掌の物語 ショッピングモール(3)
秋の薔薇(完)
由紀子はショッピングモールに向かう足を止めた。
認知症が治るということはないらしい。何かの本で読んだが、認知症になったら、その人本来の性格が出てくるのであって、もともとなかったものは出て来ないと。
夫は時々切れるタイプだった。結婚してすぐ気づいたが、女が離婚などしたら、謗られ、蔑まれ、陰口を言われる時代だった。老いた両親のためにも、これぐらいは堪えるしかないと思った。ちょっと怒りっぽいだけだ。これぐらいは……。
今更、何を思ってもせんないこと。過去はどうでもいい。
いずれにしろ……
人生は1パーセントほど幸せなことがあって、99パーセントは不幸の連続。それでも、生きているから幸せな1パーセントを経験できる。その1パーセントのために元気で生きていたい。
夫はもしかして施設を出されるかも。家に帰って来ないうちに……。
由紀子は立ち上がった。
会いに行こう、あの人に……。
年賀状を交換しているだけ。私の想い人。妻を亡くして独り暮らし。高原で野菜を作っているから遊びに来てください、と近況が。
年賀状の写真では白髪の品の良い老人になっている。会おう!ちょっとだけロマンチックを夢見たい……。
由紀子は引き返した。
今から新幹線に乗れば夕方までには着く。何かの時のためにと旅支度はしてある。場合によっては施設の傍に泊まり込むことになるかも知れないから。
「今日はウォーキングは?」隣の女性が腰をかがめて挨拶する。「ちょっと息抜きに温泉に。明日には帰ります」「ゆっくり楽しんで来てください」
女性は笑みを浮かべた。何も詮索しない。
由紀子の足は速まる。会えるかどうか分からない。彼が今、健康かどうかも。もしかして入院しているかも。いえ、施設にいるかも知れない。今年の正月に元気だったとしても、今は、秋。老いたわたしたちに明日がいつまであるのかは分からない。
あのショッピングモールでお弁当を買って、近くの地下鉄からO駅へ向かおう。由紀子はいつもの横道に入る。
一日でもあそこに立ち寄らないと何かが足りなくなる。そう、あそこは私の酸素ステイション。酸素をたっぷり吸える場所……。
由紀子は鯛めし弁当を買った。たまには贅沢をしたい。彼には、向こうは自分が彼だとは思ってはいないかも知れないけれど、手土産何にしよう。ここで一番高価な贈答用のチョコレート、薔薇の包み紙が綺麗……これにしよう。
ほんのちょっとでもいい。楽しい夢を手にできたら、崖から落ちてもいい。それが私の人生なら……。
車窓から遠くの青い山々を眺めながら、お隣さんや娘一家を思った。素敵なお土産を買おう。あの人の住んでいるところにはどんなものがあるだろう。
弁当を広げる。コロナ蔓延下の列車はがら空きだった。(了)