと忙しくて実家に帰っていなかった。
娘を出産し、ある程度遠出もできるようになったので実家に遊びにきた。
娘は伯母に遊んでもらって楽しそうだ。
私と旦那は両親にアルバムを見て思い出話に花を咲かせていた。
すると、短期大学の卒業アルバムが出てきた。
今思えば自分の人生にとって大きな転換の始まりとなった短大生活、あまりにも色々とあったので思い出したくもなかったが目にすると思わず思い出してしまった。

短大は医療系の国家資格を取得することが目的の学校だった。
勉強は得意ではなく追試を受験したりと、綱渡りの学生生活だった。
なんとか国家資格も取得し、希望していた就職先からも内定をもらった。
しかしこの就職先でこの世のどん底を味わうことになった。

新卒

就職先では、緊張をしていたが良い先輩に恵まれた。親子関係というシステムで、新入社員に先輩が1人付き仕事を教えるというシステムだった。
付いてくださった先輩はとても良い方で、親切に教えてくれたがとても忙しい方だった。代わりに一番歳が近い人が仕事を教えてくれることが多かった。

その先輩は職場で有名なよく言えば口調が強く、悪く言えば口が悪かった。
メモを取る隙も与えないほど早口で、あとでまとめてメモを取ろうと思っても「なんでとってないの」と言われた。「なんでトロいの。」「バイトしてなかったの?」「二度と説明させないで」とも言われた。
ただでさえ緊張しているのにも関わらず、強い口調で言われることでどんどん悪循環に陥った。そのストレスで会話もできず、笑うこともできず、何をしても失敗をしてしまうようになった。たった1人新卒で配属される職場にしては汚く、臭いという環境も最悪だった。
他にも優しい方もいたが、本当に相談ができなかった。その先輩と仲良くしている姿を見ているからだ。相談なんてできなかった。
やがて、ストレスで職場で昼食を食べれなくなってしまった。全員怖くなってしまった。
しかし、まだ実家で暮らしていたので昼食を持ち帰ることもできず帰路の駅のトイレで泣きながら食べた。

ある時から、会社に出勤するときに涙が止まらなくなってしまった。なんとか止めて出社していたが、止まらなくなってしまった日があった。
私はSNSの世界に助けを求めた。家族にも心配をかけてしまうからと相談できなかった。藁にも縋る思いだった。
SNSに投稿したあと、メッセージが帰ってきた。知らない人だった。
「会社に休むように電話をしなさい。そのあと電話しよう。」
顔も性別もわからない赤の他人に頼るなんて今思えば考えられないが、それに従った。職場に休むことを電話して、メッセージをくれた人に電話した。
何を話したかは覚えていない。その人ともそれっきりで電話もしていない。ただ、その人のおかげで電車のホームには飛び込まなかったし、心療内科のある病院に駆け込んだ。
そこで「自律神経失調症」と診断された。

治療

その場で薬をもらい、1ヶ月休職することになった。職場には病院から言ってもらい実家には自分の口から言った。
今日自分は会社に行かなかったこと、心療内科の病院に行ったこととそこでもらった病名と1ヶ月休職する必要があると書いてある紙を渡した。
すると、いつも優しかった父親がみるみるうちに顔が鬼瓦のようになりその場で本社に電話した。聞いたことのない声量と言葉で電話先の人を怒鳴っていた。
母は私と一緒に泣いていた。
私は1ヶ月休職することになった。

病院でもらった薬を飲みながら、治療を行った。
最初は起き上がることも難しかったが、だんだんと起き上がれるようになった。
やがて散歩に行くようになり、家の近くに美味しそうなマフィン屋さんがあることを知った。それを母のお土産に買って帰った時は自分の回復を感じた。

まだまだ覚悟を決めきれないまま1ヶ月が経った。本社から連絡があった。
「復帰するかどうか決めてほしい」
自分は復帰することを決めた。何かを新しく始めるにもお金が必要だと感じたからだ。
本社からこう言われた。
「異動先を整えるからもう少し待っててほしい」
自分ははいと答えた。
その時あるリミットを決めた。「5年」あと5年で何か希望を見出せなかったら全てを終わりにしよう。
自分は生傷を抱えたまま職場に復帰することになった。
約1ヶ月半の休職だった。

出会い

新しい職場は明るく綺麗で臭くなかった。
いい人ばかりで、とても楽しかった。
しかし前の職場の近くなのでいつもドキドキしていた。
この職場で今のパートナーと出会った。いつも気にかけてくれて自然と仲良くなった。
良い職場だったが、元は同じ会社のため自分と会社の間に大きな考えの差があることをはっきりと感じた。
その一つに「休職明け=自律神経失調症の完治」と思っているような振る舞いがあった。しょっちゅう前の職場にお使いを出された。何年経っても深く息を吸って心を落ち着かせて入らないと涙が出そうだった。
しかし、前の仕事よりとても楽しく長く続けた。
そこでタイムリミットの5年が近づいてきた。
その間に治療薬もやめ、一人暮らしをするまでに回復していた。
そんな時に短大の同級生から連絡がきた。

その同級生とはとても仲が良かった。良い面も悪い面も切磋琢磨した仲だった。
そんな彼女から「転職した」と連絡があった。
彼女は医療界を出てエンジニアとして働いていた。とても楽しそうに生き生きとしているように見えた。
私は「自分もやりたい!」と思い次の瞬間にはノートPCを買い、彼女の通っていたオンライスクールに入学した。

挑戦

そこから、朝4時に起きて出勤前に勉強し帰宅後にも課題をするという生活を続けた。
ここで向いてなかったらこの道は諦めようと思っていたが、どんどんハマっていった。
この生活は今までよりも格段に忙しかったが充実していた。
パートナーの家に遊びに行く時もPCを持って行き、課題をしていた。
一つずつ課題が終わるにつれて「転職」のふた文字が脳裏によぎった。

この時から、同級生に仕事について聞いたり情報を集めていた。そして、会社に「この月に辞めます」と宣言した。
会社はそれを本気にせずどんどん仕事を任せてきたが、私は本当に退職した。

妊娠と出産

退職後、妊娠が発覚した。想像していなかったし子供なんて考えていなかった。
だけど病院で元気に心拍を刻んでいるその姿はとても愛おしかった。
まだ結婚していなかったパートナーも驚いてこそいたが、喜んでくれた。
産むことに決め、転職は少しの間お預けとなった。
入籍は2人で相談しその年の一番縁起のいい日に入籍することに決めた。
この時パートナーも会社原因で病気となり仕事を辞めていた。
貯金もあったのと、義母からの援助でこの妊娠と出産を乗り越えることになった。

当時は減っていく貯金と大きくなっていくお腹、出産後待ち受けている転職を考えると頭が痛くなった。ただそんなことよりもパートナーとの仲を深め、お腹の中の子にも愛情を注いだ。
私は出産後働き、パートナーは家に入ることに決めていた。元々そういう予定だったからだ。なのでお腹の子にパートナーの愛情が向くよう努めた。男性は妊娠できないためお腹の子がいると頭では分かっていても体で感じることはできない。
なるべく生活の中心にお腹の子がいるようにその場にいるように努めた。
そして臨月になった時私は、パートナーに「もし私か赤ちゃんしか生き残れないようだったら赤ちゃんを選んでほしい」と告げた。その夜は2人で泣いた。

出産した日はサッカーでスペインに日本が勝った日の翌日か当日でとてもよく晴れていた。
あとで軽く難産だったと言われたが、14時間を超えて生まれてきた我が子は同じ日に産まれた周りの子より一回り大きくて元気でもう一生分の親孝行をしてもらったような気分だ。

でもこの時パートナーも相当な覚悟があったと思う。
私よりは家庭向きで家事も料理も掃除も得意だったが子供とは無縁の生活だった。
そんな時に妊娠されて相当驚いただろうに、嫌な顔せず献身的に私を支えてくれた。
ペーパードライバーだったのが、練習したり先生に教えてもらったりで今では随分と上手になった。出産後も離乳食をほぼ全て手作り、今では私よりも母親をしている。
そして私は父親のように振る舞っている。

転職

私は、産後1ヶ月で転職活動を始めた。何からしていいか分からず、手当たり次第に面接した。その数は20社近くあったと思う。
そして割とすぐに今勤めている会社に転職が決まった。
今は外に出ずとも面接までできるので本当に便利だ。転職アドバイザー的な人がいるともっと心強かっただろう。
その後も色々あったが、本当に職場に恵まれて今ではほぼ在宅の職場で勤められている。

そこでアルバムから目を上げた。
そこには楽しそうな娘とパートナーという自分の家族の姿があった。
ああ、なんて幸せになったのだろう。
あの全てを終わらせようとしていたタイムリミットなんてとうの昔に過ぎてしまった。
こんなに見える世界が住む世界が変わるなんて思ってもいなかった。

「これからもよろしくね」
誰にも聞こえないくらい小さな声でそっと呟いた。

いいなと思ったら応援しよう!