コロナ汚染による人類のストレス、人類の覚悟が試されている 竹内敏
竹内敏さんはぼくの大切な友人だ。彼は品川の児童館に席をおく教師であったが、その児童館を拠点にして品川区一帯を巻き込む大きな少年団活動を生み出した。そして早期退職して大森の廃校になっている学校を蘇生させた。市民が、市民のための、市民がつくる学校が誕生したのだ。そしていまは静岡県の春名町で農夫になって、毎日驚くべき記録を残している。彼が五月一日に刻み込んだ記録を転載してみる。
その日に打ち込んだ記録では、彼は私たちにこう呼びかけている。
《コロナ汚染による人類のストレス症候群に対して、自然はなんと寛容にして癒し効果を発散してくれているのか。地球はいま、舞台は街ではなく自然豊かな田舎であることをコロナ君は示唆しているのかもしれない。経済成長万能主義の時代は破綻した。人間らしい豊かさとはどういう暮しなのか、生きるうえでの最小の必要条件さえ満たされればいいじゃないか。コロナ君はそんな根底的な転換を絶叫しているのかもしれない。》
五月一日の記録
コロナ支配下の大型連休。自宅籠城を覚悟してまずは食料の買い出しへと都会へ出かける。その力んだ覚悟を融解するかのように、周りの花や自然がわが心と伴走してくれる。
途中の狭い国道法面には、花色が濃い赤紫色の「ヤブウツギ」(スイカズラ科)が顔を出す。成長が早く枝が密生してしまうので「藪」がつく。そのためか、花としての華やかさが今一つ。日本海側に多い「タニウツギ」は花色の薄ピンクが見事で人気がある。その仲間の「ハコネウツギ」も魅力的だ。一方、川面に映える「ヤブウツギ」は絵になる。
五月の連休と言えば、「フジ」の薄紫色が樹木のてっぺんを占有するという巧みな戦略家の顔を見せる。道路際のフェンスにも侵出していたのでその華麗な花を身近に鑑賞できた。
フジには、右巻きの「フジ」(ノダフジ)と左巻きの「ヤマフジ」(ノフジ)がある。巻き方は一見しただけではわかりにくい。むしろ、花序をみたほうがいいかもしれない。「フジ」の開花時は上部は全開しても下部は蕾のまま、長く下垂する。「ヤマフジ」の開花時は蕾は残らないし、花序も短い。したがって、国道沿いから見られるフジは、「ヤマフジ」がほとんどということになる。
花ばかりではない。いつもは杉や檜の針葉樹ばかりに慣れてしまった景観のなかに、この時期こそ自己主張を始めたシイノキらの照葉樹林の淡褐色の若葉がいい。最近、照葉樹林が山の中にけっこうあるのを再認識させられる。
季語に「椎若葉」というのがある。「椎若葉 湧くがごとくに 微笑仏」(上野さち子)という俳句が似つかわしい。もこもこと膨らむような景観をもっと再評価してもらいたいくらいの生命力だ。春は山の若葉が見どころだ。その色の転移の目撃こそ短い春を吸い込むチャンスでもある。
毎年、定点観測もどきをしている「ジャケツイバラ」の蕾を発見。連休明け10日以降が花の見どころ。棘の鋭さも見逃せない。コロナ汚染による人類のストレス症候群に対して、自然はなんと寛容にして癒し効果を発散してくれているのか、頭が下がるばかりだ。だから、部屋の人工的な空間に閉じ込められるのではなく、「街を捨て、スマホを捨て、自然の体内に行こう」ということだ。
「街を捨て、スマホも捨て、書を持って、田舎に出よう」ということこそ、人類の覚悟が試されている。地球はいま、舞台は街ではなく自然豊かな田舎であることをコロナ君は示唆しているのかもしれない。経済成長万能主義の時代は破綻した。人間らしい豊かさとはどういう暮しなのか、生きるうえでの最小の必要条件さえ満たされればいいじゃないか。そんな慎ましい「いいじゃないか」運動が必要な時代になったことを覚醒しなければならない。コロナ君はそんな根底的な転換を絶叫しているのかもしれない。
森とまちをつなぐ「半農半X」日記 より転載
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